宮本正清(1898-1982)フランス文学者・詩人。長宗我部慶親(ちょうそがべよしちか)の筆名もあり。
明治31年8月16日、高知県の山間部、長岡郡上倉村奈路548番地(南国市奈路)に庫太、伊佐衛の長男として生まれる。
明治44年奈路尋常小学校卒業。白木谷高等小学校1年で退学。父の農業の仕事を手伝い、かたわら青年会支部長、夜学会長など務める。幼くして『福翁自伝』を愛読するなど読書、勉学好きな少年で母の理解により、大正3年、台湾総督府勤務の長宗我部重親義叔父、慶喜叔母に連れられ台北に赴く。
大正4年台湾総督府台北中学校編入試験に合格、第2学年に入学。台北で島村抱月の講演を聴いて文学を志し早稲田進学を決意する。
大正5年、重親の事情で神戸に移り、関西学院中学部編入、8年同校卒業。大正8年、早稲田大学予科入学。大正10年早稲田大学文学部仏文科入学、この年父庫太死去。大正13年吉江喬松教授の指導のもと近代フランス文学を学び、わが国で初めて卒業論文にロマン・ロランを取り上げる。
大正13年から15年まで大学院で研究、在籍の傍ら早稲田フランス文学会及び同大学専門部で仏語仏文学を講ずる。大正15年五代欣造教授から紹介されたフランス人の地理学者で日仏会館研究員のフランシス・リュエランの助手として論文など翻訳する。大正15年(1927)、リュエランとともに関西日仏学館(財団法人日仏文化協会)設立に参画する。
昭和2年同設立とともに書記長(のち主事)兼教授となる。昭和7年(1932)兵庫県出身加古廉と結婚。一男二女を授かる。
昭和11年日仏文化協会評議員、昭和12年立命館大学予科講師。昭和14年立命館大学予科教授、昭和16年日仏文化協会理事。昭和17年立命館大学教授。昭和19年春ごろから妻廉身体の不調をきたす。京都北白川から府下亀岡市北古世へ疎開、昭和21年に至る。
昭和20年6月15日、京都市中立売署へ強制連行,拘禁される。敗戦後8月16日に釈放される。妻廉病状悪化(肺結核)自宅療養。
昭和24年6月日本ロマン・ロラン友の会設立に加わる。片山敏彦委員長、副委員長に就任。
昭和25年(1950)大阪市立大学教授(仏語・仏文学)。仏国政府に戦後最初の大学教授として招聘され、ロラン未発表文献調査、米国経由で昭和27年帰国。昭和30年、妻廉死去。
昭和35年、インド政府から招待される。昭和36年、日本ロマン・ロラン友の会委員長。昭和37年大阪市立大学定年退職。昭和42年愛媛県出身日野エイ子と再婚。昭和44年京都精華短期大学教授。
昭和46年(1971)私財を投じて財団法人ロマン・ロラン研究所を設立して理事長。昭和47年京都日仏協会会長。昭和47年京都精華短期大学長、その間、初めて大学で漫画学科を設立認可される。昭和52年理事長に就任。「ロマン・ロラン全集」全43巻の約半数を翻訳、大作『魅せられたる魂』は戦前岩波文庫で刊行、戦時中は伏字の出版,戦後何度も版を重ね改訳複数の出版社から刊行。詩集『生命の歌』『焼き殺されたいとし子らへ』のほか著作、訳書多数。
日仏交流への貢献に対し、仏国政府から昭和49年の大学教授として最も名誉あるレジオン・ドヌール(オフイシエ)まで戦前から4回受章。郷里、高知県育英協会常務理事、京都土佐塾塾頭、高知女子大学でも集中講義を重ねる。
5年の闘病生活ののち昭和57年11月16日肺結核で死去。京都市営大日山墓地で眠る。