活動記録
ACT
『第280回読書会レジュメ「内面の旅路」4(「Ⅲ.家族の樹」)』発表者 黒柳大造さん
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『第280回読書会レジュメ「内面の旅路」4(「Ⅲ.家族の樹」)』
『参考書籍紹介「小尾俊人先生の新刊「昨日と明日の間」(幻戯書房)」』
発表者 黒柳大造さん
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第280回読書会レジュメ 「内面の旅路」4(「Ⅲ.家系の樹」)(2009.11.21) 黒柳
本章では、ロランを育みロラン思想の源泉となった彼の先祖達が紹介されている。
ロランは自分の思想を先祖達(父方ロラン家、母方クロー家)により受け継がれてきた結実((永年の努力の)収穫、思考する血脈の総計(いずれもP315))と位置づけている。
●コラ・ブルニョンに例えられる楽天的、人生肯定的な一族の人々●
(1)エミール・ロラン(父)
・楽天性と率直さがロランの一族の中でも際立った人物。
・自分の望まない境遇に直面し続けたが、それらを楽天的に受容。
→妻の意向で息子のために安定した地方公証人の地位を棄ててパリに移住、など。
・異なる思想の持主も包み込む懐の深さの持主
→思想的に対立する息子や、敵国であるドイツ人も受容。(エミールは愛国主義者)
(2)エドム・クロー(母方の祖父)
・著書「家庭史」やロランへの手紙の文章の素晴らしさはロランに大きな影響を与える。
・生涯を通じて向学心・知的好奇心を保ち続け、生活環境の変化も克服。
→仕事引退後、クラムシーに移り自分の学会設立。パリ移住後も大学等で学問を継続。
病気で外出不可になって以後も、15年間、精神的みずみずしさを保つ。
●「コラ・ブルニョン的」とは対照的な一族の人々●
(1)ボニアール(父方の曽祖父(祖母の父))
・・・コラ・ブルニョン的人生受容の人物ではなく、行動の人物
・政治にも恋愛にも情熱的な人物。フランス革命にも参加。プレーヴ市長なども務め、生涯「軍事独裁制」と対立する政治姿勢を保ち続ける。
・学問にも情熱を注ぎ、生涯を通して科学と自由な宗教精神を追求
(2)マリー・ロラン(母)
・・・コラ・ブルニョン的楽天性とは対照的な、内省的・厭世的人物
・娘マドレーヌの死後、息子ロマン・ロランに過剰ともいえる期待・愛情を注ぐ。
→息子のために安定した地方での生活を棄ててパリに移住、など。
・ロランとの関係は時代毎、テーマ毎変化し、親密ではあるが独立したかたちに進む。
→カトリック信仰に関する姿勢については息子と決別するも戦時中の息子への社会的非難に対しては毅然として息子を支持する、など。
(以上)
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小尾俊人先生の新刊「昨日と明日の間」(幻戯書房)紹介 (2009.11.21) 黒柳
ロマンロラン研究所理事の小尾俊人先生の新刊が発売されましたので紹介します。これまで小尾先生が発表してきた文章をまとめたものになっています。
ロラン関係の文章ばかりでなく、丸山眞男、萩原延壽、バーリン、フランクル、エッカーマン、ゲーテ、・・・、など、幅広いテーマがとりあげられています。
そして一つ一つの文章において実際の交流や体験にもとづく深い考察がなされていて、非常に興味深い書物となっています。
<目次と各章概要>
1 機縁の人びと
丸山眞男、野田良之、萩原延壽、宇佐美英治、高杉一郎、藤田省三などの各氏との交流について紹介されている。
とくに丸山眞男氏との深い交流、萩原延壽氏とのバーリン(東京読書会でも小尾先生が言及)を通した交流が興味深い。
2 著者の書斎、
瀧口修造、片山敏彦、西田長壽、山辺健太郎、井村恒郎、石川淳、生松敬三、野口秀夫などの各氏との思い出について記されている。瀧口修造氏の文部大臣選奨辞退のエピソード、片山敏彦氏が占領軍兵士に対したときのエピソードなど、とりあげられた人物達のひととなりが伝わってくる。
3 戦争と非暴力について
「夜と霧」「ゲバラ日記」「戦争と自由」などのみすず書房で手掛けた書籍を通して、戦争、暴力などに対抗する精神について述べられている。
4 都市と書物と文明
英国、フランス、韓国など、小尾先生自身が訪れそして自身の眼でみた各国の出版界の風景についての紹介と考察が記されている。
5 本と人
山路愛山、田口卯吉についての考察、ユニテに収録されているロマン・ロランについての論文、そして非常に興味深いエッカーマンの「ゲーテとの対話」についての論文、など、さまざまな「本と人」に関する文章が収められている。
(以上)
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第279回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
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『第279回読書会レジュメ「内面の旅路」3(「Ⅱ.三つの閃光」)』
『ロマンロランをめぐる人々-中村星湖』
『ロマンロランをめぐる人々-加藤周一先生の新刊紹介-』
『ロマンロランをめぐる人々-高橋哲哉先生の著書紹介-』
発表者 黒柳大造さん
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第279回読書会レジュメ 「内面の旅路」3(「Ⅱ.三つの閃光」)(2009.9.26) 黒柳
本章では青年期にロランがその思索を深めるステップとなった主要な3つの契機について述べられている。「内面の旅路」前半部分における最も重要な章となっていると考えられる。
<ロランが示す2つの生>
ロランは人間が生きる「生」を2つに区分した上で、その精神・思想である「普遍的な生」を「第二の生」に属するもの/「第二の生」の延長にあるもと位置づけている。そして、その観点から自らの思想的成長の足跡(「第一の生」から「第二の生」への人生における比重の移行)を記している。
○「第一の生」について(P297)
先祖から承け継いだいろいろな構成要素の結合が一定の空間と時間との中で私に着せている人物としての生
=「皮相的(物質的)一時的(有限的)」な生
=人間の実社会における生、一個体としての生。その個人で完結。
○第二の生について(P297)
あらゆる生の息吹であり実質そのものであるところの、顔も名も場所もない《実在》の生
=「持続的(無限的)で深い」生
=★「第二の生」はロランの普遍的な精神・思想(普遍的な生)へつながってゆく。
<3つの閃光>
ロランはその思想的な成長段階として、次の3つのステップを経てきたことを記している。ロランはそれらを「3つの閃光」と表現している。本章ではロランの思想の最終的な到達点は主眼とされていない。
ロランは自分自身が最終的に到達した思想のみでなく、その思想的到達点に至るまでの自己の思索の変遷/精神的成長の過程を記すことにより、自己の精神を立体的に表現しようとしたのではないかと考える。
(第一の閃光)フェルネーの見晴らし台
(第二の閃光)スピノザの燃える言葉
(第三の閃光)トルストイ的な閃光
(1)「(第一の閃光)フェルネーの見晴らし台」について
当時16歳のロランが物理的に見たものはフランス国境地帯の田園風景。しかしロランの精神はここに(それまでは普遍的ものとして疑っていなかった)「国家」というものの限界を見たのではないかと考える。
ヴォルテールが「ガンディード」などで示す個人の精神の尊重(個人の人生の「国家」に比しての優越、「国家」の虚構性)(*1)、ルソーの示す単なる政治機構でしかない「国家」(国家は単なる政治機構でしかなく、世界にはそれ以外/それ以上の概念が存在している。)(*2)、などの思想/その思想の萌芽をロランはここで見つけたのではないかと考える。(*3)
なお、ロランの具体的なルソー観及びヴォルテール観についてはロラン全集第19巻所収の「ジャン=ジャック・ルソー」で参照できる。ロランはルソーとヴォルテールの両者、とくにルソーを重要視し、旧い社会を壊し新しい共和国/革命を導いた役割を評価している。これは表現を変えると、新しい社会に起因する存在である「国家」の限界にロランは気付いていたことを示すことであると受け取ることができるのではないかと考える。そしてこの「限界」は上記の「第一の閃光」に通じるところがあるのではないかと考える。
*1:「ヴォルテールが私の心に伝えたものは何だったのだろうか?・・・その後三十年経って第一次世界大戦中に初めて私は自由な笑いの魔神(ヴォルテール)に、自分の『万神廟』の中に座を与えた。・・・」(P300)
*2:「・・・浪漫主義の調子はみじんもない。これはルソー以前の大きな古典的風景である。」(P300)
*3:「・・・私のみちびきである見えない運命の手が、フランス国境へ私が行って私の視野が自分の国を超えるのを待ち受けて、そこで私の眼かくしを取り外してくれたのだということの意義なのである。」(P301)
(2)(第二の閃光)スピノザの燃える言葉
ロランは16歳から18歳までの学生時代にスピノザの思想に傾倒した。ロランは後にこのスピノザの思想を「卒業」している(*1)もののスピノザの思想自体を否定しているわけではなく、ロラン自身の思想形成過程におけるその重要性と意義は認めている。(*2)
ロランにおいて、スピノザの思想は、エコール・ノルマルの講義で扱われていたデカルト以前の「抽象的・普遍的」思考を主とする古典的/閉鎖的学問・思想からの突破口であると位置づけられた(P305)。
なお、ここにおけるロランのスピノザ受容は実在論の観点からの受容であり(*3)、そしてロランのいう実在論とは「抽象的概念、普遍的概念を用いた論理的考察ではなく物質的にリアルな事物や現象のつながり、関連性を論理的に説明、明確化する考察」であると述べられている(具体的にはP305~P308参照)。この辺りにも、後年のロランの思想への萌芽を読み取ることができるように思われる。
ロランは当時のロラン自身のスピノザ受容が必ずしも的確な理解に基づくものではなかったことを本文中で認めているものの、スピノザにより自分の中に自分の創造活動のためのプラットフォームを得ることができたと述べている(*2)。そしてこのスピノザの思想及びプラットフォームの上に、シェークスピアやワーグナー(ドイツや北欧文化(神話))、トルストイなどの思想、影響を迎えることにより後年の創作につなげていった(*4)。とくにロランは、キリスト教思想から独立した個人の精神性に立脚する点を強調しており、この点はロランが生涯を通して追求した「精神の独立」などの思想につながっていると考えられる。
なお、ロランのエコール・ノルマル時代の精神遍歴についてはロラン全集第26巻所収の「ユルムの僧院」で参照できる。また当時のスピノザへの傾倒/受けとめかたの詳細については、「ユルムの僧院」とともにロラン全集第19巻所収「真であるがゆえに私は信じる」で参照できる。とくに後者では「存在」「実体」等の概念に対する若々しい思索が述べられている。
*1:「私の思想は今では師ブノウ(スピノザ)の厳格な合理主義からは脱しており・・・」(P303)
*2:「(ロラン自身の若い時代のスピノザ理解について)この思想ははなはだ私自身のものであり・・・少なくとも一つの確乎たるプラットフォームを―待つためのプラットフォームを与えてくれた。」(P310)
*3:「・・・私の心を奪ったスピノザは、確かに幾何学的秩序の巨匠としての彼・・・実在論者(レアリスト)としての彼であった。・・・」(P305)
*4:「・・・古典的オランダのデカルト的ユダヤ人(スピノザ)を作り上げた教養とは非常に違う精神的素材に元来私は養われた・・・アムステルダムのレンズ磨き(スピノザ)は、私の二心についていくらか微笑しながら、私の仕打ちを過度に否認することはあるまいと私は思う。」」(P309)
(3)(第三の閃光)トルストイ的な閃光
エコール・ノルマル入学の少し前のトンネルでの体験、そしてその数年後に読んだトルストイの「戦争と平和」の一場面をきっかけとして、ロランは「第三の啓示」を受ける(*1)。後者の場面とは大富豪のロシア貴族・ピエールがフランス軍に捕らえられて搬送される途中で笑いだす場面である。ここでロランは、ピエールがロシア社会と切り離された「ピエール個人の精神」の存在に気がついたことを発見したのではないかと考える。ここでピエールが気づいた「ピエール個人の精神」とは本レジュメに記す「第二の生」に該当する。
トルストイとロランの思想は一見、共通性が少ないように受け取られがちであるが、実際はその根底において深くつながっており不可分のものであるとロランは述べている(*2)。しかしながら、その作品の表現手法についてのみ着目するのであれば、ゴーリキー、イプセンなどの他の文学者のほうがロランの立場に近いことは否定できず、ロラン自身も学生時代、「第3の閃光」を経験するまでは、トルストイの作品に重要性を認めることはできなかった。(*3)
本書においてロランは、トルストイは意志の在り方が天性の在り方と無意識的に大きく相違しているため上記のような「誤解」が生じ、ロラン自身のトルストイ受容が困難だったと述べている。これは、トルストイの偉大な文学性、道徳性、等の要素が、かえってロランにトルストイの本質を理解させる/気付かせるのを妨げていたという意味であると考えることができる。
なお、エコール・ノルマル時代のロランのトルストイへの姿勢はロラン全集第26巻所収の「ユルムの僧院」で参照できる。ロランは学生時代、トルストイを文学作品として非常に高く評価、重要視している。また、トルストイに限ることなくドストエフスキー、ワーグナー、フランクなどの多方面の芸術にも取り組んでいるとともに、(「第一の閃光」「第二の閃光」や後年のロランの思想にも通じるところがあるが、)国家の枠にとらわれない文化、精神の受容を目指している姿/ロランの後年の思想の萌芽を読み取ることができる。
*1:「・・・さてその後一年ほどして『戦争と平和』を初めてむさぼり読んだときに、ピエールのあの発見(悟り)の箇所を読んで私は心が震えた。・・・ピエールは夜の大空を見つめた。《これらすべては僕のものだ!》と彼は考えた。―《これらすべては僕のうちにある。これらすべてが僕だ!・・・》・・・」(P314)
*2:「どんな人間の中にも二人の人間が生きている。・・・トルストイの書いたものを私がまだ1行も読まなかった前に、私自身のいくつものトルストイの根と、大地の肉体の中で絡み合っていた・・・」(P312-313)
*3:「・・・トルストイが私に及ぼした影響については一般によく理解されていない。美的にははなはだ強く、道徳的にはかなり強く、知性的には皆無である。・・・」(P311)
《参考》
ロランとトルストイ、ゴーリキーの関係については、宮本正清先生の論文「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」(人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章)でも取り上げられているので参考にすることを推奨する。宮本先生は本レジュメとは異なるアプローチをなさっている。
◇◇第276回読書会補助資料1(黒柳作成)からの抜粋引用◇◇
(3)「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」
(人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章)
ロマン・ロランとトルストイおよびゴルキーの関係について、そのそれぞれの意味、特徴に関する考察がなされている。
ロランとトルストイとの関係について、宮本先生は、両者が生きた環境(共和国フランスの中産階級と帝政ロシアの貴族階級)に相違があるものの、両者はともに共通点として「清教徒的な正義感」や両者の生涯の基調をなす「道義心(モラル)」を持っていることを指摘し、さらにそれらが両者の芸術的本質であると述べている。
これに対して、ロランとゴルキーの関係については、革命後のロシアに対する社会的意識の共通性が重要であると指摘し、トルストイとの関係と比較してゴルキーとロランとの関係は「はるかに現代的であり、より多くの政治的要素を含んでいる。」「この二人の交わりを通じて、私たちはゴルキーとロランの人間と芸術を知るのみでなく、現在および将来の社会における芸術の性格、そのあり方について、いろいろ重要なポイントをとらえることができる。」と述べている。
(以上)
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読書会補助資料1(2009.9.26) 黒柳
ロマンロランをめぐる人々 ―中村星湖―
「少年行」などの作品で知られる作家・文学者であり、フランスにロランを訪ねた経験を持つ中村星湖とロランとの関係を紹介します。
1.中村星湖とは?
1884年(明17)~1974年(昭49)。作家・文学者。山梨県の農家出身。早稲田大学進学後、「早稲田文学」を中心に作品を発表。小説に加えてフランス文学やロシア文学、日本文学の評論などにも取り組む。後に農民文芸会、山梨日日新聞などでも文章を発表し郷土文化の発展にも活動範囲を広げる。1928年(昭3)にはフランスに留学しオルガ山荘にロランを訪ねている。また、フローベルの翻訳などの業績も有。
主な作品に小説「少年行」、同「女のなか」、エッセイ集「文化は郷土より」など。現在、星湖の故郷である山梨県の山梨県立文学館が星湖に関する研究を進めており、同館の年次報告「資料と研究」で研究成果が報告されている(継続中)。
2.中村星湖を読むには
中村星湖の作品は現時点ではいずれも品切れ。図書館や古書店などで探す必要がある。
主な書籍名は次の通り。
「精選中村星湖集」(早稲田大学出版部)
・・・代表作「少年行」などが収録されていて中村星湖を読みたい人にはお勧め。
「明治文学全集 〈72〉 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小剣集 水野葉舟」(筑摩書房)・・・収録作品不明
「残雪抄 ― 中村星湖/まさじ和歌集」(文遊社)
( 紀伊国屋書店HPによる検索結果(キーワード「中村星湖」)。2009.9.25現在。上記はいずれも品切れ)
3.中村星湖のロマンロラン観とオルガ山荘への訪問
中村星湖はロランを非常に高く評価。エッセイ集「文化は郷土より」所収の「新民芸の先駆、ロオランとギヨオマン」において星湖は、
「私はかれ(=ロラン)を以て、ヨーロッパ現代における新しい民間文芸の先駆者の一人とみて差し支えない・・・」
「私は西洋に参りましても、別段、あちらの有名な文学者や思想家に逢おうとはかんがえていなかったのでありますが、ロマン・ロオランだけには逢ってみたい・・・」
と記している。また、他にも多くの文章でロランについて触れている。
ロラン訪問当時、星湖はロランの作品(「ジャン・クリストフ」「民衆演劇論」「ミレー」など)を「革命」の観点を主眼に受け取り、ロランを「『革命』思想の先駆者」と認識していたと推定される。そのためオルガ山荘にロランを訪問した際も星湖が提示した話題はプロレタリア文学についてであった。
なお、星湖の文章(「オルガ山荘とロラン日記」(「農民文学」第11号:昭和32年12月))やロランの日記(ロラン全集第36巻P511)によると、星湖のオルガ山荘におけるロランとの会見は成功とは言い難い状況であったらしい。星湖の文章とロランの日記との食い違いも考慮すると、両者のスタンスがかみ合っていなかったのではないかと推定される。(「オルガ山荘とロラン日記」によるとロランは星湖の話題に対して激しい怒りを示した。)
<参考資料>
・ロランの日記(ロラン全集第36巻P511)
・「オルガ山荘とロラン日記」(中村星湖・著「農民文学」第11号:昭和32年12月)
・「新民芸の先駆、ロオランとギヨオマン」(中村星湖・著:「精選中村星湖集」所収)
※黒柳が全文を入手できたのは上記の各資料のみであるが、山梨県立文学館の年次報告「資料と研究」では、現在整理中の星湖の文章のタイトルにロランに関する記述がなされていると推定ものが多数あり、今後、新しい資料が発見される可能性有。ただし、実際のロランとの会見が不首尾であったことは明確であることから、あくまで星湖としてのロラン観に限られると推定される。
4.備考
「精選中村星湖集」(早稲田大学出版部)は京都市立図書館などで貸出可能。
山梨県立文学館の年次報告「資料と研究」については、京都近辺では京都府立図書館が所蔵。貸出不可であるが館内での閲覧、コピーは可能。
(以上)
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読書会補助資料2(2009.9.26) 黒柳
―加藤周一先生の新刊紹介―
ロマンロラン研究所との関係が深く、昨年、惜しまれつつ亡くなった加藤周一先生の著書が、最近、新たに多数発売されていますので紹介いたします。
(1)「加藤周一自選集」(全10巻)(岩波書店)(9月発売)
加藤先生の主要論文を年代別に収録。加藤先生が亡くなる前から進んでいた企画のため、論文選定作業には加藤先生自身も参加している。2009年9月より毎月1巻のペースで発売予定。
第1巻(1937-1954)(発売開始済)の収録論文は次の通り(岩波書店HPより引用)。
映画評『新しき土』(最初の公表著作)/正月/トリスタンとイズーとマルク王の一幕(戯曲)/天皇制を論ず/ポール・ヴァレリー/象徴主義的風土/定家『拾遺愚草』の象徴主義/木下杢太郎の方法/日本の庭/外と洋学/ジャン・ポール・サルトル/演劇のルネサンス/途絶えざる歌/現代オペラの問題 ほか。
※第2巻以降については岩波書店HPを確認のこと。
(2)「言葉と戦車を見すえて─加藤周一が考えつづけてきたこと」(筑摩書房)(8月発売)
加藤先生の政治面での主要論文を収録。太平洋戦争終戦~「プラハの春」~現代まで。ちくま学芸文庫の1冊。
収録論文は次の通り。(筑摩書房HP参照)
天皇制を論ず/逃避的文学を去れ/知識人の任務/日本文化の雑種性/雑種的日本文化の課題/天皇制と日本人の意識/西欧の知識人と日本の知識人/戦争と知識人/日本の新聞/安保条約と知識人/言葉と戦車/ベトナム 戦争と平和/わが思索わが風土/危機の言語学的解決について/軍国主義反対再び/遠くて近きもの・地獄/教科書検閲の病理/『加藤道夫全集1』読後/「過去の克服」覚書/再説九条/戦後五十年決議/原爆五十年/「心ならずも」心理について/サラエヴォと南京/また9条/60年前の夜
(3)「語りおくこと いくつか」(7月発売)
「加藤周一 戦後を語る」 (6月発売)(いずれも、かもがわ出版)
加藤先生の講演集。前者は文化関係のテーマが中心、後者は戦争・平和・歴史関係のテーマが中心。各テーマとも非常に興味深い内容。
(4)「居酒屋の加藤周一 1・2合本」(かもがわ出版)(6月発売)
加藤先生と交流のあった京都の市民サークル「白沙会」における対話の記録。テーマはその時々の朝日新聞記事から取り上げているため政治~社会~文化~スポーツまで多種多様。過去に分冊で出版されていたものを今回合本・再刊行した。
(5)「加藤周一が書いた加藤周一 」(平凡社)(9月発売)
加藤先生が自身の著書に記したあとがき(一部まえがき)を合計102冊分集めたもの。各著書の本文で表現しきれなかった微妙なニュアンスや背景が伝わってきて興味深い内容となっている。
(6)現代思想・7月増刊「加藤周一」(青土社)(7月発売)
加藤先生ご自身の文章(竹内好論)や有識者の「加藤周一論」が集められている。
雑誌「現代思想」はバックナンバーが入手できる哲学の専門雑誌。
(7)「ある晴れた日に」(岩波書店)(10月発売予定)
加藤先生としては珍しい小説。戦争末期~終戦の時代を舞台にした内容。岩波現代文庫で発売予定。
(1)~(6)まで黒柳が入手できた範囲を紹介しました。黒柳もまだ全ては読み終えていないので、皆様の興味に応じて書店で内容を確認願います。(7)は今後の発売。また、加藤周一著作集や加藤周一セレクション(いずれも平凡社)などをお持ちの方は、内容が重複する可能性がありますのでご注意下さい。
(以上)
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読書会補助資料3(2009.9.26) 黒柳
―高橋哲哉先生の著書紹介―
10月に開催されるロマンロラン研究所主宰講演会の講師・高橋哲哉先生の著書を紹介します。高橋先生の講演への理解を深める一助になれば幸いです。
黒柳としては高橋先生の研究テーマは大きく以下の4分野に区分されると考えます。各分野について高橋先生の主な著書を紹介します。
(テーマ1)国際関係について
「人間の安全保障」(東京大学出版会)
・・・高橋先生は編者として本書を取りまとめ。高橋先生の最新刊。
(テーマ2)フランス哲学について
「デリダ―脱構築」(講談社)
「逆光のロゴス ― 現代哲学のコンテクスト」(未来社)
「他の岬 ― ヨ-ロッパと民主主義のコンテクスト」(デリダ著:みすず書房)※
「有限責任会社」(デリダ著:法政大学出版局)※
※:高橋先生が翻訳
・・・高橋先生はフランス哲学、とくにデリダの研究者として有名。
(テーマ3)日本の戦後思想について
「国家と犠牲」(日本放送出版協会)
「靖国問題」(筑摩書房)
「戦後責任論」(講談社)
・・・日本の戦争責任・歴史問題がテーマ
(テーマ4)欧米戦後思想について
「記憶のエチカ ― 戦争・哲学・アウシュヴィッツ」(岩波書店)
「『ショアー』の衝撃」(鵜飼哲との共著:未来社)
・・・欧米の戦争責任・歴史問題がテーマ
(注意)
各テーマと著書の対応は便宜的な区分です。著書によっては複数のテーマにまたがっているものも有。
上記以外にも、対談や時評、論考を含め、著書多数。
講演会ではどの分野に関するお話がうかがえるのか、その講演内容が期待されます。
(以上)
第278回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
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『第278回読書会レジュメ「内面の旅路」2(「Ⅰ.落し穴」)』
『ロマンロランをめぐる人々-アインシュタイン-』
『ロマンロランをめぐる人々-今江祥智先生-』
『ロマンロランをめぐる人々-新村猛先生-』
発表者 黒柳大造さん
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1.「内面の旅路」第278回読書会レジュメ「内面の旅路」2(「Ⅰ.落し穴」)(2009.7.25)
ロラン幼年期の自己の確立/精神的独立の過程(の萌芽)である家族の束縛(陥落)からの離脱、カトリック信仰の束縛(陥落)からの離脱の記録が記されている。
この2つの「離脱」は本質的に同一のもので、両者は相似形/同心円の関係となっていると考えられる。また、教会を「家族」の次段階の精神的共同体と位置づければ、ロラン幼年期の自己の確立/精神的独立の進行/発展過程ともいうことができると考えられる。
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「家族の束縛(陥落)」 →(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼
「カトリック信仰の束縛(陥落)」→(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼
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(1)「家族の束縛(陥落)」とそこからの離脱について
家族の束縛(陥落)
→子供の死を恐れるロランの母の眼差しに始まるロラン幼年期の精神的抑圧。
・圧迫されている自分の胸:病弱なロラン自身
・不祥な死の環:幼くして亡くなった妹から連想される死への恐怖
・旧い家:閉鎖的な幼年期の住居に象徴される閉塞感
↓
(離脱)
↓
死の直前に妹の見せた人間的な「憐みの心」(コンパッション)
=独立した人間の精神(の間での意志の交流)
(2)「カトリック信仰の束縛(陥落)」とそこからの離脱について
カトリック信仰の束縛(陥落)
→ロランは伝統的カトリック信仰のことを「教会の神」「サンマルタンの鎹で緊めつけられている尖弓形の『囚われ』の中にうずくまっている『主』」(ともにP293)と表現している。
↓
(離脱)
↓
「自由無礎な神」「私の求め聴いた神は・・・鐘の歌の中にいた。そして大気の中にいた。」
=(歌(音楽)に感動し、大気を吸って、日々、力強く生きている人々が持っている)独立した人間の精神
○「ハムレット」の引用(P294)について
ロランは本引用によって、自分自身を精神的に束縛しているものを「牢獄」と位置づけ、自分自身の思索を深めることによってその精神的束縛(牢獄)から脱することを「おお神よ。私は胡桃の殻の中にとじこもって、そして自分自身を、無限の一空間の王としてみなす」と表現しているのではないかと考える。
↓
自分自身の思索を深めることをもって自分自身の精神の独立を確立する姿勢はこのままロランの生き方の姿勢のつながっているのではないか?
また、本章において「家族の束縛(陥落)」「カトリック信仰の束縛(陥落)」から離脱した方法もまたこの姿勢と共通すると考えられる。
○「鏡の中のグラチアの姿が見えてくる場面」に見られるこの照覚の反響的な思い出について(P296)
「・・・彼が見たただ一つのもの―それは、彼女の同情深い微笑の神々しい善良さだった。」(全集第3巻P448-449)
↓
ロランがここで見たものは
・小学校時代に出会い、数週間後に亡くなった少女
・目の前に現れたグラチア
2人は、ロランにとって「独立した精神」の持ち主という点で共通している。そして、ロランの現状を人間的な「憐みの心」(コンパッション)で受けとめている。
これは幼くして亡くなった妹とも本質的な点において共通しており、そのため「照覚の反響的な思い出」と表現されているのではないか?
(以上)
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読書会補助資料1(2009.7.25)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―アインシュタイン―
高名な物理学者で平和活動でも有名なアインシュタインとロランとの関係を紹介します。本資料は読書会のテキストである「内面の旅路」の「序曲(プレリュード)」においてアインシュタインの考えが引用されている(*1)ことより、ロランとアインシュタインの関係を紹介して「内面の旅路」への理解をサポートするためのものです。
(*1)「われわれの宇宙の存在は、アインシュタインの考えによれば、自分自身の尾を咬む永遠性の蛇みたいなものである。そしてもしも各人がこの宇宙存在に、好意と視線とを与えることをのぞむなら、前方へ放たれる光線が[各人の]背後から[その人の]内的視力へ戻ってくることをわれわれは知っているではないか?・・・」(P279)
1.アインシュタインとは?
アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)はドイツ生まれのユダヤ人の物理学者。1916年に一般相対性理論を完成。1921年、ノーベル物理学賞受賞。第二次世界大戦前は欧州の各大学で研究をするが、1933年、ナチスの台頭により米国へ亡命。以降はプリンストン高等研究所を中心に活動。1939年には米国による原爆開発を当時の米国大統領ルーズベルトに促す「ルーズベルト大統領への書簡」に署名。第二次世界大戦前から平和活動でも有名(詳しくは2項参照)。第二次世界大戦後は世界政府創設運動にも取り組む。
2.アインシュタインの平和思想・平和活動
アインシュタインの平和思想は第一次世界大戦後に兵役拒否論からスタート。ロマン・ロランの平和思想にも共鳴。しかし、ナチスドイツの台頭により、第二次世界大戦前には武力容認に方向転換(国際警察軍の創設、ナチスによる原爆開発を防ぐための米国による原爆開発の支持、など)した。しかし、第二次世界大戦後は再び原水爆禁止、世界連邦政府創設支持、兵役拒否などを支持・主張している。
○アインシュタインの平和活動・年譜(主なもの)
1914.8 親しいオランダの物理学者パウル・エーレンフィストへの書簡の中で自分の平和思想を記述。これがアインシュタインの平和思想に関する最初の記録。
1914.10「ニコライ‐アインシュタイン宣言」(「ヨーロッパ人への宣言」)に署名。これは、直前に表明されたドイツ政府による「文明世界への宣言」に対抗するもの。
1919.6 ロマン・ロラン起草の「精神の独立宣言」に署名。
1921.1 チェコのマサリク大統領をノーベル平和賞に推薦。
1928後半 兵役拒否の主張を固める。
1930.12 2パーセント演説。(2%の者が兵役拒否をすれば影響力大であるという内容。)米国で大きな反響を呼ぶ。(2%バッジ流行)
1933.7 兵役拒否論を変更。(軍隊廃止よりも超国家的軍隊組織設立を支持。ナチ圧政下ではヨーロッパ文明保護のため兵役に就くことを支持。)
(1939.8 「ルーズベルト大統領への書簡」に署名)
1945.11 世界政府創設の実際案発表。
1945.12ノーベル記念晩餐会演説「戦争に勝ちましたが、平和は得られません。」
1946.5 原子科学者緊急委員会議長。以降、原水爆反対運動に献身。
1947.8 世界連邦政府世界運動国際会議へ挨拶を送る。同会議で計画された「世界憲法制定議会」ならびに憲章を支持。
1954.10-11 ハマーショルド国連事務総長と「我々の文明にとって崩壊に代わる唯一の代替物(諸国の主権を尊重する世界組織)」に関する書簡を交換。
1955.4 「ラッセル‐アインシュタイン宣言」に署名。核兵器廃絶を世界各国に訴える。
(アインシュタインはこの1週間後に死去)
3.ロランとアインシュタインの関係
ロランとアインシュタインは、アインシュタインが兵役拒否思想を主張していた1920年代末までは良好であったが、1930年代前半より齟齬が生じ始め、アインシュタインが武力による平和維持を肯定する方向転換をした1933年には決定的な意見の相違が明確になる。
以降、アインシュタインは米国で「ルーズベルト大統領への書簡」等の武力による平和維持を肯定の活動を活発にするのに対してロランの社会的な発言は第一次世界大戦時と比較すると(ソ連関係を除けば)減少し執筆活動も芸術関係が中心となる。その後、ロランの死去により両者は和解するには至らなかった。
1915.3アインシュタインはそれ以前に面識の無いロランに手紙を送りロランの平和思想への共鳴を伝える。(ア平書1:P15)
1916.9アインシュタインはスイスにロランを訪問。(ア平書1:P17)
1917.8ロランとアインシュタインは書簡を交わす。ニコライ著「戦争の生物学」などが話題となる。(ア平書1: P23)
1919.6 アインシュタインはロラン起草の「精神の独立宣言」に署名。(ア平書1:P34)
1922.4 ロランとアインシュタインは書簡を交わす。この中でロランは新しい自由主義雑誌「クラルテ」をアインシュタインに説明。
(後日、アインシュタインはバルビュスに依頼により「クラルテ」に寄稿。)(ア平書1:P56)
1926.1ロラン60歳を記念する「友達の本」にアインシュタイン寄稿 (ア平書1:P89)
1930.9 ロランはアインシュタインにタゴール70歳の記念にささげる「ゴールドン。ブック」への寄稿を依頼。(アインシュタインはこれを受諾)(ア平書1:P123)
1930.10 ロランとアインシュタインは「若者の徴兵と軍事訓練反対の宣言」に署名。
1931.2 ロランアインシュタインの2パーセント兵役拒否論を肯定するも実効性には疑問を表明(英国・世界戦争反対抵抗者連盟ブラウン名誉理事長への書簡)(ア平書1:P131)
1932.5 統合平和委員会ジュネーブ会議記者会見において、ロランはアインシュタインが科学の領域以外では実際的でないことを批判。(ア平書1:P190 )
1933.9 ロランはアインシュタインの武力肯定への方向転換を日記の中で批判。(ア平書2:P282)
1936.4 アインシュタインは知人への手紙の中でロランの「革命によって平和を」に対して「その本をかなり読んでみましたが、事柄の本質上、親近感を見出しえませんでした。・・・」との評価を与える。(ア平書2:P323)
(注)ア平書(No)・・・アインシュタイン平和書簡(巻数)
<参考文献>
「アインシュタイン平和書簡(全3巻)」(ネーサン,ノーデン編:みすず書房1974~77年)
「アインシュタイン選集(第3巻)」(共立出版 1972年)
「湯川秀樹とアインシュタイン」(田中正・著:岩波書店2008年)
(以上)
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読書会補助資料2(2009.7.25)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―今江祥智先生―
ロマン・ロラン研究所とも関係の深い児童文学者・今江祥智先生について紹介します。今江先生の著作「私の彼氏」には本日の読書会テキスト「内面の旅路」が登場します。
1.今江祥智先生とは?
1932年生まれ。児童文学作家。前・ロマン・ロラン研究所理事。
<主な著書>
「ぼんぼん(全1冊)」(理論社)
・・・「ぼんぼん」「兄貴」「おれたちのおふくろ」「牧歌」を合本
「優しさごっこ」(理論社・新潮社)
「冬の光」(理論社・新潮社)
「雲を笑い飛ばして」(理論社)
「私の彼氏」(新潮社)
「山の向こうは青い海だった」(理論社・角川書店)
「ひげがあろうがなかろうが」(解放出版社)
「幸福の擁護」(みすず書房)
「今江祥智の本(全36巻)」「同・童話館(全17巻)」(ともに理論社)
他多数
2.ロランとのかかわり
同志社大学在学中にロマン・ロラン研究会を設立。顧問にはフランス文学者・新村猛氏、会員には後の福音館書店社長の松居直先生などがいた。児童文学作家となってからは、自身の作品中でロランを扱ったり、またロランの作品から引用をする機会多数。
ロマン・ロラン研究所・前理事長の尾埜善司先生との交遊(同志社大学ロラン展がきかっけ)も深い。
3.ロランについての考え方
ロランに関する研究論文はないが、児童文学作品中にたびたびロランを引用している。また、宮本正清先生、新村猛先生や松居直先生、尾埜善司先生、・・・等とのロランを通じての出会いについても紹介する文章多数。
なお、今江先生の作品にはロランのみでなく、ルイ・アラゴン等のフランス作家やイブ・モンタン等のフランス歌手などフランス芸術全般、またケストナー等のフランス以外の国々の作家、などの影響が見られる。
○ロマン・ロランに触れられている今江先生の主な著書
(1)小説「私の彼氏」
主要登場人物の一人である沢柳が少年時代の初恋相手・有子を回想する際に、ロランの「内面の旅路」が登場する。沢柳にとって有子の登場する回想は沢柳にとっての「内面の旅路」と位置づけられるのではないかと考えられる。
(2)児童文学作品「雲を笑いとばして」
本作品の第2章の章名が「オマン・オロン」。ここで「オマン・オロン」とは「ロマン・ロラン」のこと。本作品の主要登場人物「古山先生」は今江先生のロランに関する「先生」である新村猛先生がモデル。ロランの名前をタイトルとした本章において、今江先生はロランに関する自身の経験を登場人物達に再体験させている。
(3)評論集「幸福の擁護」
今江氏は自分自身のロラン史を本書の中の各所で紹介している。ロランを通して出会った人々(新村猛先生、松居直先生など)、ロラン研究会、ロラン作品の思い出など。
(4)エッセイ集「私の寄港地」
(125「タイムトンネル」,126 「タイムトンネル、また」,136「手紙と部屋と」,・・・等)
学生時代における宮本正清先生、片山敏彦先生、蛯原徳夫先生、新村先生、松居先生、尾埜先生、鈴木寿太郎氏(今江氏の名古屋時代の知人)、・・・、等の交流のエピソードが紹介されている。また、同志社大学ロラン研究会の読書会(at進々堂)、同・ロラン展、宮本正清先生宅から盗難されたロラン原書発見事件などのエピソードも興味深い。
<上記以外の今江先生とロランに関する資料>
(1)ユニテNo.21における今江先生の寄稿「いま、ロマン・ロランを語る」
(2)ユニテNo.21における尾埜先生の寄稿「いま、ロマン・ロランを語る」
(3)同志社時報第68号「ああ、ロマン・ロラン‐私の学生時代‐」(今江祥智)
(4)「新村猛著作集」(三一書房)第1巻 解説(今江祥智)
(以上)
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読書会補助資料3(2009.7.25)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―新村猛先生―
フランス文学者、ロラン研究家で、今江祥智先生のロマン・ロランについての「先生」にあたる新村猛先生について紹介します。
1.新村猛先生とは?
1905年~1992年。フランス文学者。名古屋大学、同志社大学教授、橘女子大学学長。
戦前は雑誌「世界文化」などに参加。戦後はロランをはじめとするフランス文学研究に取り組み著書多数。文学研究関係から時事問題まで幅広く発言・執筆。その著書や論説、記事は「新村猛著作集(全3巻)」(三一書房)にまとめられている。
戦前の不当逮捕・拘束などの経験から、新村先生の思索は政治思想/理論と実際の政策/政治活動を混同せず、明確に考察対象・範囲を区分・整理した論理性・客観性が特徴。
父親は国文学者の新村出氏。その関係で、新村猛先生自身も「広辞苑」の編集にかかわっている。またロランに関して今江祥智先生の「先生」にあたり、今江氏の作品「雲を笑い飛ばして」の登場人物「古山先生」は新村先生をモデルとしている。
<主な著書>
「フランス文学研究序説」(1954年 ミネルヴァ書房)
「ロマン・ロラン」(1958年 岩波新書)
「国際ファシズム文化運動フランス編」(1948年 三一書房)
「新村猛著作集(全3巻)」(1995年 三一書房)・・・各巻にロランに関する論文・翻訳・記事を収録 他多数
2.ロランとのかかわり
京都大学文学部在学中の1932年、
・アムステルダムで開催された世界反戦・反ファシズム大会へのロランの参加。
(ロランは同会議の共同議長をつとめた。)
・雑誌「ヨーロッパ」のゲーテ特集号にロランが寄稿したロラン論
の2つをきっかけにロランに傾倒。また1934年のレーニンの「トルストイ論」に対するロランの評釈にも影響される。以降、著書や新聞・雑誌記への寄稿などでロランについて幅広く紹介。みすず書房「ロマン・ロラン全集」翻訳(「闘争の15年」)にも参加。今江祥智先生が同志社大学在学中に設立したロマン・ロラン研究会を顧問として指導。
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3.ロランについての考え方
新村先生のロラン論は「ロランの同時代の政治/社会情勢の中での位置づけ」を押さえた内容になっていることがその特徴として挙げられる。そのため(ロランの作品やロランという一人の作家からの視点に閉じない)広い視野からのロラン像が浮かび上がってくる。具体的には、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてのフランスやヨーロッパの政治/社会情勢(ナチスの台頭、フランスの人民政府、スペイン動乱等)、当時活躍した作家達(アラゴンやバルビュス、ゲーノ、ジッド等)の言動(文化擁護国際作家会議、国際ペンクラブ大会、等)や編集に参加した言論誌(「ヨーロッパ」「新フランス評論」「コミューヌ」等)の動向などが詳しく述べられている。
また個々のロラン作品への考察にもその視点は反映されており、とくに「魅せられたる魂」のに対する分析・評価は非常に重要であると考える。((3)参照)
(1)ロランと同時代のフランスの作家・思想家の位置づけは次の通り。
●個人主義的傾向
○個人主義・・・ジッドなど
○無政府主義・・・マルローなど
○カトリック主義・・・モーリアック、マリタンなど
●共産主義的傾向
バルビュス、アラゴン、ブロック、エリュアールなど
なお、個人主義的傾向の人々、共産主義的傾向の人々ともに共通してヒューマニスティックであり反ファシズムの立場であった。(ただし々の政治的事件に対する見解は様々)
また、上記の人々とは別に、人間性に対するゆるぎない信頼‐西欧デモクラシーの根底に存する理性信仰に支えられた本質的ヒューマニストとして、アルコス、デュアメル、ロマンなどがいて、それらはゲエノ、カスーに引き継がれる。
そしてこれら本質的ヒューマニストの作家達の上にあたかもそびえたっていたのがロランである。(新村猛著作集第3巻P62)
(2)ロランがその創刊に参画し、アルコスとバザルジェット→ゲエノ→カスー→アブラアムと編集長が引き継がれていった雑誌「ヨーロッパ」の変遷を追うことによって、ロランの思想が次世代の思想家・言論人に引き継がれていく歴史を、その思想・主張の普遍性/変化の両面とともに把握、解説している。(新村猛著作集第2巻P285)
(3)フランス知識層において「魅せられたる魂」の評価が「ジャン・クリストフ」と比較して低くなっているのは適切ではない。
「魅せられたる魂」を深く理解し、正しく評価するには「魅せられたる魂」と「ジャン・クリストフ」の両方をあわせて読む必要がある。(新村猛著作集第2巻P214)
→ロランの二つの面が「ジャン・クリストフ」では主役のクリストフと脇役のオリヴィエによって、「魅せられたる魂」では主役のアンネットと脇役のマルク、アーシャなどによって表現されている。
(A)登場人物達が体現する「政治」「民族」
●ジャン・クリストフ
クリストフ・・・ ドイツを象徴
オリヴィエ・・・ フランスを象徴
↓↑
●魅せられたる魂
アンネットとマルク・・・ 西欧諸国を象徴
アーシャ ・・・ソビエト・ロシアを象徴
(B)登場人物達が体現する「人間像」
●ジャン・クリストフ
クリストフ・・・ロランが<こうあるべきだと考えた>人間の形象
オリヴィエ・・・<現にこうある>自分(=ロラン)という人間の形象
↓↑
●魅せられたる魂
アンネット・・・<こうあるべきだと考えた>女性の形象、いわばロランの理想の女性像
マルク ・・・社会と個人の対立という問題で悩むロランの個人主義者の側面
4.その他
ロランを通してベートーヴェンの音楽に傾倒。その様子は今江先生の著作「雲を笑い飛ばして」の古山先生の音楽好きにも反映されている。(「読書会補助資料2(2009.7.25) ロマン・ロランをめぐる人々―今江祥智先生―」参照)
(以上)
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第277回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
************************************ 『第277回読書会レジュメ「内面の旅路」1』『ロマンロランをめぐる人々-高杉一郎氏-』『ロマンロランをめぐる人々-山本実彦氏-』発表者 黒柳大造さん ************************************ 第277回読書会レジュメ「内面の旅路」1(2009.6.27) |
1.「内面の旅路」概要 2.2つの序章について(「序曲(プレリュード)」と「旅へのいざない」) 3.「Ⅰ.落し穴」について 4.「Ⅱ.三つの閃光」について ※Ⅲ~Ⅸ、付録の各章は次回以降の読書会にて発表予定 1.「内面の旅路」概要 「内面の旅路」はロランの自伝的精神史。1924年~1926年にかけて執筆された。(P281参照) 1942年(ロランの死の2年前)にⅠ~Ⅴが発表された後、ロラン没後の1945年 にⅥ、Ⅶが、1946年にⅨが発表され、そして1959年にⅧを加えた現在の構成となった。 Ⅰ.落し穴 Ⅱ.三つの閃光 Ⅲ.家系の樹 Ⅳ.射る者 Ⅴ.女友たち Ⅵ.敷居(閾) Ⅶ.Tの王国 Ⅷ.ラ・サンチュール(性) Ⅸ.周航 全体構成は大きく3部構成であると考えられる。 第1部:Ⅰ~Ⅲ ロラン自身の幼年時代、及び自身のルーツとなる家族とその一族について記述されている。ロランはⅠにおいて幼年期における自己の独立した精神(の萌芽)の発見、カトリック宗教からの精神的独立の経験を記し、それを踏まえてⅡにおいてロラン個人の精神の成長の軌跡を段階を追って記している。Ⅲはロランの存在の背景となるその家族とその一族の精神的歴史。 第2部:Ⅳ,Ⅴ ロラン青年期の思想的成長段階について記されている。とくにⅤにおいては、ローマ時代に直接的交流があり、また後年も継続してロランの重要な精神的支えであったマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとの交流が記されている。哲学、文学、絵画、音楽、などの学問・芸術分野のテーマ、用語をもちいた文章が多く、学問・芸術分野を介した自己の成長を信頼/肯定していたロランの若い理想が伝わってくるように感じられる。 ※Ⅴは未完であり、マイゼンブーク夫人とともにロランの重要な精神的での成長のパートナー/保護者であったクリュッピ夫人との交流の記述が欠けたままである。 第3部:Ⅵ~Ⅸ 第1部、第2部が過去のロランであるならば、第3部は「内面の旅路」執筆当時の(つまりはロランが到達した)思想について記されている。とくに、ロラン自身の内面方向に深く踏み込んだⅥ、そしてロラン自身とともに同時代の同志的人物達との思想的交流(つまりは自分から外向きの方向)にスコープを広げているⅨは本書で最も重要な論文であると考える。宮本正清先生の論文の言葉を借りるならば、Ⅵ、Ⅸのエッセンスは次のように考えられる。 Ⅵのエッセンス: 「ロランがみとめた神は人間自身のうちに、人間的であると同時に神的な(結局それは一つのものにすぎないが)火を燃え立たせることである。それはすなわち積極的な、創造的な愛である。・・・」(人文研究(1962年)大阪市大, 「ロマン・ ロラン 思想と芸術」第1章) またⅦのエッセンス: 「思想の領域においても、信仰の領域においても、めいめいの個性の存在理由とその自由を尊重し、受け容れつつ、それらの個性の間にユニテと調和(アルモニー)とを求めようとする精神」(人文研究(1963年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第2章) 2.2つの序章について(「序曲(プレリュード)」と「旅へのいざない」) 「内面の旅路」には執筆時期の異なる2つの序章がある。その執筆時の社会背景が対照的であることから、内容的にも、また文体も異なっているが、いずれも「内面の旅路」の入り口として重要な観点を読者に提供している。 2-1「序曲(プレリュード)」について 「序曲(プレリュード)」は第二次世界大戦におけるドイツ占領下のフランス・ヴェズレーで執筆された。「序曲(プレリュード)において「内面の旅路」の執筆動機、背景はロランのこれまでの一貫した思想、(国境を越えた)独立した精神の調和であることが示されている。(*1)そして、ロラン自身の理想とかけ離れた現実に対して、これまでの自分の思索・思想の積み重ねを書物として著わすことにより、その克服・抵抗を試みようとしている。そしてその現実とは「フランスがドイツに占領されたという戦争の勝ち負けという現実」ではなく「フランスとドイツが戦争をしているという現実」「国家間で戦争が起こっているという現実」である。(*2) とくに人類の精神・知恵の蓄積への信頼を表現するためにアンシュタインを引用したロランの文章(*3)は、後年のドイツ大統領・ヴァイツゼッカーによる「荒野の40年」(・・・過去に目を閉じる者は現在に対して盲目になる・・・)に通じる内容であると感じられる。 1924年に執筆した序文「旅へのいざない」と比較して文章も短く理念的な内容も少ないことから、その社会状況の影響が大きく、ロランの精神的な緊張が伝わってくる。 *1:「・・・二重の祖国、フランスと世界との新しい運命に役立とうとこころざして。」(P280) *2:「自由を大いにうばわれているいまの時を・・・蓄積されているわれわれの精神的資源を―どんな戦勝者もわれわれからうばいとることのできないそれらを―われわれの思い出を思い出を寄せ集めてしらべてみることにささげる。」(P279-P280) *3:「・・・見ることのできる者にとっては、充実している各瞬間が、過去と、そして未来への精髄を含んでいるのである。・・・前方へ放たれる光線が(各人の)背後から(その人の)内的視力へ戻ってくることをわれわれは知っているではないか?それゆえ、背後に(内面に)向きながら、その光線と対面しよう。」(P279) 2-2.「旅へのいざない」について 「序曲(プレリュード)」と同じく、「内面の旅路」の序文。ただし、こちらは1924年(第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期)の執筆であり、平和な社会背景を反映して理念的、思索的、ときには感傷的な表現が散見される。ただし、そのため内面的には深い内容を持ち、「内面の旅路」の執筆を通して自分自身の思想を客観的に評価し、再構築していく心構えが示されている。(*1) これより、「旅へのいざない」は(戦時下に執筆されて対外的な観点で堅固な)「序曲(プレリュード)」と比較して内面的に堅固な序文であるということができる。 *1:「・・・新しいおのおのの時間がわれわれに啓いて見せる思いがけない相貌をまともに見ること、そして自分が前もって作り上げていた形象がたとえどんなに親愛に思われようとそれがまやかしの形象だと判ればそれを棄てることを、私は決してためらいはしない。」(P284) 3.「Ⅰ.落し穴」について ロラン幼年期の自己の確立/精神的独立の過程(の萌芽)である家族の束縛(陥落)からの離脱、カトリック信仰の束縛(陥落)からの離脱が記されている。この2つの「離脱」は本質的に同一のもので、両者は相似形/同心円の関係となっていると考えられる。 本章において幼年期のロランは自分自身を束縛していた「家族の束縛(陥落)」「カトリック信仰の束縛(陥落)」から、「独立した人間の精神」への信頼を自身の中で確立することにより離脱する。 「家族の束縛(陥落)」 →(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼 「カトリック信仰の束縛(陥落)」→(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼 (1)「家族の束縛(陥落)」とそこからの離脱について 家族の束縛(陥落) →次のような要因による精神的抑圧 ・病弱なロラン自身や幼くして亡くなった妹から連想される死への恐怖 ・子供の死を恐れる家族(とくにロランの母)の心理的重圧 ・閉鎖的な幼年期の住居に起因する閉塞感 ↓ (離脱) ↓ 死の直前に妹の見せた人間的な「憐みの心」(コンパッション) =独立した人間の精神(の間での意志の交流) (2)「カトリック信仰の束縛(陥落)」とそこからの離脱について カトリック信仰の束縛(陥落) →ロランは伝統的カトリック信仰のことを「教会の神」「サンマルタンの鎹で緊めつけられている尖弓形の『囚われ』の中にうずくまっている『主』」(ともにP293)と表現している。 ↓ (離脱) ↓ 「自由無礎な神」「私の求め聴いた神は・・・鐘の歌の中にいた。そして大気の中にいた。」 =(歌(音楽)に感動し、大気を吸って、日々、力強く生きている人々が持っている)独立した人間の精神 4.「三つの閃光」について ロランは人間が生きる「生」を2つに区分した上で、その精神・思想である「普遍的な生」を「第二の生」に属するもの/「第二の生」の延長にあるもと位置づけている。そして、その観点から自らの思想的成長の足跡(「第一の生」から「第二の生」への人生における比重の移行)を記している。 <ロランが示す2つの生> ○「第一の生」について(P297) 先祖から承け継いだいろいろな構成要素の結合が一定の空間と時間との中で私に着せている人物としての生 =「皮相的(物質的)一時的(有限的)」な生 =人間の実社会における生、一個体としての生。その個人で完結。 ○第二の生について(P297) あらゆる生の息吹であり実質そのものであるところの、顔も名も場所もない《実在》の生 =「持続的(無限的)で深い」生 =★「第二の生」はロランの普遍的な精神・思想(普遍的な生)へつながってゆく。 ロランはその思想的な成長段階として、次の3つのステップを経てきたことを記している。ロランはそれらを「3つの閃光」と表現している。本章ではロランの思想の最終的な到達点は主眼とされていない。ロランは自分自身が最終的に到達した思想のみでなく、その思想的到達点に至るまでの自己の思索の変遷/精神的成長の過程を記すことにより、自己の精神を立体的に表現しようとしたのではないかと考える。 (第一の閃光)フェルネーの見晴らし台 (第二の閃光)スピノザの燃える言葉 (第三の閃光)トルストイ的な閃光 (1)「(第一の閃光)フェルネーの見晴らし台」について 当時16歳のロランが物理的に見たものはフランス国境地帯の田園風景。しかしロランの精神はここに(それまでは普遍的ものとして疑っていなかった)「国家」というものの限界を見たのではないかと考える。 例えるならヴォルテールが「ガンディード」などで示す個人の精神の尊重(個人の人生の「国家」に比しての優越、「国家」の虚構性)(*1)、ルソーの示す単なる政治機構でしかない「国家」(国家は単なる政治機構でしかなく、世界にはそれ以外/それ以上の概念が存在している。)(*2)、などの思想/その思想の萌芽をロランはここで見つけたのではないかと考える。(*3) *1:「ヴォルテールが私の心に伝えたものは何だったのだろうか?・・・その後三十年経って第一次世界大戦中に初めて私は自由な笑いの魔神(ヴォルテール) *2:「・・・浪漫主義の調子はみじんもない。これはルソー以前の大きな古典的風景である。」(P300) *3:「・・・私のみちびきである見えない運命の手が、フランス国境へ私が行って私の視野が自分の国を超えるのを待ち受けて、そこで私の眼かくしを取り外してくれたのだということの意義なのである。」(P301) (2)(第二の閃光)スピノザの燃える言葉 ロラン16歳から18歳までの学生時代に傾倒した思想である。なおロランは後にこのスピノザの思想を「卒業」している(*1)が、ロラン自身の思想形成過程におけるその重要性と意義は認めている。(*2) ロランにおいて、スピノザの合理主義はデカルトなどの「抽象的・普遍的」思考を主とする古典的/閉鎖的学問・思想からの突破口であると受けとることができたのではないかと考える。そして、ここにおけるロランのスピノザ受容は実在論の観点で受容である。(*3)ここでロランのいう実在論とは「抽象的概念、普遍的概念を用いた論理的考察ではなく物質的にリアルな事物や現象のつながり、関連性を論理的に説明、明確化する考察」であると考える(具体的にはP305~P308参照).。ロランはその若さから「実在論」的スピノザを「抽象的・普遍的」な古典的な思考方法で受容していたのではないか? なお、ロランは当時のロラン自身のスピノザ受容を必ずしも的確な理解に基づくものではなかったことを本文中で認めている。 ※1:「私の思想は今では師ブノウ(スピノザ)の厳格な合理主義からは脱しており・・・」(P303) ※2:「(ロラン自身の若い時代のスピノザ理解について)この思想ははなはだ私自身のものであり・・・少なくとも一つの確乎たるプラットフォームを―待つためのプラットフォームを与えてくれた。」(P310) ※3:「・・・私の心を奪ったスピノザは、確かに幾何学的秩序の巨匠としての彼・・・実在論者(レアリスト)としての彼であった。・・・」(P305) (3)(第三の閃光)トルストイ的な閃光 エコール・ノルマル入学の少し前の時期、ロランはトルストイの「戦争と平和」の一場面から「第三の啓示」を受ける。(*1)その場面とは大富豪のロシア貴族・ピエールがフランス軍に捕らえられて搬送される途中で笑いだす場面である。ここでロランは、ピエールがロシア社会と切り離されたピエール個人の精神の存在に気がついたことを発見したのではないかと考える。ここでピエールが気がついた「ピエール個人の精神」とは本レジュメに記す「第二の生」に該当する。 なお、ロランのトルストイ観については「若い時代」とは異なり(また、一部は当時も共通していたが)、トルストイに「知性面での影響」は求めていない。あくまで「道徳面での影響」である。(*2)これは、トルストイの作品における民族精神(歴史、民族文化などの影響)の強さに起因するものである。ロランは決してトルストイの作品における「知性」の存在を否定してはいないが、その対極にある民族精神の影響の強さのため、「知性」要素が制約を受けてしまっていることを指摘している。そしてその知性をゴーリキーに求めている。ここで「知性」は「第二の生」に、「民族的要素」は「第一の生」に該当する。(*3) *1:「・・・さてその後一年ほどして『戦争と平和』を初めてむさぼり読んだときに、ピエールのあの発見(悟り)の箇所を読んで私は心が震えた。・・・ピエールは夜の大空を見つめた。《これらすべては僕のものだ!》と彼は考えた。―《これらすべては僕のうちにある。これらすべてが僕だ!・・・》・・・」(P314) *2:「・・・トルストイが私に及ぼした影響については一般によく理解されていない。美的にははなはだ強く、道徳的にはかなり強く、知性的には皆無である。・・・」(P311) *3:「・・・トルストイのおどろくべき天才力と、その天才力のたくさんの根・・・我々をもっともじかに触れさせる人はゴーリキーである。・・・」 なお、ロランとトルストイ、ゴーリキーの関係については、宮本正清先生の論文「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」(人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章)でも触れられているので参考にすることを推奨する。 (以上) 読書会補助資料1 ロマン・ロランをめぐる人々 ―高杉一郎― 「極光のかげに」をはじめとするシベリア抑留をテーマとした作品で有名な著述家・文学者である高杉一郎氏のロマン・ロラン観を紹介します。 1.高杉一郎氏とは? 1908年~2008年。著述家、翻訳家、文学者(静岡大学、和光大学教授)。元・改造社「文芸」編集長。戦前は改造社の雑誌「文芸」編集長として活躍するも、軍部からにらまれて出征。終戦後はシベリヤ抑留生活を送る。シベリヤ抑留から帰還後、「極光のかげに」をはじめとするシベリア抑留をテーマとした記録作品の執筆、英米露文学研究者として小説の翻訳や作家の評伝執筆、エスペラント運動の研究など幅広い分野で活躍。 ロランとの直接的な交流はなかったが、高杉氏はその著書でたびたびロランについて言及している。また、ロマンロラン研究所と関係の深い片山敏彦先生、加藤周一先生、小尾俊人先生、村上光彦先生などとも交流が深かった。 <主な著書> 「極光のかげに」(1950年 目黒書店 1991年 岩波書店) 「スターリン体験」(1990年 岩波書店:2008年「私のスターリン体験」と改題して再販) 「シベリアに眠る日本人」(1992年岩波書店) 「征きて還りし兵の記録」(1996年 岩波書店) 「大地の娘‐アグネス・スメドレーの生涯‐」(1988年 岩波書店) 「夜明け前の歌‐盲目詩人エロシェンコの生涯‐」(1982年 岩波書店) 「中国の緑の星‐長谷川テル反戦の生涯‐」(1980年 朝日新聞社) 「ザメンホフの家族たち‐あるエスぺランティストの精神史‐」(1981年田畑書店)他 <主な翻訳> 「ギリシャ神話」(グレーヴス著・紀伊国屋書店) 「エロシェンコ作品集」「同・全集」(みすず書房) 「中国の歌声」「中国は抵抗する」(スメドレー著・みすず書房/筑摩書房)(同・岩波書店) 「権力と戦う良心」(ツヴァイク著・みすず書房) 「ある革命家の生涯」「ロシア文学の理想と現実」(クロポトキン著・岩波書店) その他、英米露の児童文学などの翻訳多数 <関連書籍> 「若き日の高杉一郎」(太田哲夫・著 未来社:「未来」2008年12月号に追加論文有) 「高杉一郎・小川五郎 追想」(追悼文集:かもがわ出版から2009年7月発売予定)他 2.高杉一郎氏のロマンロラン観 (1)「内面の旅路」の「女友だち」の章で記されているロマン・ロランとマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとの交流について「私のいちばん好きな文章」(「ザメンホフの家族たち」P248)と述べ、有名なエッケルマンによる「ゲーテとの対話」などと同列に評価している。(同・P243) また上記を含めて、「ロマンロランの『道づれたち』」「かたくなな家庭教師とやさしい女友だち」などの各文章(いずれも「ザメンホフの家族たち」所収)で高杉氏はロランの他の知識人(ガンジー、ルナン、シュピッテラー、レーニンなど)との知的交流(対話、書簡等による直接的交流、論文発表による他者の思想への肯定的評価/批判的考察など)を重要視しており、高次の知的交流は高杉氏のロランへの関心の中心であったと考えられる。 (2)ロランとソ連・スターリン主義との関係について、高杉氏はロランはスターリンにとって「物の数ではなかった」、スターリンに「かつがれた」等の見解を示している。これはロランとヘッセのソ連訪問への評価(「スターリン体験」第9章)やエスペラント運動とスターリンのかかわり(「エスペラントの擁護」(「ザメンホフの家族たち」所収))などで「圧倒的なスターリンの政治力の前になすすべがなかったロラン」を指摘している。 ソ連・スターリン主義の圧倒的な力を直接体験した高杉氏ならではの厳しい評価であるととともに、(第275回読書会補助資料3で取り上げた)ジャーナリスト松尾邦之助氏の見解とも共通するなど、現実の政治の視点からのロラン評価としての特徴をもっていると考えられる。 (3)高杉氏は、自身のテーマの一つでもあるエスペラント活動への理解者としてロランを評価している。(「中国の緑の星」P25、「エスペラントの擁護」(「ザメンホフの家族たち」所収)他) (4)高杉氏はその著書の中でロランが第二次世界大戦前夜に執筆した子供向け絵本「ヴァルミイ」を取り上げ、その執筆経緯/思想的背景、ロランを取り巻く社会的背景などに言及するなどロランの執筆活動を適確に把握し、その意味を深く考察していた。(「ザメンホフの家族たち」P244) (5)高杉氏はロランの見識を高く評価し、魯迅の「阿Q正伝」などはロランの書評などをきっかけに研究した。また、改造社時代は社長・山本実彦に対し訪欧時のロランとの会見を勧めたり(「若き日の高杉一郎」P94)、高杉氏自身の文章へたびたびロランの文章を引用するなど、ロランを重要視している。 3.備考 高杉氏自身のロランを取り上げた文章、及び「高杉一郎・小川五郎 追想」(かもがわ出版)における加藤周一先生、小尾俊人先生、村上光彦先生の寄稿を別紙で紹介します。 (以上) 読書会補助資料2 ロマンロランをめぐる人々 ―山本実彦― 改造社・社長として有名な出版人・山本実彦氏によるロマン・ロラン会見記を紹介します。 時代的/社会的な背景や制約、著者の関心/視野の方向性や専門性、・・・等の諸要因で、現在の我々が読むと意外であると感じたり誤解を生じてしまいそうな箇所もありますが、同時代の日本知識人の一視点からのロラン観として受け止め、(各自で注意しながら)ロラン理解のための参考にしてください。 1.山本実彦氏とは? 改造社社長として活躍した出版人。ロランに対して自社の出版物へ複数回寄稿を依頼しロランの文章の掲載を実現。また、高杉一郎氏などの勧めもあり、1940年の訪欧時には高田博厚氏とともにヴェズレーでロランと会見。その記録は「蘇聯瞥見」(改造社1941年)等に収録。上記旅行も含め世界各地を訪問して各地の政治家、知識人との会見。会見内容や時事情勢をレポートした著書多数。 なお、「出版人としての山本実彦」については小尾俊人先生の著書「出版と社会」(幻戯書房)に詳述されているので本資料では省略。また「出版人の遺文」シリーズ(栗田書店)にも山本氏自身の文章がシリーズ中の1冊としてまとめられている。 2.山本実彦氏のロマン・ロランとの会見 (1)日時: 1940年4月(約3時間半) (2)場所: ヴェズレーのロラン宅 (3)同席者: マリー・ロラン夫人、高田博厚氏 (4)時代背景: 第二次世界大戦は始っていたが、まだフランスは降伏していない状況。 (5)記録: 「蘇聯瞥見」(改造社1941年)、「欧州の現状と独英の将来」(改造社1940年) (6)会見内容要旨: 山本氏によるロマン・ロラン会見記のポイントを記します。 とくにガンジーに対する(部分的に)批判的見解、当時の独裁者3人(ヒットラー, スターリン, ムッソリーニ)に対する批評、などは興味深いところです。 (1)ロランの文学的見解 <ロシア文学について> ・ロシアで現在(1940年当時)もっとも重要な作家はゴーリキーである。ゴーリキーの人格はその作品より偉大である(ロランの発言の意味するところは山本氏にも不明)。また、ゴーリキーはソ連の多くの若手文学者を(文学的に)指導しているとともに、スターリンの政治的圧力に抵抗している。 ・ゴーリキー亡きあとロシア文学を担っていく作家としてはトルストイ、ショーロホフなどが挙げられるが、ゴーリキーと比べると力不足であることは否めない。 <英文学について> ・バーナード・ショウは独特の皮肉が面白いが建設的でない ・H・G・ウェルズは博学で創造的、そして非常に立派な意見を述べるが、その意見がしばしば変わってしまう。 <今後注目すべき重要な作家> ・世界文学の観点からはトーマス・マンが挙げられる。 ・フランス文学の観点であればジユール・ロマン、ジョルジュ・デュアメルが挙げられる。 <タゴールについて> ・タゴールの詩が最も意味を持つのはインドの中世語で書かれた時である。現在(当時)の英訳は適切でない。 (2)ロランの政治的見解 <第二次世界大戦について> ・我々はあらゆる平和的手段を用いて本大戦勃発を防ごうとしたができなかった。 ・本大戦には目的がある。ヒトラーは戦争という手段を取らなくてもドイツ第三帝国を作ることができたと思われる。 <ガンジーについて> ・ガンジーのは時勢の進捗とともに進歩する力を持っている。しかし世界全体を見渡した時、ガンジーの視野が及ばない点がある。(それ以上の具体的指摘はなし) <当時の独裁者3人(ヒットラー, スターリン, ムッソリーニ)について> ・ヒットラーは3人の中では一番天才的で、かつ、前途の見通しのきくこといん関しては神秘的でさえある。ただし、その天才は均衡がとれていないし、しっかりした基礎に欠ける。 ・ムッソリーニは聡明な男だが独創的なところはない。ムッソリーニはあちらこちらから意見を集めてきてそれを巧みな抑揚や身振りで表現する。ムッソリーニの全体主義体制自体、ソビエト体制の模倣である。 ・スターリンは謎の人物である。トロッキーはインテリで聡明だがスターリンは一筋縄ではいかない点でトロッキーより上である。スターリンは権力を手放さない。スターリンは冷たいところがある。・・・など。(途中でロラン夫人により話が遮られる) <戦後の政治体制について> ・小国では政治的影響力に限界があるヨーロッパも連邦制を採用すべきである。そのスタートとして英仏の連携が重要になる。 ・英国的帝国主義は崩壊する。英国の植民地は順次独立し、英国の政治、文化は英国本国にのみ残ることになるだろう。 ・フランス帝国主義も残念ながら植民地での圧政を実施した。しかしゴール主義の流れをくむフランスはドイツのような他民族排斥主義は発生していない。 (以上) |
第276回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
第276回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会> ************************************ 報告内容 『ヘンデル』 発表者 清原章夫さん 『ロマンロランをめぐる人々-宮本正清先生-』 『ロマンロランをめぐる人々-山口三夫先生-』 『ロマンロランをめぐる人々-松尾邦之助氏-』 『ロマンロランに関する書籍・記事の紹介(海外編)』 発表者 黒柳大造さん ************************************ 『ヘンデル』 1.ヘンデル Georg Friedrich Handel (1685~1759) J.S.バッハに並ぶバロック音楽最大の作曲家。ハレ大学で法律を学んだのち、ハンブルグに出てカイザー(1674~1739)後継者として歌劇の作曲で成功。1706年から’10年までイタリアで活躍したのち帰国。ハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長になったが、この年にロンドンに出て歌劇を上演、’12年ふたたびロンドンに赴いたまま、’27年にはイギリス市民権を得た。この間おもに歌劇の分野で作品を発表し、イタリア人ボノンチーニ(1642~78)競い合ったが、’32年より英語の歌詞によるオラトリオ(宗教的な性格をもった長い歌詞による楽曲)の作曲に新生面を見出し、「メサイア」を含む数々の傑作を生み出した。 このほか、バロック様式の協奏曲、ソナタ等もあるが、バッハが教会音楽家であったのと対照的に、劇場または公開演奏会用の作品を中心としており、ドラマティックで色彩的な要素が強く、特に合唱曲にすぐれている。(三省堂:クラシック音楽作品名辞典) 2.ロランのヘンデル研究 (1)『ヘンデル』「このささやかな書物はヘンデルの生涯や作風のごく簡単なスケッチにすぎない。」(同書序) ベートーヴェン以外では、一冊の著述をあてたのはヘンデルのみ。 (2)ヘンデル協会のプログラムに使用された5篇の論説。 (3)国際音楽協会の機関誌に寄稿した評論1篇。 3.ロランにとってのヘンデル ロランは、ベートーヴェンについでヘンデルの音楽に深く傾倒した。 (1)「わたしにとって、いわばわたしの実体をなす芸術―音楽においてさえ、わたしは巨匠たちのなかでも、ベートーヴェンやヘンデルのように、その音楽が行動を鼓吹するような人々に傾倒する。」(『闘争の一五年』序説) (2)「自分の種族の涙っぽい信心ぶりの癖を無視して、あの巨大なアンセム(イギリス国教会礼拝式で歌われる合唱曲)や英雄詩的なオラトリオを書き、諸国民衆のために、諸国民衆に通じる歌を作ったヘンデルの作品をクリストフは、読み直してみた。」(『ジャン・クリストフ』「女友達」) (3)「又ベートーヴェンがヘンデルと共に、とくに理想的民衆、今日のそれよりもいっそう完成せる民衆、まさに有るべき民衆の歌手であったとすれば―」(『ベートーヴェンへの感謝』) 4.ヘンデルの作品をCDで聴く (1)「見よ、勇者は帰る」オラトリオ『ユーダス・マカベウス』より (2)コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)第2番ヘ長調 op.6-2 (別紙資料参照) (3)ハープ協奏曲 変ロ長調 op.4-6(リュートのための協奏曲) (4)「ハレルヤ・コーラス」オラトリオ『メサイア』より ロマンロランをめぐる人々 ―宮本正清先生1― 発表者 黒柳大造さん ロマンロラン研究所の創設者で代表的なロランの日本への紹介者である宮本正清先生の論文を紹介します。論文多数であるため本報告では一般誌(著書、大阪市大紀要論文、雑誌掲載論文)などに掲載されたものを中心に紹介し、ユニテ掲載論文などは、次回以降、段階的に紹介します。 1.宮本正清先生とは? 1898年~1982年。フランス文学者。詩人。ロマンロラン研究所理事長(創設者)。 立命館大学、大阪市立大学教授。京都精華大学学長。ロマンロランの作品の翻訳多数。 2.主な著書・翻訳 翻訳 ロマン・ロランの作品(ロマン・ロラン全集(みすず書房)、岩波文庫、など) 研究書「ロマン・ロラン 思想と芸術」(1958年 みすず書房) 詩集「生命の歌」(1949年 みすず書房) 詩集「焼き殺されたいとし子らへ」(1981年 みすず書房) 他多数 3.主な論文とその概要 宮本先生の主な論文とその概要を記します。いずれも重要な論文ですが、とくに(3)~(7)についてはロラン作品への理解を深める上で不可欠であると考えます。 (1)「ロマン・ロランのジャン・ジャック・ルーソォ論」(人文研究(1950年)大阪市大) 宮本先生は、ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイ等のロランの一連の評伝は多くの読者にその優れた精神性を伝えたと高く評価している。そしてルソー論についてもそれらの一連の評伝と並び立つ内容であると述べている。(本論文は未完) (2)「ロマン・ロラン研究所とロマン・ロランの書簡の意義」 (人文研究(1952年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第6章) パリにあるロマン・ロラン研究所とそこに保管されているロランの資料(含:書簡)の紹介とその重要性が述べられている。マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(ロランのイタリア時代の文通相手)、ソフィア・ベルトリーニ(同)、ロランの母、及び妹(マドレーヌ女史)の重要性が述べられているのに加えて、その書簡相手としてツヴァイク、トルストイ、ラッセル、・・・等の多くの知識人の名前が挙げられている。 (3)「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」 (人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章) ロマン・ロランとトルストイおよびゴルキーの関係について、そのそれぞれの意味、特徴に関する考察がなされている。 ロランとトルストイとの関係について、宮本先生は、両者が生きた環境(共和国フランスの中産階級と帝政ロシアの貴族階級)に相違があるものの、両者はともに共通点として「清教徒的な正義感」や両者の生涯の基調をなす「道義心(モラル)」を持っていることを指摘し、さらにそれらが両者の芸術的本質であると述べている。 これに対して、ロランとゴルキーの関係については、革命後のロシアに対する社会的意識の共通性が重要であるとを指摘し、トルストイとの関係と比較してゴルキーとロマンロランとの関係は「はるかに現代的であり、より多くの政治的要素を含んでいる。」「この二人の交わりを通じて、私たちはゴルキーとロランの人間と芸術を知るのみでなく、現在および将来の社会における芸術の性格、そのあり方について、いろいろ重要なポイントをとらえることができる。」と述べている。 (4)「ロマン・ロランにおける笑いⅠ -コラ・ブルニョンについて-」 (人文研究(1960年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第4章) ロランが生んだ2つの喜劇「コラ・ブルニョン」「リリュリ」の内、前者について考察がなされている。 「・・・芸術家においては、笑いも涙も、悲劇も喜劇も本質的にはもちろん、その表現の過程においても決して異なったものではないのである。」と「喜劇」の受け止め方の概要が述べられた後、「コラ・ブルニョン」の作品とその背景の説明がなされている。そしてロランが「コラ・ブルニョン」で表現したかったものとして、時間的、空間的、民族的、人種的な差別を越えた「人間的同情共感(サンパティ)」であることが述べられている。そして、さらにその「人間的同情共感(サンパティ)」をロランの人生に対照させている。 (5)「ロマン・ロランにおける笑いⅡ -リリュリについて-」 (人文研究(1961年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第5章) ロランが生んだ2つの喜劇「コラ・ブルニョン」「リリュリ」の内、後者について考察がなされている。 ここで宮本先生は「リリュリ」の笑いを「クレランボー」の苦悩と一体のものととらえており(「クレランボー」で描かれた社会的狂気に対するロランの苦悩は「リリュリ」においては痛烈な風刺の形式で表現されている)、そのロランの精神の生命力を高く評価している。 本文では上記のようなエッセンスとともに「リリュリ」の概要を述べながらその中に描かれたロランの視点が解説される。 (6)「ロマン・ロランの思想・芸術の根底としてのヒューマニズム-ロランの宗教思想-」 (人文研究(1962年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第1章) ロマンロランの思想、芸術の底流となるヒューマニズムの考え方を「内面の旅路」の「敷居」章を通して考察した論文。(7)の論文とセットでの考察となっている。 本論文では、ロランの少年期~成人期までの宗教的思想遍歴を説明した後、ロランが到達し、また、多くの作品を著わす際の基盤とした思想(宗教的思想)を次のように説明している。「ロランがみとめた神は人間自身のうちに、人間的であると同時に神的な(結局それは一つのものにすぎないが)火を燃え立たせることである。それはすなわち積極的な、創造的な愛である。・・・」 (7)「ロマン・ロランの精神的遺言 -周航について-」 (人文研究(1963年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第2章) ロマンロランの思想、芸術の底流となる考え方を「内面の旅路」の「周航」章を通して考察した論文。(6)の論文とセットでの考察となっている。 本論文でロランのヒューマニズム、ロランの宗教思想についての考察はさらに深められる。そのエッセンスを宮本先生は次のように記している。 「思想の領域においても、信仰の領域においても、めいめいの個性の存在理由とその自由を尊重し、受け容れつつ、それらの個性の間にユニテと調和(アルモニー)とを求めようとする精神」 そして、そのロランの思想は、当時のフランス社会にはあまりに斬新・進歩的過ぎて、誤解と反発を招いたこともまた記されている。 (8)「ロマン・ロランの未発表の戯曲『マントーヴァの包囲』」 (人文研究(1963年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第7章) ロランの未発表の戯曲「マントーヴァの包囲」の紹介。本作品はロラン20歳代の作品であるが、後年のロランの思想(汎神論的な宗教思想。「周航」や「敷居」でも触れられている)につながる場面があることが指摘される。戯曲の概要が説明されたのち、宮本先生は本作品について「なによりも私の心を打つのは、この作品全体をつつむ詩であって、この点では、数多いロラン劇作中の白眉というべきであろう。」と述べている。 (9)「ロマン・ロランに関する断章」 (人文研究(1966年)大阪市大) エコール・ノルマル(フランス高等師範学校)在学時代、ローマ留学時代等、ロランの青年期の思想を「義務」「歴史感」「芸術思想」「愛」などの諸観点から考察して、それぞれに後年のロランの思想への萌芽となるポイントを指摘している。 (10)「ロマン・ロランの小説」(「高原」(岩波書店1949.9)) 「コラ・ブルニョン」「クレランボー」の2作品についてそれぞれ独立して紹介。「コラ・ブルニョン」については作品概要とは別に解題をまとまった段落として記載しているが、「クレランボ」については概要紹介と解題を兼ねた記述となっている。(解題となりうる箇所の引用により解題に代えている。) (11)「ロマン・ロランの民衆演劇論」(「世界」(岩波書店1950.4)) 演劇の持つ社会的意義を述べた上で、ロマン・ロランが民衆演劇に期待し、そしてその「民衆演劇論」に記した精神性について、「民衆演劇論」の解説とともに紹介している。 (12)「ロマン・ロラン研究ノートより」 (「ロマン・ロラン研究」第6巻(ロマンロラン協会1952.10)) ロマン・ロランとクルッピ夫妻との交流を紹介したもの。夫君のクルッピ氏はフランス外相も務めた政治家。クルッピ夫人はマルヴィダ、ソフィア、ベルトリエ達と並ぶ高いレベルの文通をロランと交わす。(本論文は未完(クルッピ氏とロランの議論紹介の途中で中断)) (13)「ロマン・ロラン(平和の文学者)」(「改造」(改造社1953.3)) 「平和」の視点からのロマン・ロランの紹介記事。 ロマン・ロランの平和思想を「ジャン・クリストフ」「クレランボー」などの小説、「リリュリ」などの戯曲、トルストイ等の評伝、「革命によって平和を」などの政治・社会論、などの一つ一つの作品と対照させながら紹介。 (以上) 書会補助資料2(2009.5.23) ロマンロランをめぐる人々 ―山口三夫先生1― 発表者 黒柳大造さん ロマンロランの研究家で、ロマンロラン研究所とも関係の深い山口三夫先生について紹介します。 1.山口三夫先生とは? 1928年~1997年。フランス文学者。多摩美術大学、静岡大学教授。 ロマン・ロランの翻訳多数(みすず書房 ロマンロラン全集)。ユニテへの寄稿多数。 ロマン・ロランの他、サン・テグジュペリ、ヴィクトル・ユゴー、アンドレ・マルローなどの研究・翻訳でも活躍。 社会活動として、アフリカ問題(反アパルトヘイト運動)などに取り組む。 <主な著書> 「歴史のなかのロマンロラン」(1964年 勁草書房) 「ロマンロランの生涯」(1967年 理論社) 「人間像 その市民的改革」(1970年 理論社) 「暴力と非暴力のあいだ―知識人・歴史現実・精神の戦い―」(1975年 蝸牛社) 「白い仮面、黄色い仮面―アフリカを見すえながら―」(1986年 すずさわ書店) 「ヨーロッパ近代との対話―戦争と平和を軸に<人間>をめぐって―」 (リーベル出版 1993年) 「ロマンロランとともに―平和と愛の泉へ―」(リーベル出版 1994年) 他多数 2.ロランとのかかわり <主な翻訳> ジャン・クリストフ(講談社) 愛と死のたわむれ(主婦の友社) ベートーヴェンの生涯(主婦の友社) 先駆者たち(みすず全集) 闘争の十五年(みすず全集) 精神の独立(みすず全集) 日記・書簡(みすず全集) など <主なロラン関係著作> 1項参照。 タイトルに「ロマンロラン」の名前がなくても、文中ではロランへの言及多数有 <ユニテへの寄稿> No.7「力に対する精神の闘い ― ロマン・ロランの≪政治≫原理」(1978) No.10「断 章 ―『魅せられたる魂』」(1979) No.12「<<ロラン体験>>の持続と展開」(1980) No.15「雑感 : <<ユニテ>>への歩み」(1982) 3.ロランについての考え方 山口先生のロランへのアプローチには、次のような特徴が挙げられる。 (1)「欧州社会を人文主義(ユマニズム)の時代まで遡り、その当時を起点として欧州史の進歩を現代までの延長した先にロマン・ロランの思想・仕事を位置付ける」という、非常に長い歴史スケールの中でロマン・ロランを考察している。これは同時代的な比較によるロランの客観化とは異なる、歴史時間軸方向の視点からのロランの客観化となっている。(注1) (2)ロマン・ロランの影響の限界が欧米およびその文化的影響範囲(例:日本など)であることを指摘し、とくにその地理的「影響範囲外」の地域に着目している。(注2) また、ロランとガンジーとの考え方の違い(ロランはガンジーの非暴力主義と対立するロシア革命を肯定的にとらえている部分がある)を指摘するなど、政治・社会思想面での「範囲」内外にも注目して、(1)と同様にロランへの客観的アプローチを試みている。(注3) (3)通常のロラン研究から一歩踏み込み、(ロランの「影響範囲外」である)アフリカなどの地域を山口先生自身の論考・活動の対象範囲として位置づけ、実際に行動している。(南アにおける反アパルトヘイト活動など) (4)若い世代への「ロマン・ロラン、及びそれにつながる精神・思想」の紹介に積極的であった。少年少女向けの「ロマン・ロランの生涯」、青年向けの「人間像 その市民的改革」を含む複数の書籍、などの執筆を通じ、その精神の紹介・普及に努めた。 (5)同時代の日本社会の社会的意識の欠落など、日本人自身に対して、ロランの精神にも通じる視点から分析するとともに厳しく批判している。ロラン関係者に関しては高村光太郎や尾崎喜八など、戦争前後の立場の豹変やその無反省にを厳しく指摘をしている。(注3) (注1)「ヨーロッパ近代との対話」Ⅱ章、Ⅲ章など (注2)「ヨーロッパ近代との対話」P53-59など。 (注3)「暴力と非暴力のあいだ」Ⅲ章など (注4)「白い仮面、黄色い仮面」(特に第2章、第3章)など (以上) 読書会補助資料3(2009.5.23) 黒柳 ロマンロランをめぐる人々 ―松尾邦之助1― 発表者 黒柳大造さん 倉田百三の戯曲「出家とその弟子」へロマン・ロランが序文を寄稿することの橋渡しをしたジャーナリスト・松尾邦之助を紹介します。 1.松尾邦之助とは? 1899年~1975年。ジャーナリスト(読売新聞副主筆)。1922年~1946年フランスに滞在。在仏中はロラン、ジッド等のフランス知識人、辻潤などの在仏日本知識人などとの交流が多かった。著書、翻訳多数。 著書の中で松尾は「近代個人主義」(精神が確立・独立した個人による民主主義社会)の重要性を強調するとともに日本での「近代個人主義」への理解の欠如(戦前の日本でみられた国家(集団)が個人を圧殺する日本的集団主義への反省が不充分であること)を批判。 <主な著書> 「巴里素描」(1934年 岡倉書房) 「戦後ルポルタージュ(再建のフランス)」(共著 1946年 鱒書房) 「フランス放浪記」(1947年 鱒書房) 「巴里物語」(1960年 論争社) 「近代個人主義とは何か」(1962年 東京書房 1984年 黒色戦線社) 「ド・ゴール」(1963年 七曜社) 「親鸞とサルトル」(1965年 実業之世界社) 「自然発生的抵抗の論理」(1969年 永田書房) ・・・ジッドとの対話の記録(「ジッド会見記」(1947年 岡倉書房)を増補改訂) 「風来の記」(1971年 読売新聞出版局) 他 多数 <主な翻訳> ○日本語→仏語 「枕草子」(清少納言)1929年 「恋の悲劇」(岡本綺堂)1930年 「出家とその弟子」(倉田百三)1932年 「太陽の季節」(石原慎太郎)1958年 ○仏語→日本語 「アンデアナ」(サンド)1948年 「日本という国」(デュアメル)1953年 「日本の文明」(デュアメル)1954年 「赤いスフィンクス」(リネル)1956年 「フランスとフランス人」(モロア)1957年 他 多数 <ロランとの関係> 松尾邦之助はロマン・ロランからの依頼で倉田百三作「出家とその弟子」の仏訳を実施。また、その出版に際しその序文執筆をロマン・ロランに依頼。松尾は「出家とその弟子」仏訳の関係でスイスでロランと面会(1929年)。その後、手紙のやり取りも有。 (ロランは独語雑誌で「出家とその弟子」を知り、一部、自分と妹で訳し始めたが、それをあきらめ松尾に依頼。) ロランは「出家とその弟子」の序文を執筆。現在、その邦訳は岩波文庫版「出家とその弟子」などに掲載され、現在でも読むことができる。また松尾がロランから受け取った手紙は戦時中焼失。ロラン全集第30巻の「日本人への手紙」にも掲載無(尾崎喜八への手紙の本文中に松尾の名前がでてくるのみ)。 <松尾邦之助のロラン観> (1)ロランと親鸞との思想はその底流で結ばれている。これは「信仰とは神と自分自身との対話であり、そこで確立した自我に立脚して社会と向き合う。」という宗教感が共通していることによる。ロランの思想はカトリシズムの精神・倫理から大きな影響を受けているが主体性をもった個人であり、決して(個人より神・宗教を上位におく)現代的な意味でのキリスト教徒、教会主義者ではない。また親鸞についても、(「南無阿弥陀仏」の念仏は対他的説法であり、)対自的には近代的自我精神(自己と向き合い、社会と闘争する精神)に生きていて、その点においてロランと共通している。 (2)ロランと親鸞は主観主義の観点を共有している。これはロマン・ロランと親鸞がともに「主体性を確立した個人は、つねに自分の思考を絶対的なものとし、いわゆる“客観的”といわれる一般的真理に騙されない」という考えをもってため。 松尾はスイスでロランにあった際、「『真・善・美』は主観的な価値判断か?それとも客観的な価値判断か?」というアインシュタインとタゴールの論争についてロランが「客観的であるといっても、究極において、ひとは、ただ『客観的だと思う』という主観的信仰の中にいるだけです」と語ったことを非常に重要視し、その言葉は親鸞の「親鸞一人がためなりけり」という言葉と通じるものととらえている。 (3)((1)(2)を包括し)ロランは「近代個人主義」の思想的流れの中に存在する。この流れの中にはサルトル、ジッド、スチルナア、リンネ、サルトル、キェルケゴール、親鸞なども存在し、それぞれに傾向は異なるものの、その根底には自らの主体性を確立、主観主義を信じる考えを共有している。そして「近代個人主義」となそのような「個人」が「調和」することで成り立つ社会を指している。 (4)ロランとジッドを比較すると、共通点も多いが、その相違点も多い。 いずれも、自分の良心に従って生き時の権力に激しい抵抗をやめなかった不屈の精神の持ち主であり、自己(自分の精神)を確立していて知識は第二義的なものにする賢者である。 しかし、相違点としては、ロランは「精神的闘士」でありトルストイ風のヒューマニズムを根底に持っていたのに対してジッドはあくまで「個人主義者」であったこと、また、ロランは東洋文化を(西洋文化との比較において)公平な評価をしていたが、ジッドは西洋文化の優越性を信じていたことなどが挙げられる。 (5)ロランとジッドはソ連に対する姿勢、見解も対照的である。ソ連訪問後に明確にスターリン主義を批判したジッドに対してロランは態度を明確にしなかったこともまた相違点として指摘できる。また、そのソ連についても、ロランはソ連の暴力革命主義とガンジーの非暴力主義という矛盾する2つの考えの間で苦悩していた。 (以上) 読書会補助資料4(2009.5.23) 黒柳 ロマンロランに関する書籍・記事の紹介(海外編) 発表者 黒柳大造さん ロマンロランに対する理解を深める一助とするため、ロラン関する海外の書籍・記事(邦訳)を紹介します。 (1)「ロマン・ロラン」(S・ツヴァイク著 創元社1953年) →ロランの評伝。冒頭、ロランの生涯の概略を説明したのち、「演劇論」「英雄の伝記」「ジャン・クリストフ」「コラ・ブルニョン」「政治論」という順序で、ロランの作品にそってロランの思想を紹介。ロランの精神性の高さを評価しているが、レファレンスの提示が少ないことから、著者であるツヴァイク自身のロラン観を強く表現・反映した内容であると考えられる。 ツヴァイクのロラン論でまとまったものは本書であるが、それ以外にも自伝「昨日の世界」(みすずライブラリー みすず書房:ツヴァイク全集第19、20巻にも所収)や評論集「ヨーロッパの遺産」(第2章「ロマンロラン」:ツヴァイク全集第21巻所収 みすず書房)の中でロランについて記述している。 (2)「ロマン・ロラン」(J・ロビシェ著 みすず書房(ロマンロラン全集第43巻)1985年) (3)「ロマン・ロラン」(M・デコード著 理論社1954年) →(1)と同じくロランの評伝。ロランの作品に沿ったロラン思想の記述は(1)と同様であるが(2)(3)ともに、ロランへの評価、考察を根拠となる作品・文章を明確にした上で提示していることから、(1)と比較して客観的、学術的な内容になっている。 (4)「現代フランス文学の開拓者」(E・R・クルティウス著 白日書院 1947年) →第3章「ロマン・ロラン」でロランについて記述。 ロランの作品に沿ったロラン思想の紹介という形式は同じであるが、本書はロランの特徴として、ロランの「ヨーロッパという観点への信仰」「フランスとドイツの精神連帯性への信仰」を指摘している。 (5)「人間を問う作家たち」(P・リーチ著 みすず書房1972年) →第2章「ロマンロランにおける神の諸相」でロランについて記述。 ロマンロランの宗教心理に視点をあわせ、その生涯の各段階について考察している。著者はロランの「信仰」の概念はきわめてあいまいで、ロラン自身は自らの信念を守ることも含めて「信仰」と考えていた(作品の記述より)が、一般的視点からは「信仰」をもったのは幼年期と晩年のみであると指摘。 (6)ロマン・ローランの宗教思想(P・クローデル著 雑誌「世紀」1952年4月号掲載) →ロランと関係が深い外交官・詩人のクローデルによるロランの宗教思想に関する論文。クローデルは、ロランは狭義の信仰(カトリック信仰)を持った時期は短かったが、ロラン独自の信仰(自らが信頼するものへの信仰)は、その生涯を通じて信念として継続して持っていたと指摘。そのロランの信仰の代表的な対象としてベートーヴェンなどを挙げている。 備考:ツヴァイクの「昨日の世界」を除けばいずれも絶版の可能性大の書籍ですので、図書館や古本屋で入手して読む必要があります。(1)~(3)及び(6)はロマンロラン研究所の書庫にもあります。(ロマンロラン研究所HPの「Library和書」参照) (以上) |
開講座 講演会 「持続する〈ナクバ〉──反復されるホロコースト」
小森謙一郎氏
ナクバとは1948年のイスラエル建国以来、パレスチナの人々が被ってきた苦しみを指す言葉である。演者によると、2023年10月7日に始まったハマスによるイスラエルへの戦闘の前から、ほとんど報道されてこなかったが、イスラエルにより追放、占領、略奪、殺害などが今も続いている。ホロコーストの被害者だったユダヤ人のもとで、なぜアラブ人被害者が生み出され続けるのか、最新の研究に基づいて、ナクバとホロコーストのつながりが解明される。
日 時 2024年5月11日(土)14時~16時(予定) 会 場 アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール アクセス | Institut français du Japon – Kansai (institutfrancais.jp) 参加費 1,000円 会員、学生無料
講師プロフィール 小森謙一郎氏 武蔵大学人文学部ヨーロッパ文化学科教授。専攻は、ヨーロッパ思想史。
著書に『アーレント 最後の言葉』(講談社選書メチエ、2017年)、『デリダの政治経済学』(御茶の水書房、2004年)、編著に『人文学のレッスン』(共編、水声社、2022年)、訳書にバシール・バシール+アモス・ゴールドバーグ編『ホロコーストとナクバ』(水声社、2023年)、ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ『フロイトのモーセ』(岩波書店、2014年)などがある。
主催 一般財団法人 ロマン・ロラン研究所
『ジャン・クリストフ物語』出版記念 <朗読会とパーティー>
時 2023年10月20日(金)午前11時―午後3時
会場 京都ガーデンパレスホテル
- リコーダ-伴奏による朗読会
出演 リコーダー 村田佳生氏 大阪音楽大学楽理専攻 アムステルダム音楽院リコーダー科卒業
現在 大阪音楽大学 非常勤 講師
朗読者 村田まち子、山本和枝、西尾順子、中田裕子、松田有美子、宮本ヱイ子
(出演順)
第2部 パーティ
着席フレンチ料理
参加費8000円 第一部のみの参加は1000円
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公開講座 講演会 講師 平野啓一郎氏(作家)
演題 「コロナ共存社会における文学の役割と分人主義」
日時 2023年6月10日(土)14時~16時
会場 京都大学百周年時計台記念館国際交流ホール 定員:80名(先着順) 参加費:無料
平野啓一郎氏プロフィール 1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。
1999年在学中に『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。
著書は、小説『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ドーン』 『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』等 エッセイに『私とは何か 個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方~変わりゆ く世界と分人主義』等。
公開講座 講演会 「生なるコモンズとロマン・ロラン〜文明・戦争・欧州・日韓〜」 濱田陽氏
日 時 2022年11月13日(日)14時~16時 会 場 アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール アクセス | Institut français du Japon – Kansai (institutfrancais.jp) 入場料 無料
講師プロフィール 濱田 陽(はまだ よう)氏 1968年徳島生まれ、帝京大学文学部教授。京都大学人間・環境学博士。日本文化、比較宗教文化、文明論に取り組み、力強いやわらかさを有する人文学の可能性を切り拓く。
京都大学法学部卒、京都大学大学院人間・環境学研究科文化・地域環境学専攻。マギル大学宗教学部客員研究員、国際日本文化研究センター講師(文明研究プロジェクト担当)等を経て現職。法政大学国際日本学研究所客員所員、賀川豊彦記念松沢資料館客員研究員。
著書に『共存の哲学―複数宗教からの思考形式』(弘文堂)、『日本十二支考―文化の時空を生きる』(中央公論新社)、『生なる死―よみがえる生命と文化の時空』(ぷねうま舎)、『生なるコモンズ―共有可能性の世界』(春秋社)。共著に『現代世界と宗教の課題―宗教間対話と公共哲学』、分担執筆に『環境と文明』『宗教多元主義を学ぶ人のために』『収奪文明から環流文明へ』、『문화로 읽는 십이지신 이야기(文化で読む十二支神物語)』、A New Japan for the Twenty-Frist Centuryほか多数。
主催 一般財団法人 ロマン・ロラン研究所
講演会 『ロマン・ロランと日本の青年』 宮本正清 1971年5月15日
ロマン・ロランと日本の青年(映画『ロマン・ロ
ラン』上映)
宮本
正清
財団法人ロマン・ロラン研究所設立50周年記念 古都・京の記憶に残すべき戦時の日仏交流 ―関西日仏学館― 〈 トークと詩の朗読 〉
ロマン・ロラン セミナー<講演会> ヴイヴェカ―ナンダの生涯とメッセージ 2013年6月22日
公開講演会
インドの賢人 ヴィヴェーカーナンダ生誕150周年記念
「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯とメッセージ」
講師 スワーミー・サッティャローカーナンダ師
場所 アンスティチュ・フランセ関西(関西日仏学館・稲畑ホール)
時 2013年 6月22日 (土) 午後2時―3時半
「ヴィヴェーカーナンダの言葉は偉大な音楽であり、文はベートーベンのスタイル、感動的なリズムはヘンデルのコーラスのマーチのようである。」(ロマン・ロラン)
講師紹介 1949年九州生まれ。1973年神戸大学経済学部卒業。1974年大阪大学、インド哲学科研究生。1976年からラーマクリシュナ教団入門、ブラマチャーリー(修行僧)からインドのハイデラバードの僧院で、世界的に有名なインドの僧スワーミー・ランガナーターナンダ師の下で修行、秘書を経て、現在シンガポール僧院の副院長として霊性の奉仕活動を続けている。
<朗読とピアノ>オマージュ 宮本正清 2013年6月22日(土)午後2時―4時
プログラム & ノート
2013年7月6日(土)午後1時半~3時
会場 アンスティチュ フランセ関西 稲畑ホール
オマージュ 宮本正清 <朗読とピアノ>
<朗読>宮本正清詩集 戦時のつぶやき『焼き殺されたいとし子らへ』
4篇 皺、空、問、わらい *① 宮本ヱイ子
ロラン『戦時の日記』宮本正清 訳 村田まち子
『ジャン・クリストフ物語』宮本正清 翻案
中田裕子 山本和枝 下郡 由 西尾順子
*①わらい コラ ブルニョン …… ロマン・ロランの小説の主人公。ゴール地方の木工職人コラ ブルニョンの飲んで食べて楽しむフランス人特有の自由闊達な物語。
『戦時の日記』
『ジャン・クリストフ物語』
『ジャン・クリストフ』は音楽家の一生を描いた大河小説である。はじまりは幼少期「あけぼの」の巻からである。その「あけぼの」を子ども向けに翻案したものを、今回、音楽を核に主人公クリストフが直面する困難、貧困、差別、いじめ、不正の場面を抜粋して朗読する。
登場人物
ジャン・クリストフ 主人公(音楽家)
メルキオール 父(将来を嘱望されていた音楽家であったが酒におぼれる)
ルイーザ 母(貧しい階層出身)
ゴットフリート 母の弟 叔父 行商人
ジャン・ミシェル 祖父(元宮廷音楽隊長) メルキオールの父
<ピアノ演奏>
・ポール・デュパン/ジャン・クリストフより
「ゴットフリートおじさんとの会話」(8分)
小説中のシーンを忠実に再現した作品。ゴットフリートの素朴な歌は少年クリストフの心に衝撃を与え、その感動は彼の生き方・考え方までにも及ぶ。最後は作曲家デュパンの指示で「大コラールのように」と書かれる通り歌は少年の宇宙に響き渡る。
ドビュッシー/アラベスク 第1番 (4分半)
水の反映 ―「映像 第1集より」 (5分半)
花火 ―「前奏曲集 第2巻より」 (5分)
ロマン・ロランと同時代を生きたドビュッシーの作品から。
「アラベスク」は「アラビア風の唐草模様のように装飾が多く華やかな曲」の意味。
「水の反映」では、水の動きや反射する光の戯れ、またそれを見る人の心の動きまでもが表現される。
「花火」は7月14日・フランス革命記念日に打ち上がる花火や人々のざわめき・興奮が描かれ、最後にはフランス国歌も聴こえる。(岡田真季 記)
Paul Dupin(1865-1949)フランスの作曲家。独学で作曲を学ぶ。ロランの『ジャン・クリストフ』に強い影響を受けて作曲、ロマン・ロランの支援を受け1908年に『ジャン・クリストフ』を発表。孤独と病弱に苦しめられる。
ピアノ 岡田真季
桐朋学園大学音楽学部ピアノ科卒業。パリ国立地方音楽院(現CRR de PARIS)最高等課程で審査員満場一致の最優秀の成績で卒業。東京ニューシテイー管弦楽団、関西フイルとの共演、フランス クレ・ドール コンクール一位をはじめ、国内外のコンクールで優秀な成績をおさめる。2010年5年間の留学を終えて帰国。京都、東京にてソロリサイタル、大阪いずみホールではキエフ国立交響楽団とラフマニノフのコンチェルト第三番を共演。雑誌「音楽の友」にて「多様な音色と響きを曲想に沿って積み上げ、スケールの大きい全体像を構築する演奏家、高い技術と深い音楽性とが相乗した刺激的な演奏会」と評される。
(敬称略)
公開講演会 報告 2012年10月20日(土)午後1時半―3時 「ロマン・ロランと賀川豊彦」―戦いを超えて・死線を越えて-(濱田陽氏)
公開講演会
2012年10月20日(土)午後1時半―午後3時
「ロマン・ロランと賀川豊彦」−戦いを超えて・死線を越えて-
講師 濱田 陽氏 帝京大学文学部准教授
場所 アンスティチュ・フランセ関西(関西日仏学館・稲畑ホール)
ロマン・ロランと賀川豊彦とを合わせ鏡のようにして対比させながら、日本とヨーロッパの偉大な精神がそれぞれにいかにして精神の自由と友を求めて響き合っていったのかを解き明かした講演会であった。
現代の日本に生きる弱い私たちにとって、彼らの偉大な思想に依存するのではなく、それを咀嚼したうえで守り伝えていく必要性が説かれた。
【講師紹介】
徳島県生まれ(一九六八年)。京都大学法学部卒業、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。高校時代にロラン作品、学部在学中にロマン・ロラン研究所に出会い、現代日本人がロランに親しむことの意味について思索を深めた。マッギル大学客員研究員、国際日本文化研究センター講師(文明研究プロジェクト担当)等を経て、現在、帝京大学文学部准教授。専攻は比較宗教文化、国際日本研究、文明論。著書『共存の哲学 —複数宗教からの思考形式—』、共著『環境と文明 新しい世紀のための知的創造』、『韓中日文化コードを読む』等多数。
朗読会 2012年7月28日(土)午後2時―4時 『魅せられたる魂』 第二巻 -夏ー
ロマン・ロラン セミナー
<朗読会>報告
時 7月28日(土)午後2時―4時
所 ロマン・ロラン研究所
テクスト『魅せられたる魂』 第二巻 -夏ー
夏は3部構成であるが、今回は第1回目である。引き続き朗読を予定している。
「闘うため、探すためにして、見出すためならず、また譲るためならず」と扉書に導かれながら物語は展開する。
父のない子を生む決心、母性、世間の偏見、破産、貧困、シングルマザーとして生きる闘いと誇り、恋愛、生と死、神、さまざまなテーマを各自が選択して持ち時間10分で朗読。
朗読案内役 宮本ヱイ子
朗読者 山本和枝、下郡 由、中田裕子、権 英子、西尾順子。
戸外は37度を超える酷暑であった。その暑さに負けない重いテーマの朗読ながら参加者にすんなり入っていく心地よさが和室のサロンに清新な風を送った。女性の真摯な生き方への共感であった。時代背景は1900年のパリ万博から第一次世界大戦勃発まで。
朗読者と参加者の自分体験と女主人公アンネットの生き方を和やかに討論。遠く100年を経ても、遠くパリからも、いかに身近に私たちに迫ってくることか。次回に話をつなげていく。
『ロマン・ロラン伝』翻訳・出版記念会(東京会場)-小尾俊人氏へのオマージュを込めて- 2012年3月29日(木)午後6時―8時
『ロマン・ロラン伝』翻訳・出版記念会
―小尾俊人氏へのオマージュを込めて―
日時 2012年3月29日(木)午後6時―8時
場所 日本出版クラブ会館場所
<プログラム>
1.挨拶 主催者 財団法人ロマン・ロラン研究所 理事長 西成勝好
出版社 みすず書房 社長 持谷 寿夫 氏
編集部長 守田省吾 氏
2.ミニコンサート
琴とヴァイオリン合奏
「春の海 」宮城道雄作曲
「夢のあと」 フォーレ作曲
(出演者)
筝曲家 大谷祥子さん(友情出演)
ヴァイオリニスト 白須 今さん
3.立食パーティー 。
朗読会 2012年3月5日(月)午後2時半―4時 「女たちの祭典・ワークショップ 『魅せられたる魂』を朗読する」
ロマン・ロラン セミナー 2012年3月5日(月)2時―4時
―ひな祭りに寄せてー 女たちの祭典
『魅せられたる魂』 ワークショップ
「アンネットとシルヴィ」を朗読。
朗読者 村田まち子(朗読家)、下郡 由、中田裕子、権英子、山本和枝ほか
司会/進行 宮本ヱイ子
初めての参加者は「魅せられたる魂」に描かれたアンネットの生き方に共感し、
現代社会を生きる女性に通じる強さを発見した。
また、読書会メンバーは、朗読を通して「魅せられたる魂」の魅力を再発見した。
「魅せられたる魂」の朗読会は今後も継続予定。
『ロマン・ロラン伝』翻訳・出版記念会(京都会場)-小尾俊人氏へのオマージュを込めて- 2012年1月27日(金)午後4時―6時半
『ロマン・ロラン伝』翻訳・出版記念会』―小尾俊人氏へのオマージュを込めてー
2011年12月27日(金)午後4時―6時半
<プログラム>
第1部
講演1:「『ロマン・ロラン伝』を翻訳し いま、『ジャン・クリストフ』を読み返して」
村上光彦先生(翻訳者)
講演2:「ロマン・ロランとみすず書房と小尾俊人さん」
守田省吾先生(みすず書房編集部長)
第2部
<立食パーティー>
スピーチ:フランス総領事・関西日仏学館館長 P・ジャンヴィエ・カミヤマ氏
場所 関西日仏学館 稲畑ホール & ル・カフェ
京都市左京区吉田泉田町
朗読会 2011年2月19日(土)午後2時半―4時 「トルストイとロマン・ロラン」
朗読会 トルストイ没後100年に思いを馳せて「トルストイとロマン・ロラン」
日時: 2011年2月19日(土)午後2時半―4時
場所: 関西日仏学館 稲畑ホール
テクスト『伯爵様』 ロマン・ロランとトルストイ往復書簡 蛯原徳夫・訳
『トルストイの生涯』(1911) 宮本正清・訳
1.『伯爵様』より
ロランからトルストイへ ・・・安藤知子
トルストイからロランへ ・・・宮本ヱイ子
2.『トルストイの生涯』
「戦争と平和」より ・・・西尾順子
「懺悔と宗教的危機」より ・・・中田裕子
「復活」より ・・・下郡由
「彼の顔は決定的な顔だちとなり」 ・・・村田まち子
「闘いは終わった」より
公開講演会 報告 2011年11月19日(土)午後2時―4時 『フロイトとロラン -災厄の後に、幻想の前で- 』(小森謙一郎氏)
公開講演会 2011年11月19日(土)午後2時―3時半
『フロイトとロラン -災厄の後に、幻想の前で 』
講師 小森謙一郎氏 武蔵大学准教授
場所 京大百周年 時計台記念館・会議室Ⅳ
ロランとフロイトの間で交わされた限られた書簡などを手掛かりに、
ともに20世紀の偉大な思想家である二人の間の希有な友愛関係と
思考の対話をテーマとして、ヨーロッパ思想史の研究者である
小森氏による講演がなされた。
【講師紹介】
1975年、東京都生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
専攻:ヨーロッパ思想史。
関連する論文:
「留保された未来」(『思想』第1034号)
「自然学の後に来るもの」(『思想』第1049号)
神谷郁代ピアノリサイタル 10月9日(土)午後2時―3時半 京都堀川音楽高校ホール
神谷郁代ピアノリサイタル
10月9日(土)午後2時―3時半 京都堀川音楽高校ホール
このたびのピアノリサイタルには多大のご尽力を賜りまして誠にありがとうございました。感動的な演奏に温かい拍手が送られました。変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。ありがとうございました。
なお、当日の参加者は298人。座席数300席。
平成22年度京都市幼児・児童・生徒作品展および姉妹都市交歓作品展 京都市美術館 2010年9月29日―10月3日
ロマン・ロラン研究所に所蔵しています57年前のフランスの子供たちの絵28点を、平成22年度京都市幼児・児童・生徒作品展および姉妹都市交歓作品展に特別に出品させていただきました。
会期 2010年9月29日―10月3日 午前9時―午後5時
会場 京都市美術館 本館
ロマン・ロラン セミナー 2010.7.24
2010年7月24日
ロマン・ロラン セミナー
於 関西日仏学館
小林多喜二とロマン・ロラン
反戦争・世界主義の文学を求めて
エヴリン・オドリ(Evelyne Lesigne-Audoly)
はじめに
小林多喜二とロマン・ロラン - その接点は?
0. 『蟹工船』について(自己紹介に代えて)
『蟹工船』について
小説概要
2008年における『蟹工船』
仏語訳『蟹工船』について
1. 小林多喜二とロマン・ロラン - 平和の使徒・国境なき作家
戦乱の世を背景に、厭戦感が広がったヨーロッパ
早い時期から戦争中止を呼びかけたロマン・ロラン
死にいたる弾圧を恐れず、帝国主義戦争に抵抗し平和のために闘った小林多喜二
2. クラルテ運動と文芸雑誌『種蒔く人』
創刊者:小牧近江
フランスの平和主義と日本プロレタリア文学の架け橋
ロマン・ロランとアンリ・バルビュスの思想に傾倒
日本への帰国後、平和主義の為に活動
3. 反戦文学 - 『蟹工船』の場合
4. 反戦文学 - 『戦いを超えて』の場合
むすび
ロマン・ロランと小林多喜二の響き合う声
ロランと多喜二が21世紀に教えてくれる事は?
講演会 「犠牲の宗教への問い―ロマン・ロランの思い出に」 高橋哲哉氏
講演会
「犠牲の宗教への問い――ロマン・ロランの思い出に」高橋哲哉氏略歴1956年福島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。二十世紀西欧哲学を研究し、哲学者として政治・社会・歴史の諸問題を論究。著書 * 『記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュビッツ』(岩波書店 1995年) * 『デリダ――脱構築』(講談社 1998年) * 『戦後責任論』(講談社, 1999年/講談社学術文庫 2005年,ISBN 978-4061597044) * 『靖国問題』(筑摩書房[ちくま新書], 2005年,ISBN 978-4480062321) * 『国家と犠牲』(日本放送出版協会)と き 2009年10月24日(土)14時 ところ 関西日仏学館 http://www.ifjkansai.or.jp/ かいひ 500円(賛助会員無料) |
フー・ツォン ピアノ リサイタル
朗読会 『ジャン・クリストフ物語』 生演奏つき
朗読会 『ジャン・クリストフ物語』 生演奏つき
2009年2月7日 於:関西日仏学館
4回目を迎えた朗読会も皆様のお陰様で盛会でした。
今回、初の試みとして、BGMをこれまでの既成のCDから、ピアノの生演奏にしました。
使用した音楽も、ピアノ演奏者の岩坂富美子さんにオリジナル曲を作曲していただき
ました。
朗読と調和がとれていたと、大変好評でした。
ロマン・ロランを偲んで 永田和子
《これは、2008.11.17 高知新聞社 「月曜随想」掲載記事をもとに、編集部で写真を加えて再構成したものです》
ロマン・ロランを偲んで
永田 和子
去る十月二日から五日にかけて第一次大戦終結九十年を記念した国際平和シンポジウムが、フランスのロマン・ロラン協会主催でヴェズ レーやロラン生誕地のクラムシー等で開かれ、わたしたち日本人有志も参加することとなった。
ブルゴーニユにある丘の町ヴエズレーは大河小説「ジャン・クリストフ」で一九一五年度ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家ロマン・ロラン(一 八六六ー一九四四年)が晩年の七年間を過ごし、パリ解放まではドイツ軍の監視を受けながら生きていた終焉の地である。
丘の上に建つ聖マリー・マドレーヌ寺院はスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の出発点の一つであり、第二次大戦終了の翌年の一九四六年に一人の司祭の呼びかけで「かつて人々が目指した理想の世界を築こう。平和のためにヴェズレーの丘で祈ろう」とヨーロッパ中から四万人の人々がヴェズレーに集まった。
その中に四人のドイツ人が廃材で作った十字架を担って坂道を上っていった。
その十字架は今も寺院の中に飾られている。
研究集会や映画祭などが組まれる中で、京都ロマン・ロラン研究所は聖マリー・マドレーヌ寺院で詩朗読とピアノコンサーを開催した。
詩は戦時中、京都府警中立売署へ連行され、六十一日間の牢獄生活を送った土佐人宮本正清の詩集「焼き殺されたいとし子ら へ」の一節を日仏二カ国語で朗詠し、ピアニスト神谷郁代がべートーヴエンのソナタ「月光」、「ハンマークラヴィア第二楽章」、ピアノ協奏曲「皇帝第二楽章」などを演奏した。特に「皇帝」はナチスドイツの占領直前にベルギーのエリザベート女王がロランを訪問した時、ロラン自身がピアノを弾いて女王を迎えた曲である。
夜九時からはじまった朗読とコンサートは聴衆の心を掴み、閉会後も私たちは語り合い、写真を撮り合って交流し、修道士が「もう入口を占めます」叫ぶまで感動の渦の中に居た。寺院の外に出ると、ヴェズレーの夜空は満天の星が大きく輝いていた。天に近いのだという実感とともに静まりかえつた坂道をわたしたちは坂下の宿の方へ歩いていった。なお午前中にプレーヴの墓参りをすまし、夕方にはクラムシーの町の歓迎会にも出席していた。
翌々日、わたしたちはスイスに向かった。昭和三年、四年と、別々に土佐人の上田秋夫と片山敏彦がスイス・ヴィルヌーヴのヴイラ(荘)オルガににロランを訪ねているからである。
ヴィルヌーヴはバイロンの詩で有名なション城に近く、第一次大戦中、ジュネーヴ国際赤十字の戦時俘虜事務局で働きながら平和活動をしていたロランは大正十一年から十六年間、ヴイルヌーヴで父や妹と住まっていた。上田、片山の泊まったバイロンホテルは門柱二本にそれぞれ「HOTEL」「BYRON」と名前がはめこまれているだけで、はとんど実在しない。ただ一部の建物が老人ホームになっていて、老ヴィクトル・ユゴーが泊まった客間は昔のまま、保存されていた。
「ロマン・ロラン通り」にあるオルガ荘は持ち主が転々としたが健在であった。ロランがその生涯で政治問題に深く関わったのは、このオルガ荘時代である。ロランの話し相手であった胡桃の老樹は今はないが、この庭に来たタゴール一家、ガンジー、ネルー一家、ツヴァイク、マルチネ等、知名人の姿を想像した。ロランが、上田秋夫が片山敏彦が歩んだであろう小径をわたしは歩み続けた。そして眼前にひろがるレマン潮、向こうのスイスの山々の尾根、たなびく白雲、そして風、出発の時を惜しんだ。
(ロマン・ロラン研究所理事
ロマン・ロランと大震災 尾埜善司
ロマン・ロランと大震災 尾埜善司
三年前に阪神大震災がおきました。私たちにとっては突如。ベットの上で激しく上下に何物かにゆすられつつ「死」をイメージしました。廊下をはいながら、ふとロマン・ロラン『魅せられたる魂』の場面が心に浮かびました。シシリア島の大地震でブルーノ・キアレンツア伯は家族と邸宅すべてを失い、心身とも深く傷つきながら沼地の一軒家に一年こもり、雇いの婆さんの熱病をやむ十三歳の息子を引き取り、残った別荘に二人で暮らし、少年を看護し、日々ギリシャ神話を語ってやる。一年後少年は死ぬ。ブルーノは一人で少年をかかえて海の方へ下り、斜面のハタンキョウの若樹の群れに埋め、石の塚を立て唯一の文字を刻む。『不死なる者』――私が大震災直後にイメージしたのは少年を埋めるこの場面です。邸宅の廃墟の上には【光によって、愛を】と記されたキアレンツア家の楯形が残っていました。みすず全集版第三巻185ページ。
それからのブルーノ伯の行動はすごい。インド、チベットにわけいり乞食、巡礼生活も経て危険な社会活動に献身します。
まことにロマン・ロランは大震災を受けた者にも一ページごとに心の安らぎと生き抜くエネルギーを与えてくれるのです。
ロランは心の自伝『周航』で日本に呼びかけています。「神聖な山の下では火が燃え、その火は都市を周期的に揺り動かす。都市たちがその鼓動を感じない日はないが、日本の魂は氷と火と、山と海とで、みずからの調和を作り出している。」
いま私たちはこれに合ったイメージを持っているでしょうか。日本の行政は大震災後、直ちに民家の群れの跡に広い直線道路と画一的なビルの新築のみを計画しました。私たちは、ロマン・ロランが発信してくれているイメージを心にはぐくみ、行動するときに直面しています。 (1998年記)
「ピエールとリュース」の新装版
「ピエールとリュース」の新装版
ロマン・ロラン 宮本正清 訳 四六判・128頁 みすず書房 定価1680円(本体1600円) ISBN4-622-07223-8 C0097 1965.05.15[初版]2006.05.22[新装] PIERRE ET LUCE by Romain Rolland |
出版 2004年1月 『京 都・半鐘山の鐘よ鳴れ!』 宮本 ヱイ子著
『京都・半鐘山の鐘よ鳴れ!』 宮本 ヱイ子 著
とうとう私はパリまで来てしまった。これまで何度も訪れてきたパリだが、今回は特別の目的がある。ユネスコの世界遺産センターヘ、古都の「小さな山の保全」を要請するためである。京都の市中に残された小さな山だが、私たち住民の暮らしに密着したかけがえのない里山である。破壊は地球環境劣化にもつながる。その思いが昂じて、山の自然を護るため、ユネスコから京都市へ勧告を出してもらう渡仏である。
ユネスコ本部のあるパリは、世界で一番美しい都市と言われている。そのパリには山がない。「山がないから」「人工的な都市だから」と言って、パリを嫌ったフランスの大作家や芸術家のことを私は思い出しながら、京都の山々が与える水を含んだ風を懐かしんでいる。
京都は三方山に囲まれた盆地である。太古の昔、湖の底から形成されたという。京都が醸しだす風景を江戸の文人、頼山陽は「山紫水明の処」と謳い、ペンネームを″東山三十六峰外史”と号した。日本の思想の根元を築いた法然、道元、親鸞、日蓮は、いずれも東山・比叡の山々に籠もり修行した。山には邪気を断ち切る清明な霊気があり、信仰の場であった。
ところが今、京都の存在そのものである山であり、森であるところが危うくなっている。特に京都市街にある法的に守られないヽヽヽヽヽヽヽヽ鎮守の森、子供たちが遊んだ「トトロの山」の原風景である名もない小さなヽヽヽヽヽヽヽ里山に危機が迫っている。
私の住む東山山麓の先端、わが家と隣接する市街化区域に突き出た半島のような小山、通称半鐘山の宅地造成開発問題が起きてはやくも五年が過ぎた。私たちは「半鐘山と北白川を守る会」を結成し、開発反対の運動を展開してきた。京都市が出した「開発許可」に対して、住民側は開発審査会へ、その取り消し請求を提出した。それに対して、「開発は違法ではない」と、二〇〇二年一月二十三日(木)、異例の付言つきではあるが棄却の裁決が出された。現行法では森を守れないことの宣告である。それでは、これらの山林が無秩序に開発され、宅地造成されていく運命として、このまま放置していいものだろうか。
私たちは、京都市長を相手に、二〇〇二年四月二十二日、「開発許可」処分取り消しを、京都地方裁判所へ提訴した。
今、厳しい破壊の現実に直面している半鐘山問題は、京都の市街化区域にある他の三十数カ所、三七ヘクタールの里山や緑地にもあてはまる。そればかりか、日本各地に点在する森、里山、緑地に共通する課題を内包している。しかも、半鐘山は、ユネスコの古都・世界文化遺産に登録されている慈照寺<銀閣寺>の周辺、緩衝地帯バッファーゾ-ンである。そのことを考慮すれば、いっそう放置しがたい重大事件といえよう。
私たちの運動はささやかなものだが、行政、業者、住民が激突した波乱に満ちたものだった。私は住民側当事者として、何はともあれ、この孤独な小山の行く末が気に掛かる。
半鐘山問題の到達点は、今後の環境問題の出発でもあり、判例ともなるだろう。ごまめの歯ぎしりに過ぎない小さな声であるが、私は時を追って書き留めてきた。本書は、台風の日の中にあった、そして今もそこにいる私を通して描く環境ドキュメンタリーである。
「戦い終わって、山無し」では哀しい。しかし、それが、世界中が見ている古都・京都の二十一世紀の幕開けになるかもしれない。
(著書プロローグより、構成:編集室)
下記は、「京都新聞」 2004.01.19 News を引用させていただきました。(編集室)
半鐘山開発の環境運動まとめ
左京 守る会・女性が本出版
東山連峰の銀閣寺山支脈にあたる通称「半鐘山」(京都市左京区)の開発問題で、里山の緑保全を求めて環境運動を続けている住民が、これまでの経過をまとめる本を出版した。突然の開発通告に戸惑った住民たちが、請願や行政訴訟などに取り組んだ経過を市民の率直な感覚でつづり、京都の町と自然のかかわりや環境行政のあり方を問いかけている。
「半鐘山と北白川を守る会」メンバーの同区銀閣寺前町、宮本ヱイ子さん(60)がまとめた「京都・半鐘山の鐘よ鳴れ!」。
半鐘山は銀閣寺山から西へ延びた支脈の先端にあり、市街地に隣接した里山の緑を残していた。ところが、1998年3月に民間業者が宅地開発を通告し、周辺住民らが反対に立ち上がった。最初はなすすべも知らず、市役所のどの課に訴えたらいいかも分からない状況で始められ、本では率直な驚きや憤りを織り交ぜてつづっている。
半鐘山は歴史的風土保存地区などに指定されているが、市街化区域として開発可能地域でもあり、業者の開発申請に対して京都市は許可を出している。現在、住民は市を相手取り開発許可取り消しを求めて提訴する一方、開発工事差し止め仮処分を申し立て、先月、京都地裁が工事を差し止める決定をしている。
こうした運動に加え、里山の緑が京都の町にいかに重要か考えるシンポジウムの開催や世界遺産・銀閣寺の緩衝地帯としての大切さをユネスコに訴えたことなど、さまざまな視点で考えてきた活動を克明に記している。
宮本さんは「半鐘山は市街地と自然の波打ち際。ここが守れないと自然がどうなるか。環境保全に対する法の不備や環境行政を考える教材にと本にした。一石を投じられたらいい」と話す。1800円で法蔵館から全国の書店で発売する。
写真= 「環境行政に一石を投じたい」という「京都・半鐘山の鐘よ鳴れ!」を出版した宮本さん
2003年11月22日 講 演 於京都・関西日仏学館 「ロマン・ロランを読みながら、今の世界を考える」 峯 村 泰 光
ロマン・ロランを読みながら、今の世界を考える
峯村 泰光 みねむら やすてる
ロマン・ロランの一人の読者として、私はいまの時代について、考えていることや感じていることを、おもに戦争と平和の問題を中心にお話ししてみたいと思います。
20世紀には大きな戦争が二度もありました。それはロマン・ロランが生きていた時代のことです。第二次世界大戦の最後にヒロシマとナガサキに原爆が落とされましたが、その前の年の暮にロマン・ロランは亡くなりました。
その後の半世紀あまりにわたる核の時代を私たちは生きてきました。そしていま、21世紀に入ったとたんに、イラク戦争が起こされ、最強国のアメリカによる「新しい戦争」の時代に、おたがい身をさらすことになりました。
そこで20世紀最大の世界市民的なユマニスト、ロマン・ロランを読みながら、この容易ならざる時代を生きのびる手がかりをさぐっていきたいと思うのです。
世界市民についてはあとでまた触れたいと思いますが、ロマン・ロランを読んでこられたみなさんは、すでに世界市民的な感覚を持っておられるのではないでしょうか。ロマン・ロランの大きさを、片山敏彦さんは、ゲーテのようだと言っておられました。また、1966年9月にヴェズレーで開かれたロマン・ロラン生誕百周年記念の国際討論集会で、日本代表として出席した蛯原徳夫さんは次のように述べておられます。
ロマン・ロランは、たんに芸術家であろうとするよりも、みずから真実な人間となることによって、人びとに人間としての本質を意識させようとした。その根本的な影響力は、彼の思想の普遍的性格に由来している。彼は西洋人であるとともに東洋人でもあったのであり、真の意味での「世界市民」(Weltbürger)であった。
と言われて、インドのヴェーダ思想や、ガンジー、タゴールに深い理解を示したロランが、日本の読者にも熱心に読まれている事情を話されました。蛯原さんはまた、『ジャン・クリストフ』の主人公は、「国籍や人種をこえた普遍的人間像、世界市民に成ったのだ」ということも書いています(蛯原徳夫『ロマン・ロラン』アポロン社)。
生きているということ
私がはじめて『ジャン・クリストフ』に出会ったのは、15歳の時でした。そのころ、片山敏彦訳の第一巻〈曙〉が、みすず書房から出たばかりでした。信州の田舎の新制中学で、担任の国語の先生がもっていたんです。
ロマン・ロランの世界は、非常に広くて、深くて、大きいことを私たちはいま知っています。そのことを、その南小川中学校の傳田正直先生は、生徒たちに熱心に話してくれました。あの優雅なフランス装の本『ジャン・クリストフ』第一巻を手に、もう若くはない先生が目をかがやかせて、「生きているということは、素晴らしいことだ」といわれました。私はその本をぜひ読んでみたくなりました。そして貸してもらいました。
この先生はそれまで旧制中学で教えていた人で、歌人でした。宮沢賢治の童話を授業の中でいくつも読んでくれたり、良寛の話をしてくれるような人でした。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を借りて読んだこともあります。私は長野市に生まれて、疎開先の小川村で傳田先生にめぐり逢うことができました。『ジャン・クリストフ』は、まるで太陽のようでした。そして、ここにはなんでも書いてある、と思いました。
その二年後に私は上京して、尾埜さんなんかと同じように、荻窪の片山敏彦先生のお宅に寄せていただくようになりました。ロマン・ロランの友の会の会員で、青木やよひさんにいろいろお世話になっていた一人です。1954年7月末に、第十巻〈新しい日〉が出て『ジャン・クリストフ』が完結した時は、蛯原徳夫先生のお宅で開かれたお祝いの席に参加させていただきました。つまり私は、片山敏彦訳のクリストフとともに成長したということになります。
みすず書房のロマン・ロラン全集が生み出されつつあった頃の東京の様子を、その一端ですがもう少しお話ししたいと思います。
1953年4月下旬に京都と大阪で、片山敏彦、宮本正清、蛯原徳夫の三先生による、ロマン・ロランについての講演会がありました。三先生はそのあと奈良にも行かれましたが、私は、その春から大阪市立大学で教えておられた蛯原徳夫さんと、奈良出身の山口三夫さんのおかげで、それらの催しのすべてに連れていってもらいました。
杉並区沓掛町の蛯原先生留守宅には奥さんが住んでおられました。片山家に近いので、いつのまにか部屋を借りて住みつく人も増えて、私たちは「沓掛御殿」と呼んでいました。そこで毎週のように集まっては賑やかにやっていたのが、村上光彦、清水茂、北沢方邦、美田稔といった、その後ロマン・ロラン全集の訳者に名を連ねる面々です。そのほかにも何人かいましたが、そこに来れば一度に用事の足りる青木やよひさんも時々現れていたと思います。青木さんはその年の2月から東京で開かれていた研究会の世話人でもありました。みんなが集まるのは庭に面した中央の大きな部屋で〈ラルース〉百科事典なんかが並んでいて、そこには山口三夫さんが弟さんと住んでいました。
1954年は中小の出版社がバタバタとつぶれるような不況の年でしたが、『ユニテ』もこの年はガリ版刷りで出ています(Ⅵ・Ⅶ・Ⅷ)。しかしロマン・ロランの青春の書と、若さの勢いで、あのころの「沓掛御殿」は、本当にいきいきとした祝祭的な気分に溢れていました。「生きているということは、素晴らしい」という感じで、私たちの心にはいつもロマン・ロランが遍在していました。
そしてそのような空気は、そのころ世界と日本の各地に生まれていた「ロマン・ロランの友の会」の活動などもあって、世界中に広がっていたのではないかと思います。当時の『ユニテ』に記録があります。まだみんな貧しかったけれど、戦後の希望に満ちた時代でした。ロマン・ロラン全集について言えば、8年がかりの〈第一次〉が完結に近づいていました。
みすず書房という出版社は、たいへん幸運な出発をしたと思います。推進力の中心だった小尾俊人さんの剛毅な情熱と並はずれた努力は、その魅力的な企画と高雅な装丁造本からも、優れた協力者を獲得していきました。最初の大企画だったロマン・ロラン全集の訳者たちは、さきの三先生はじめみんな、魂の清らかな素晴らしい人たちでした。
私はその後、小さな出版社の仕事や、雑誌の編集も多少経験しましたが、あのように献身的な人たちを見たことがありません。青木さんのような編集者についても同じです。まさに、「ロマン・ロランの友」だったんですね。
ですから私にとって、みすず書房は常に高い峯のような存在でした。15分きざみのテレビ時代になった今では、あのような個人全集や大河小説は、書店の棚では目にすることもできません。そして、版元に一部分少しあるだけで、もう当分は手に入りません。磨きぬかれた〈第三次〉『ロマン・ロラン全集』(以下=全集)を持っている人は、まちがいなく宝の山を持っているのだと思います。図書館にある本もだいじにしたいものです。
「沓掛御殿」の人たちとは、その後も時々会っていました。蛯原さんは15年前、山口さんは7年前に亡くなりましたが、なにしろ、魅せられた魂の人たちですから、いつまでも若々しい青年のような心を持った人たちです。
ロマン・ロランと戦争
さて宝の山の中身のことですが、ロマン・ロランの読まれ方は多様で、それぞれ「私のロマン・ロラン」があるのだと思います。それほどに多面多様な創造的活動を行い、そのいずれもが一等星のきらめきを見せた作家でした。ああいう人はほかにはちょっといないんじゃないでしょうか。いまの時代の物差しに合わないスケールで、時々見えにくくなるのかもしれません。『ユニテ』28号の連載で、村上光彦さんは「わが国におけるロマン・ロラン受容は、いわば蝕の位相にさしかかっている」と言っておられます(蝕は日蝕月蝕の蝕です)。うまい言い方だと思いました。なるほど、いまは曇天つづきで、新しい世代にはなかなか光が届きません。そしてそのことこそが、いまの時代を物語っているのではないでしょうか。
『ジャン・クリストフ』が書きはじめられたのは1903年でした。順次発表されて姿を現したクリストフが、人びとのうちに生きるようになって、今年で100年になります。クリストフの時代背景は、1870年の普仏戦争から第一次世界大戦前夜までですが、主人公はいまなお人びとの心の中に、時代を越えて生きているのです。
ロランは『ジャン・クリストフ』の最終巻〈新しい日〉の中で、世界大戦が始まることを予見しています。それを書いた三カ月後にバルカン戦争が起こり、二年後の1914年には第一次世界大戦が始まりました。空前の大規模な戦争に直面したロランは、たまたま旅行でいたスイスに、腰をおろして、大戦争の本質を見すえることになります。
この時ロランは、スイスの、レマン湖東北岸のヴヴェーに数週間前から滞在していて、まことに幸せな日々を送っていたらしいのです。戦争勃発は「不意打ち」だったと自伝に記し、当時のことを追想しています。
戦争中の私の行動――戦時において戦乱を立ち超えての平和の行動――の反響は世界中にひろがったが、その行動のために、私の内生活の自然な歩みは四年間以上も停止していた。 (全集17巻『内面の旅路』538頁)
50歳の峠を越えながら、ロマン・ロランが心ならずも踏み込んだ、けわしいいばらの道でした。
私はこんどの機会に、ふだんはあまり手をのばさなかった、ロランの『戦時の日記』(全集27~30巻)を全部見てみました。社会評論集(全集18巻)の『戦いを超えて』と『先駆者たち』はこれまでもよく読んでいましたが、〈日記〉といっしょに見ると、第一次世界大戦中のロマン・ロランその人と歴史的背景が立体的に立ち上がってきて、ふしぎな感動を覚えました。『戦時の日記』は単なる日記ではありません。ユニークな記録です。この日記を読み進めると、ロマン・ロランという人の偉大な行動の本質が明らかになってきます。大戦が始まるとどの国の世論も、憎しみの熱に浮かされて目が血走ってきました。ロランはその世論に抗して、ひとり敢然と立ち上がり、堂々と反戦のアピールをヨーロッパと世界に向けて発し続けたのです。
そして、関連する〈書簡集〉も何冊か読むことになり、この読書体験で私は、ロランをいっそう身近に感じるようになりました。ここで個別の内容について触れるのは不可能ですが、印象に残っていることを少し申し上げます。
20世紀は戦争の方法が、科学技術の応用で劇的に変化しました。しかし、第一次世界大戦ではまだ知識人の発言に重みがあり、その代表的存在がロマン・ロランでした。まったくの個人による反戦行動でした。その孤独な闘いぶりと、世間との関係は、戦時に書いて戦後に出版した小説『クレランボー』の主人公に幾分投影されています。そして、その「万人のために、万人に反対する」姿勢こそは、ロランその人の行動原理でした。これは実際には、なかなかできないことだと思います。行動原理にはもう一つ、精神の独立がありました。大戦後、世界の知識人に呼びかけたあの美しい「精神の独立宣言」の基盤になったものです。この二つの原則は、1898年9月の日記に、すでにその原形が誌されています(全集17巻『回想録』264頁)。付け焼刃ではなかったのです。
それにしても、ロランにとっては恐ろしい体験でした。辛酸をなめながら命がけで闘うロランの姿が『戦時の日記』にはあります。スイスにいたので信念を貫くことができたとはいえ、実際に身の危険を覚えることが度々ありました。たとえばそのことを書きながら「憎悪の起源は……〈広場の市〉の時期に発している」と感じることもあります(全集28巻『戦時の日記 Ⅱ』749頁~)。また、パリからやってくる家族と容易に会えない、というようなこともありました。眠れない夜も、多かったようです。良心の自由は、まさに辛酸をなめながら保たれていました。
病気がちのロランにとって、辛酸の味はなじみのものでもありました。1919年10月の日記には『ジャン・クリストフ』を書いている頃の、恐ろしい追想があります。そして、「わたしの医者はジャン・クリストフだった」というのです(全集31巻『インド』537頁)。1913年に初めて対話したツヴァイクも、「どのような精神的な労働力がこの外見のひ弱さの背後にかくれているか……」を後に感嘆をもって認めないわけにはいかなかった、と書いています(シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界 Ⅰ』300頁、みすず書房)。
ロランは1914年12月の日記に、ローマ教皇の「回章」の内容を紹介しています。教皇はその中で、社会主義を批難して「富者に逆らう無産の徒は、正義と慈悲とに反して罪を犯している……」などと発言しているのです。ロランはこう書いています。「なんと人をくった慈愛! なんという貴族的な尊大さ! これを書いた人間は決して辛酸を味わったことがないということがわかる」(全集27巻『戦時の日記 Ⅰ』152頁~)。私はこれを読んでハッとし、眼を洗われる思いがしました。
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており やがて 勝つであろう
自由な魂たちに ささぐ
『ジャン・クリストフ』巻頭のこの言葉は、ロラン自身の辛酸の味から生まれたものだったのです。
しかしクリストフは、戦時にスイスで暮らすロランを、物心両面で大いに助けたのでした。ことに1916年11月にノーベル文学賞を受けたあとは、世界中の熱心な読者からの手紙が、ロランを励ましました。
おもにスイスの新聞に載った『戦いを超えて』の内容は、1915年秋にパリで出版されるまでは、世界に正しく伝わりませんでした。本になると、たちまち各国語に翻訳されて、大戦中の世界に大きな反響を巻き起こしました。
同時に、戦争の煽動者たちによる激しい攻撃の的ともなり、根深い憎悪にさらされます。ところがロランの方は、憎しみを超えていて「私はどの民族も憎むことは出来ない」といいます。ここがロランの偉いところだと思います。
ロランの母の死は、『戦時の日記』の最も痛切な頁です。戦後のパリへ五年ぶりに直行して、母を看取りました。
ヘルマン・ヘッセとの交友は、清らかな美しい物語です(全集39巻)。国際赤十字俘虜事務局で奉仕活動をしていた頃から、ロランは度々ヘッセを訪ね、1922年にヘッセが贈った絵は、妹のマドレーヌ・ロランを魅惑しました。
ロマン・ロランは『マハトマ・ガンジー』(全集14巻)で、ガンジーの非暴力による行動の意味を、第一次大戦後の西洋に伝えました。現代では、人間の普遍的な価値を示す世界の思想として、人類の希望を支えているはずです。
社会評論集の全集18巻は、とてもなつかしい本です。若いころ山口三夫さんたちと時々読みました。『闘争の15年』の中の「過去への訣別」には、第一次世界大戦中のロランの思索と行動が総括的にまとめられています。同じ本の「パノラマ」がそれに続く年月を回顧したもので、この二篇を読めばロランの〈戦争と平和〉論がほぼ概観できます。
『革命によって平和を』は、ヒトラー政権が出現する前後の文章が多いのですが、迫ってくる戦争とファシズムの脅威に対して、ロランが鳴らした「集合太鼓」です。ロマン・ロランは、国際反戦会議のシンボルでした。
ロランは1932年6月に、日ごろ心の底を打ち明けているソフィーアへの手紙でこう言います。
行動は創造と同様に、私が呼吸するときと同様に、一つの自然の要求です。そして私は人類の未来のために闘いつづけますが、人類は結局、希望よりも憐憫の念を私にあたえます。それは自然の非論理性です。(全集35巻『したしいソフィーア』650頁)
ロマン・ロランの精神的自伝『内面の旅路』の中の「周航」は、はじめ1924年に書かれましたが、第二次世界大戦が始まって一年たった1940年9月に、加筆修正されています。
ヴェズレーの家のテラスから、ナチスの軍隊が進撃するのを見ながらも、74歳のロランはこう書いています。
私の全生涯は外観においては敗戦の連続であった。しかし私の内面にいるコラとクリストフとが私に言う――結局のところでは、勝利はわれわれのものだ! ――勝利は私のものである。〔……〕私が欲するのは、人類をみちびいている諸法則が勝つことなのだ。 (全集17巻『内面の旅路』564頁)
ロランはさらに、「私は、戦争のさなかに平和な心をもち、こんな地球の動乱の中で、確かめられた精神をもって、彼らに別れをつげる」と書きます(同、565頁)。そして「宇宙的・普遍的な夢のふところに還り」、「私の畠にもどる」(同頁)ことにしたロランは、『ロベスピエール』、「ベートーヴェン研究」の連作、『ペギー』を仕上げます。1944年夏のパリ解放を見とどけて、年末に亡くなりました。ロマン・ロランは勝っていたのです。
大戦下のフランスでロランは、絶望にさいなまれ、深い悲しみを心の底に湛えていたと思います。しかしロマン・ロランという人は、なんというやさしい言葉を人びとにかけ続けたことでしょう。私はそのことに深く打たれます。
ロマン・ロランが亡くなった半年後にアメリカで原子爆弾が完成しました。最初の核実験が1945年7月16日、ニューメキシコ州のアラモゴードで行われ、その20日後に原爆は、広島と長崎の、人間の頭上に落とされました。
消えた幻影
平和を取り戻した戦後の世界では、ロマン・ロランが盛んに読まれました。戦争から解放された明るい空気の一方で、米ソ対立による東西冷戦の時代が始まっていました。ロランの読まれ方もさまざまだったと思います。それが40年余りしてソ連があっけなく消滅してしまうと、おそらく世界中でロマン・ロランの読まれ方にかなりの異変が起きたものと思われます。その理由のほとんどは、つまりロランの「ソ連擁護」に対する批判ということのようです。そしてそれは、人びとの長年にわたる過剰な思い過ごしだったのかもしれません。
村上光彦氏は、最近の文章のなかで、ベルナール・デュシャトレ氏の『あるがままのロマン・ロラン』から、第二次世界大戦勃発前後のロランの未発表の日記を引用しています。
「わたしとしては、もう憤慨する力もない。わたしには人々が、諸国家が見える。いたるところ、同じである。昔からずっとそうであったように、同じである。彼らの政治は、奸策、野蛮、破廉恥のどれをとっても、なんの新味も見せてはいない。これまでの数世紀にわたってずっと行われてきたとおりの政治である。〔……〕正義と人間性という一新した基礎に立つ新世界がソ連で建設されてゆくものと期待してしまったのが、われわれの誤謬であった。われわれはレーニンの事業を信頼した。だが彼の後継者どもは、いまそれを踏みにじった」。
(つぎに、デュシャトレ氏の文章の要約が続いています。)
彼は、ソ連が〈国際革命〉の名のもとに汎スラヴ的帝国主義の相貌を露骨に示したことも告発した。ソ連は他国を征服しては、それを〈革命〉の美名で飾っていた。ロランはソ連の欺瞞を直視して胸を悪くするのだった。
ロランはそれより先、友人だったゴリキーの死が当局による毒殺だったらしいということに感づいていた。モスクワ裁判が続いて、スターリンがかつての僚友を粛清してゆく様子も遠くからみていた。あれやこれやで彼のソ連への信頼は前から揺らいでいたのだが、いまや最後の幻影まで崩れ去っていった。
そのころ、ロラン夫人のマリーと前夫とのあいだにできた息子のセルゲーがヴェズレーに来ていた。だが、彼はソ連に帰らなくてはならなかった。息子はまずパリに向かい、それっきり音信不通となった(二年後に戦死したことが、後年わかった)。マリーは不安に胸をさいなまれていた。そういう不安の虜となった妻のそばにいて、ロランはソ連との絶縁を公表するわけにいかなかった。彼の発言しだいでは、ソ連に帰ったセルゲーやその家族にどういう危害が及ぶか測りがたかったからだ。彼は(1939年9月末の日記に)こう書きつけた。
「もしわたしに妻がいなかったら(そしてわたしは当人にそう言った)――そしてとりわけ、愛する義理の息子がいなかったら(彼はモスクワで人質になっている)――またわたしがスイスに居住していたら(結婚しなかったらスイスに留まったはずなのだが)、わたしはきっと新しい『戦いを超えて』を書いたであろうに。それは最初のものよりずっと力強く、またずっと報復的なものとなったろう。それが出ると、わたしめがけて、前のよりさらにいっそう憤怒に満ちた憎悪が旋風のように吹きつけてきたろう。――両側からである――わたしはすべてを語り、すべてを告発したであろう。ソ連政府のおぞましい裏切りと、その恥ずべくも非人間的な冷笑的態度とを、――さらにまた英国およびその衛星国たるフランスの金権政府の背信行為を。この両国は不実にも何年も前から、ファシズムともナチズムともいかがわしい駆け引きを演じてきた。〔……〕 しかし、交戦国から発言するのは不可能である。そこでは思考も運動も封鎖されてしまっているから」。
(村上光彦「独ソ不可侵条約調印前後」―『大地』27号所収、大地の会発行)
私はこれには驚きました。ヒトラーやムッソリーニらによる戦争が、ついに始まってしまった時の、ロランの絶望の深さ、その歎きの大きさが噴き出しているとはいえ、こんなに取り乱した感じのロランを日記に見るのは初めてです。戦争を防ぐ力として期待していたソ連政府の裏切りに対する、激しい怒りが鮮やかに書きつけられているので、あえて長く引用させていただきました。それにしても、『新しい、戦いを超えて』をぜひ読みたかったですね。
ロマン・ロランはやはり利用されたのだと思います。党派性や宗派性から常に自由であろうとしたロランは、後半生いつも(たとえそれが善意であるにせよ)利用しようとする人たちに取り囲まれていたようです。しかし1940年9月、『内面の旅路』に、「私は《行動》の圏の外に出ている」と書き加えました(全集17巻、563頁)。
晩年のロマン・ロランの日記は、いずれ21世紀の人びとの前に全貌を現すことでしょう。そこには二つの世界大戦の時代を生きたロランの受難と闘いの人生が、神秘的な、そして極めて人間的な姿で結晶しているものと思います。
デュシャトレ氏の『あるがままのロマン・ロラン』も、早く訳書が出るといいですね。
核の存在
1989年11月9日、突然ベルリンの壁が崩れはじめました。すごいことが起きるもんですね。人間の自然な力の勢いというか、いったん風穴があくと、いわゆる「鉄のカーテン」が次々と取り払われて、すっかり風通しがよくなりました。ひと月も経たないうちにマルタ会談があり、冷戦の時代が終りました。そして東西に分かれていたドイツは、一年後の1990年10月に統一を果たしました。
私はそのころまでやっていたすずさわ書店を退職して、月刊誌の『軍縮問題資料』を手伝うことになりました。そこでまず、ドイツ統一を取材して帰ったばかりのテレビの人に寄稿してもらうことにしました。その人は早速、日独の戦後処理の違いなどもふくめて、歴史的シーンの見聞を書いてくださいました。
これはおもしろいなあと、私は思いました。ジャーナルな感覚で、世界のナマの問題を、ひと呼吸置いて考えていくことができる。それに単行本と違って、短い文章は比較的気軽に引き受けてもらえます。
次の新年号からは、特集方式でいくことになりました。折から人間社会を吹き抜ける新しい風を、テーマ毎にとらえていこうというわけです。当面のいくつかの特集の企画がまとまりました。憲法、国連、中東、それに地球環境や教育の問題などと、それぞれのテーマを中心に、いろいろ工夫して特集を組み、順次原稿を依頼していくというものです。
それまでの出版社の仕事は、ルポルタージュや社会評論などの単行本が中心でしたが、こんどはじかに、正面から世界の戦争と平和の問題に取り組んでいくことになります。そこで友人たちにも声をかけ、ロマン・ロラン全集の訳者や関係者の皆さんにも「賛助出演」してもらうことにしました。表紙裏の〈平和を愛する〉という、すこし面倒なコラムでしたが、大体ずうっと交替で担当していただき、時にはエッセーなども書いてもらいました。
ベルリン統一の三カ月後には、湾岸戦争が始まり、米軍はテレビゲームのような戦況発表をしていました。雑誌は急遽予定を切り替えて、湾岸派兵反対の特集を組みました。こうなるともう、おもしろいなんて言っていられません。私は毎日、戦争や日本の憲法のことを考えていました。この戦争は、冷戦が終わったばかりの時に起こされた戦争ですが、まったく同じ問題をかかえながら今年のイラク戦争につながるものでした。
この1991年は、それからゴルバチョフ大統領が来日したと思ったら、ソ連では夏にクーデター未遂があり、エリツィンが前面に出てきて、年末には突然、ソ連そのものが消えてしまいました。雑誌にとっても慌しい一年でした。
90年代前半は、世界も日本も、まさに激動の時代でした。ソ連が解体して15の共和国となり、新しく生まれたロシアとアメリカの間で戦略兵器削減条約(START Ⅰ・Ⅱ)が調印されました。「第三次世界大戦」はひとまず遠のいたわけです。しかし、旧ユーゴやアフリカでは民族紛争が激しくなり、南北問題はより深刻になりました。
日本でも自民党単独政権から連立の時代に入りました。細川、羽田内閣に続いて、自社さ政権の村山内閣というフシギな時期もありましたが、橋本内閣あたりからしだいに、元のモクアミになってしまいました。
この間私は、特集を作りながら今の世界のことをいろいろと学び、そして考えさせられましたが、六年いて辞めました。1980年に雑誌を創刊した宇都宮徳馬さんは、平和と軍縮を主張する骨太の政治家でしたが、三年前に亡くなりました。「政治は陰謀の世界だ」と言い、核兵器を中心とした軍拡競争を本気で怒っておられました。
核兵器の存在は、私のささやかな市民運動の出発点でした。1965年の春、山口三夫、清水 茂、と私の三人は、幟のような形の手作りのプラカードをかついでベ平連の二回目のデモに行きました。そのころ私たち三人はみんな、人の子の親になったばかりでした。歩きながら渡す私たちのチラシには、「いったん核戦争になれば、地球上に平和で安全な場所はどこにもなくなります。……」などとあります。風が吹くとプラカードが大きすぎて重いんですよね。ベトナムで米軍の北爆(北ベトナム爆撃)が始まって二カ月余り、いま思うと初々しい市民デモでした。生まれたばかりの子供を核戦争にさらすわけにはいかない、というのがその時の私の切実な思いでした。
それからベトナム戦争が終わるまでの十年間、仲間はそれぞれ入り組みましたが、「ベトナム反戦のはがき」67年、「英文・戦場の村」68年、英文“Give Me Water”和文「水ヲ下サイ―広島と長崎の証言」72年、などの、絵ハガキや小冊子を作りました。なんとそのどれもが、みすず書房の二人、青木さんと小尾さんの力をかりています。青木さんは市民の仲間として、小尾さんは陰ながら制作面で、いつも協力してくださいました。
また、新聞の投書欄で知り合った牧師さんたちと、内外の新聞にベトナム反戦の投書などをする運動〈ベトナム反戦市民の声〉というのもやりました。
どれも比較的地味な、世論喚起のための純粋な市民運動でした。戦争当事国のアメリカの市民に直接呼びかける、というのがいつも基本にありました。そして、私のひそかな心のよりどころは常にロマン・ロランでした。
ですから、ロマン・ロラン生誕百年の年に集会を開いて、「ロマン・ロランと現代の会」という読書会を山口三夫さんなんかと始めたのも、行動としての運動とは別の、思想および精神の領域でのことでした。1968年にマリー・ロマン・ロラン夫人が来日されたときには、歓迎会を開いて花束をさし上げました。たのしい会でした。
この読書会の例会は、たぶんこちらの例会と同じようなやりかたではないかと思います。たまには「階級闘争の視点がない」なんていう人もいましたが、『ユニテ』のような記録が残っていないのは残念です。
ベトナムで核兵器は使われませんでした。戦争が終わってから、やはり使う計画があったという記事を二度ほど見ました。朝鮮戦争のときも、マッカーサーが原爆の使用を主張して最高司令官を解任されています。兵器は持っていると必ず使いたくなるらしいです。ですから、反核の運動は多様に重層的に行うべきで、いくらあっても足りない、のだと思います。人間の中の神性が勝つか、悪魔性が勝つか、そのたたかい、または競争なのかもしれません。
新しい人たちがそれぞれに、自分で考えて、核兵器の存在に立ち向かっていってほしいと、私は思うのです。
かすむ平和
冷戦が終って、不戦勝のような格好になったアメリカが、いつのまにか自国中心の、だれも抑えのきかないような国になってきています。それに顔をしかめる国と、おとなしくついていく国があって、それぞれの国の人たちは、さまざまな立場におかれます。正しいか正しくないかより、損か得かが判断の基準に置かれる場合が多く、そのために世界の平和は、かすむ一方で、光が見えません。それはアメリカ人にとっても、本当はいい時代ではないはずです。
21世紀に入ったところで就任したアメリカ大統領は、選挙の前後にいろいろと問題のあったブッシュ二世でした。最初からケチのついたこの大統領は、面目も自信もなくて居直っているうちに、9・11のテロに見舞われ、報復を叫んで一極支配の軍事力を大いに振り回しました。アフガニスタン、イラクと暴れまわり、これからは先制攻撃もやるし、核兵器も使うぞと、世界を脅しています。まるで世紀末のインチキ選挙のツケを、世界中が払わされているようなぐあいで、世界の人びとはまことに憂鬱です。国連も平気で無視するし、国際世論なんて気にもしません。肝心のアメリカ人は、大方が自己中心的個人主義で、世界に無関心だといいます。日本ではいま、エドワード・サイードや、ノーム・チョムスキーの本がよく読まれているようですが、本当にアメリカの民主主義は機能しているのでしょうか。
アメリカの大統領選挙制度については、ロマン・ロランも第一次世界大戦中の日記に「アメリカ人ほどいい加減なものはない」と書いています。新聞に出た当選者ではなく、結果が分らずにいたが、最後にはウィルソンが当選していたというのです(全集29巻『戦時の日記 Ⅲ』983頁)。
あの野蛮な選挙制度は、1787年から引き継がれている成文憲法に縛られていて、改正が困難だというのですが、まずはその憲法を改正すべきだと、国連にでも勧告してもらいたいものです。現代世界の重要課題かもしれません。
核兵器にしても、最大の大量破壊兵器を持っているのはアメリカです。少数の国だけが核保有の特権を独占して、同盟国を傘下に入れながら、小型核兵器を作って実戦に使えるようにしても、解決にはなりません。小型核兵器や生物化学兵器によるテロを最も警戒しなくてはならないのは、アメリカ人自身ではないでしょうか。そして核拡散の流れはもう止めようがないほど激しくなっています。冷戦体制から解放されたロシアは、雪解けどころか、経済危機の大洪水に翻弄されました。核兵器を処分しようにも、その費用さえありません。今でも諸外国の援助に頼っています。失業した核技術者が海外で雇われるケースもあり、核管理の杜撰さは相当なものだといいます。インドとパキスタンは、1998年に核実験をして、核保有国になりました。核拡散を止めるには、核廃絶しかないのです。
核兵器を持つということは、じつに厄介なもののようです。――まず、見えない敵が一度に増える。一気に叩かれて潰されないためには、新たな警戒態勢が必要となる。ミサイル防衛(MD)というような未完成の技術に、莫大な予算を組まなくてはならない(核保有国でもないのに日本はいま、このバカげた計画に参加しようとしていますが…)。持てる者特有の疑心暗鬼も生じる。絶えざる研究・実験や、管理も大変なら、廃棄の費用も積み立てていかなくてはならない。――いいことは少しもないのです。
いわゆる「北朝鮮の核保有」という事態は、日本人にとっては迷惑千万な話です。本来日本は、平和憲法によって自らの「核保有」からも免れているはずです。ところが去年から、「核保有」は憲法違反ではないといっている人がいます。今の自民党幹事長です。アメリカのネオコンに「日本核保有論」を言いたてる人物がいます。焚きつけた者がいるはずです。そういう人たちは、核戦争になったとき、自分たちだけは助かると思っているのでしょうか。
なにしろこの国ではいま、世間知らずの、辛酸の味などまるで知らない三世、二世ばかりの政治屋たちが、相当荒っぽいケンカ腰の外交をくり広げています。国交正常化交渉といいながら、約束は守らないで、ひたすら脅威を煽る。権力の管理下にあるかのように、テレビはこの一年余り、いったいどのような北朝鮮報道をくり返してきたのでしょうか。日本人は冷静さを失ってすっかり変わってしまいました。その勢いに、新聞はほとんどお手上げ状態で同調しています。「北朝鮮の核保有」とは、そのような過程で起きてきた意想外の展開だったのではないでしょうか。
しかし政府の作戦は的中したのです。長年どうにもならなかった有事法制は、なんと九割の議員が賛成して、あっというまに成立してしまいました。イラク派兵法も通り、総選挙後のこれからは、改憲への最短距離をさがして突っ走ろうとするでしょう。北朝鮮の事態は、タカ派の日本政府にまんまと悪用されたのです。今後周辺国は、韓国の意向を益々尊重するでしょう。当然のことです。日本人は、どこで目が覚めるのでしょうか。私は心配しています。
日本人を意識しすぎたので、すこし人間にもどることにします。
世界市民の輪
人間っていい言葉ですね。私は日本人やっていて疲れると、まず人間なんだ、と思うことにしています。
年をとったクリストフがグラチアに会いにローマに行って、そこで国際結婚などによる人間味の豊かな人たちに出会い、古代ローマの奴隷だった喜劇作家、テレンチウスの言葉を思い出します。「私は人間である……」(全集4巻『ジャン・クリストフ』215頁)。
その言葉は、『戦時の日記』の中にも出てきます。 「私は人類に属する。私は人間である。〔……〕私は人間たちの祖国を探し求めている」(全集29巻、1013頁)。スイスにいるロランの悲痛な叫びです。
大戦後にロランは、「戦時の日記」についてツヴァイクに書きます。「この覚え書は個人的価値というよりも集団的証言という関心をひくものです。〔……〕諸国政府やあらゆる国の世論から圧迫され迫害された忠実な『世界市民』たちの証言です」(全集38巻『往復書簡』187頁、1920年1月4日)。ここでの人間は、世界市民に成っています。
現代の人間社会は、自滅の手段を際限もなく作り続け、大殺戮と地球環境の大破壊をくり返しています。人間ほど恐ろしいものはないけれど、ロランのような人のことを思うと、希望や勇気が湧いてきます。ロランは言いました。
人類はなんとただ一つであることか、そしてなんと 相違の少ないことか! (全集17巻『内面の旅路』557頁)。
ロランはいつも、人間の「ユニテ」(調和的一致)のことを考えていたのだと思います。自立した一人ひとりの人間が、「ユニテ」をめざすという感覚でつながれば、世界市民の大きな輪ができるはずです。たとえば、「戦争だけは、ダメ!」と思った人たちが、「戦争やめろ!」「NO WAR!」と叫んで街にくり出したのを、私たちは見なかったでしょうか。皆さんの中には、あの「イラク攻撃反対」のデモを、京都で歩いた人が何人かおられるのではないでしょうか。
それにあの、新聞の反戦大広告(朝日、2003年1月29日付!)を、「その調子をやめよ!」とばかり、華々しく打ち上げた人たちと、協力した人たち……。そのとき、私たちはきっと、小さな世界市民だったのです。去年11月には、あの狭いフィレンツェの道に100万人! 今年2月15日は、60カ国で1000万人の反戦デモが世界を一周しました。
それでもイラク戦争は3月20日に始まり、今のあのザマです。この戦争の大義とされた大量破壊兵器は見つかりませんでしたが、戦後はなりふりかまわず強者にへつらうのが今の世界の流行のようです。果してアメリカは勝利者なのでしょうか。地上最強の武力で一方的に攻め込んだあのような侵略戦争が、人間の歴史の上で正当な戦争として認められるとは到底思えません。
私は開戦まで、こんなに世界中の市民が反対しているのだから、いくらなんでもイラク攻撃はできるはずがないと、祈るような気持で毎月反戦デモに出かけました。テレビもよく見ました。NHKニュースは、アメリカのテレビと同じなので、「フランス2」なんかをさがして見ていました。その後に現実のものとなったあの戦争の結果を、反戦の意思表示をした心ある世界市民たちは、まだだれも認めていないのではないでしょうか。
この戦争は、まだ終わっていません。単独行動主義どころか、単なる暴力主義です。その子分になって、いまからノコノコ出て行くというのでは、世界の物笑いのタネになります。ツケもどんと来るでしょう。平和立国の日本が、正義とはほど遠い戦争に一歩近づいているのです。
作家の池澤夏樹さんは、「世界の人々(の言葉)と国際法と国連が、アメリカの武力に負けた」のだと言っています。(池澤夏樹『世界のために涙せよ』光文社、285頁)
私は、インターネットを操る若い人たちの中に、一つの夢をもっています。「世界市民から世界市民へ」という、反戦反核の大きな輪をつくれないでしょうか。日本語・英語・フランス語・アラビア語……などの恒常的なHPができて、世界市民の大きな輪がしだいに地球全体を包むとき、あるいは突然、「ユニテ」が見えてこないでしょうか。
ロマン・ロランなら、現代の世界市民のための「新しい、精神の独立宣言」を書くところでしょう。人類生存のための普遍的原理である、日本国憲法第九条の精神なども取り入れて、人類の未来に光を灯してくれるでしょう。
はじめにお話しした蛯原徳夫さんは、ヴェズレーのロラン生誕百年記念集会での挨拶を、こう締めくくりました。
今日、この地球上で、物質的な利害関係による憎しみが対立し、無意味で悲しむべき殺戮が残酷におこなわれている。われわれはロマン・ロランの精神を受け継ぐ者たちとして、固く手を握り合いながら、真の平和の実現のために働くことを誓い合おうではないか。
当時はベトナム戦争の真最中でした。いま、世界の現実はさらにきびしさを増しています。私たちはお互いに小さな世界市民として、「ユニテ」による永遠の平和をめざして、世界への関心を一層深めていきましょう。そのようなとき、ロマン・ロランはいつも、私たちを温かく見守ってくれているのだと思います。
『ミケランジェロの生涯』(全集14巻『伝記』215頁)の最後に、作者ロランのこういう言葉があります。
偉大な魂は高い山頂のようなものである。風がそれを打ち、雲がそれを隠す。しかしそこでは他のいかなる場所よりも、じゅうぶんにそして強く呼吸することができる。そこの空気は清らかで心の汚れを洗い落とす。〔……〕 そして日々の闘いのために心を強められて、人生の平野にふたたび降りてくることができるであろう。
ロマン・ロランも、とくに見事なそういう山頂だと思います。作品だけではなく、その山ぜんたいの自然や音楽にいたるまで、ロマン・ロランから受け取ったものがどんなに大きいかを思い、ロランに連なる人たちにあらためて感謝しながら、つたない話を終わりたいと思います。
(元すずさわ書店社長)
2003年11月22日、関西日仏学館でのロマン・ロランセミナー講演会から。