活動記録
ACT
読書会例会 第408回(583)
日時 7月27日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第407回(582)
日時 6月22日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第406回(581)
日時 5月25日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第405回(580)
日時 4月27日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第404回(579)
日時 3月23日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 四宮こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第403回(578)
日時 2月24日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 四宮こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第402回(577)
日時 1月27日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 四宮こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第400回(575)
日時 11月25日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第9巻 燃える茨
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 西垣こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第401回(576)
日時 12月23日(土)14時~16時
『クリスマス音楽を聴きながらの自由討論』
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第399回(574)
日時 10月28日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 西垣こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第398回(573)
日時 9月23日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第397回(572)
日時 7月22日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
朗読 松田由美子さん 会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第396回(571)
日時 6月24日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第395回(570)
日時 5月27日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 西垣こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第392回(567)
日時 3月25日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
読書会例会 第391回(566)
日時 2月25日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 中田裕子さん 朗読 松田有美子さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、参加される方は手洗いマスクの着用などの感染予防をお願いします。
読書会会場にはアルコール消毒液を設置してありますので利用してください。
読書会例会 第391回(566)
日時 1月28日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 清原章夫さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、参加される方は手洗いマスクの着用などの感染予防をお願いします。
読書会会場にはアルコール消毒液を設置してありますので利用してください。
読書会例会 第390回(565)
日時 12月24日(土)14時~16時
『クリスマス音楽を聴きながらの自由討論』
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、参加される方は手洗いマスクの着用などの感染予防をお願いします。
読書会会場にはアルコール消毒液を設置してありますので利用してください。
読書会例会 第388回(563)
日時 10月22日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第8巻 女友達
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 清原章夫さん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、参加される方は手洗いマスクの着用などの感染予防をお願いします。
読書会会場にはアルコール消毒液を設置してありますので利用してください。
読書会例会 第388回(563)
日時 9月24日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第7巻 家の中 第2部 (後半)
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 西垣こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、参加される方は手洗いマスクの着用などの感染予防をお願いします。
読書会会場にはアルコール消毒液を設置してありますので利用してください。
読書会例会 第381回 (556)
日時 2021年9月25日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
感想など。音楽
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
読書会例会 第387回(562)
日時 6月25日(土)14時~16時
『ジャン・クリストフ』
第7巻 家の中 第2部 (後半)
どの国の人々であれ 悩み そしてたたかっており
やがて 勝つであろう 自由な魂たちに ささぐ
ロマン・ロラン
報告者 西垣こころさん
会費 500円(賛助会員無料)
会場 ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL・FAX 075-771-3281
Eメール:institut.romain.rolland@gmail.com
新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、参加される方は手洗いマスクの着用などの感染予防をお願いします。
読書会会場にはアルコール消毒液を設置してありますので利用してください。
読書会例会 341回(通算516)報告 2016年9月24日(土)午後2時-4時
読書会例会 340回(通算515)報告 2016年7月23日(土)午後2時-4時
時 7月23日(土)午後2 時―4時
『ベートーヴェンの生涯』
ベートーヴェンへの感謝
朗読 中田裕子さん 下郡 由さん
今月の音楽資料
読書会例会 339回(通算514)報告 2016年6月25日(土)午後2時-4時
時 6月25日(土)午後2 時―4時
『ベートーヴェンの生涯』
ベートーヴェンの思想断片
ベートーヴェンへの感謝
朗読 中田裕子さん 山本和枝さん
今月の音楽資料
読書会例会 338回(通算513)報告 2016年5月28日(土)午後2時-4時
時 5月28日(土)午後2 時―4時
『ベートーヴェンの生涯』
朗読 中田裕子さん 下郡 由さん
今月の音楽資料
読書会例会 337回(通算512)報告 2016年4月23日(土)午後2時-4時
読書会例会 第337回 (512)
時 4月23日(土)午後2 時―4時
『ベートーヴェンの生涯』
ベートーヴェンの手紙 朗読 中田裕子さん 下郡 由さん
読書会例会 336回(通算511)報告 2016年3月26日(土)午後2時-4時
読書会例会 第336回 (511)
時 3月26日(土)午後2 時―4時
『ベートーヴェンの生涯』
ベートーヴェンの手紙 朗読 中田裕子さん 下郡 由さん
読書会例会 335回(通算510)報告 2016年2月27日(土)午後2時-4時
読書会例会 第335回 (510)
時 2月27日(土)午後2 時―4時
『ベートーヴェンの生涯』
読書会例会 334回(通算509)報告 2016年1月30日(土)午後2時-4時
読書会例会 第334回 (509)
時 1月30日(土)午後2 時―4時
『ロマン・ロラン伝』
ベルナール・デュシャトレ著
村上光彦訳
第311回<読書会>例会報告 2013年5月25日(土)午後2時―4時
第311回<読書会>例会報告
時 2013年5月25日(土)午後2時―4時
テクスト『魅せられたる魂』
第六ー予告するものー 出産 第2部 フイレンツェの五月 後半
二人の社会活動は日増しに激化する。食うか食われるか。フイレンツェでマルクは不慮の死を遂げる。
4月27日(土)午後2時―4時 第六ー予告するものー 出産 第2部 フイレンツェの五月 前半 報告者 中田裕子さん マルクとアーシャは再び愛を取り戻す。
4月27日(土)午後2時―4時
第六ー予告するものー 出産 第2部 フイレンツェの五月 前半
報告者 中田裕子さん
「はじめの蜜月には似ていなかった。それは秋の蜜だった。樅の蜜で、きつい匂いのする暗い金色の蜜だった。苦悩によって熟した愛だった。」二人の社会活動は日増しに激化する。
マルクはマルクスからガンディーに至る思想に自分の道を探す。アーシャはタイピスト兼速記者の仕事を通してヨーロッパの現状をつかむ。二人は共産主義のパンフレットなどの出版をするようになり危険が近付いていた。アンネットは旧知のジュリアン・ダヴィ、ブルノー・キアレンツア伯爵などと親交を深めていく。キアレンツア伯爵は1908年の大震災によって一家を失いただ一人になって、インド、チベットの研究旅行に行きそこで悟りを開く。アンネットはジュリアンの娘ジョルジュと絆を深める。ファシズムの足音が迫っていた。
読書会例会 309回 (通算483) 報告 2013年3月23日(土)午後2時―4時 『魅せられたる魂』 第六ー予告するものー 出産 第一部 闘い
第309回<読書会>例会
時 2013年3月23日(土)午後2時―4時
テクスト『魅せられたる魂』
第六ー予告するものー 出産 第一部 闘い
報告者 西尾順子さん
マルクとアーシャの激しく陶酔的な蜜月の結婚生活から破綻への章。
結婚から一年後の出産、彼らを取り巻く環境は、戦乱、革命から誕生したソ連、
資本主義、共産主義、個人主義の渦巻くなかで苦闘する。
アーシャはソ連との文化接触のなかで、フランスにおけるコミンテルの秘密の使命を帯びていたスラブ人のヂト・ヂャネリヅェと男の一瞬の出来事からマルクとの不和に陥る。
アーシャは思う。「自分は何ということをしたのだろう!」彼女の口惜しさは主として
事実からではなく、意志がそれを欲していない時に不意を食って承知したことにあった。
読書会例会 308回 (通算483) 報告 2013年2月23日(土)午後2時―4時 『魅せられたる魂』 ー四 予告する者 ―― 第3部「罪の風」
第308回<読書会>例会報告
時 2013年2月23日(土)午後2時―4時
テクスト『魅せられたる魂』
第四ー予告するものー第3部「罪の風」報告者 中田裕子さん
*罪 「急行列車の殺人。悪漢逮捕さる、、」犠牲者はパリの知名の氏で、実業家で多数の会社の重役だった。
犯人は方向を誤った一インテリで、無政府主義者で、共産主義者だった。マルクの仲間シモンであった。
マルクはことのいきさつを母アンネットに語った。「シモンがマルクであり、マルクがシモンであったかもしれない。絶望と狂気と犯罪とが私たちめいめいのなかに彷徨っている。ある者はそれに堪え、他の者は負けるが、その理由が分かっているだろうか?『それは彼シモンだったが、自分がそうなったかもしれなかった。誰を責める権利も自分にはない、、、』マルクは母に云った。母は答えた。「そうです、あんたにしてもあたしにしても、あの不幸な男を責める権利はありません」そして彼女はシモンのことを,理解のこもった憐恕をもって語った。しかし彼女はつけくわえた。「でもマルクや、彼があんたであり、あんたが彼であったかもしれないということは、決してほんとうではありません。、、、犯罪と恥辱とが彷徨いています、ええ、そのことは知っています、あんたのなかにも、わたしのなかにも。でもそれは決してあたしたちの床にまで入ることはないでしょう。あんたはいくら誘惑されても大丈夫でしょう。、、 あんたは淵まで行きました。そこを眺めました。それでいいのです。、、あたしは自分のマルクを危険を冒すように作りました。しかしあたしは彼を抵抗ができるように作りました。危険を冒しなさい。あたしも危険を冒します、冒しました。みんなが迷うことを許されているわけではありません。、、「自分には自分の空気がある。足の下にはしっかりした大地がある。自分の血のなかには自分のリヴィエール(川)がある。
* 恋愛 マルクが結婚相手のアーシャと出会う。アーシャは亡命ロシア人で絶望と貧困のあらゆる苦難の中にあった。彼らの愛の始まり。
* 死から生 再生サイクル、、ひとつの世界の苦悩! 同じ時刻に、多くの国々が圧迫と窮乏のために滅びつつある。大飢饉はヴォルガの民どもを貪り食ったところだ。、、ハンガリーとバルカン諸国の牢獄は拷問を受ける人々の叫喚を窒息させている。、、、古い自由の国フランス、イギリス、アメリカは自由が侵されるのを見殺しにして、腹を裂くやつどもを要請している。ドイツはその[先駆者たち]を虐殺した。モスコー付近の白樺の森では、レーニンのすんだ瞳が消え、彼の良心が滅びる。革命はその水先案内を失う。闇がヨーロッパを襲うかに見える。
この二人の子供(マルク、アーシャ)の運命などが何だろう。‐彼らの歓び、彼等の苦しみが―一滴に溶け合ったこの二滴の水が―この海の中で、、、耳を立てて聞け!おまえはそこに海の轟きを聞くだろう。海全体が一滴一滴が,聞くことを欲したなら!
、、、ここへおいで、うつむいてごらん!!わたしが渚で拾った、水の滴る貝殻に耳をつけてごらん1ひとつの世界がそこに泣いている。ひとつの世界がそこに死滅しつつある、、 しかし、自分はまたそこに、すでに、嬰児が鳴くのを聞く。
読書会例会 307回 (通算482) 報告 2013年1月26日(土)午後2時―4時 『魅せられたる魂』 ー四 予告する者 ―― 第2部「草原のアンネット」のなかの音楽
第307回 <読書会>例会資料
『魅せられたる魂』第四ー予告するものー
第2部「草原のアンネット」のなかの音楽 セザール・フランクの「至福」を聴く。
2013年1月26日(土)午後2時―4時 報告者 清原章夫
1.セザール・フランク[ベルギー→仏](1822~1890)
1822年、ネーデルラント連合王国(現ベルギー)のリエージュで生まれる。1835年、家族とともにパリに移り、以後パリを中心に活躍したので、音楽史ではフランス音楽に位置づけられる。リエージュ音楽院に学んだのち、フランスに帰化してパリ音楽院で学び、1858年より終生パリのサンクト・クロティルド教会のオルガニストを務めた。1872年よりパリ音楽院のオルガン教授として、ダンディ、ショーソンらを育成、彼の音楽に傾倒する、いわゆるフランク党が形成された。1971年の国民音楽協会の結成に参画、大バッハをはじめとするドイツ音楽の影響を受けて、深い精神性のあるフランス音楽を創造したが、その作品の真価が認められたのは1880年代になってからである。
主要作品 交響曲 ニ短調、交響詩『のろわれた狩人』、ピアノ五重奏曲ヘ短調、ヴァイオリン・ソナタ イ長調、オラトリオ『至福』等。(オラトリオ 聖譚曲。宗教的な性格を持った長い歌詞による楽曲。独唱、合唱、管弦楽を用い、劇場や教会で演奏される。ヘンデル『メサイア』等。)
『クラシック音楽作品名辞典』三省堂
2.ロランとフランク
ロランは、エコール・ノルマルの学生だった1887年1月30日に、フランクの指揮で『至福』のプロローグ、第三曲、第八曲を聴き、夢中になった。 また、1888年3月28日にフランクを訪ね、短い会話をした。
3.『至福』
おそらくフランク最大の宗教作品は、9部からなるオラトリオ『至福』(別名『八つの幸い』)であろう。彼の学生にして友でもあったヴァンサン・ダンディは、こう語ってくれる。「生涯すべてを通し、フランクは福音書のあの美しい『山上の説教』(マタイ5・3-10)による音楽作品を書きたいと願っていた。」彼は1869年から1879年までの十年間をこの作品の総譜に携わって過ごした(初演1893三年パリ)。その美しさは、一度聴いただけでも明らかである。フランクがキリストの言葉を伝える劇的な方法は、ある伝記作家にこう言わせたほどだ。「『至福』の中でフランクは、世の中が選びとって欲しいと願う福音を説いた。」
しかし世の中は全般的に彼の教義を選ばず、その音楽を直ちに受け入れもしなかったが、フランクはほぼ死の当日まで作曲を続けた。間違いなく、彼は作曲を主の前での義務と考え、それは聖クロティルド教会でオルガン奏者として果たす毎週の務めと同じであった。オルガン樂楼(ロフト)の中で、即興演奏の途中で手を休めひざまずいて静かに祈る彼の姿を、ほとんど誰もが目撃できたのである。
『大作曲家の信仰と音楽』P・カヴァーノ著 吉田幸弘訳 教文館
4.『至福』の構成
テキストは、新約聖書『マタイ福音書』をもとに、フランクの友人の妻、J・コロン夫人が書いた。演奏時間、約2時間。
全体は、プロローグと8部からなり、各曲のタイトルは以下に示すように、「山上の説教」のイエスの言葉である。『新共同訳』
1部 「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
2部 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
3部 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる
4部 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
5部 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
6部 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
7部 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
8部 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
マルクが泣きだしたのは、第三部のコーラスを聴いていた時である。
読書会例会 306回 (通算481) 報告 2012年11月24日(土)午後2時―4時 『魅せられたる魂』 ー四 予告する者 ―― 草原のアンネット
ロマン・ロラン セミナー
第306回<読書会>例会 報告
時 11月24日(土)午後2時―4時
11 月16日は『魅せられたる魂』の翻訳者で創立者の宮本正清が亡くなって30年。「僕の死後30年で世の中すっかり変わってしまうよ」と予言していたとお り、ロマン・ロランの読者も激減、紙の書物は電子化されるという革命的な時代になっている。書籍を取り巻く環境は厳しい。しかしロランの作品から得られる 人生への指針を求めて参加する人たちがいる限りこの場を提供する小さい歩みを継続していくつもりである。
理事 宮本ヱイ子記
テクスト 『魅せられたる魂』
第四ー予告するものー第2部
「草原のアンネット」
この「草原のアンネット」は『ジャン・クリストフ』の「広場の市」を思い出させる。孤独に厳しい道を切り開いていくマルクに対して、アンネットはチモンという「生きたマンモス」のような男性と行動を共にし、その不屈の力に満ちた姿は読む者を圧倒する。
参加者全員から様々な論議が活発に展開された。
報告者 西尾順子記
読書会例会 305回 (通算480) 報告 2012年9月15日(土)午後2時―4時 『魅せられたる魂』 ー四 予告する者 ―― 一つの世界の死
ロマン・ロラン セミナー
<読書会> 報告
9月15日(土)午後2時―4時
テクスト『魅せられたる魂』
ー四 予告する者 ―― 一つの世界の死
第一部 テーベ市に対する七人
報告者:中田裕子さん
朗読 :山本和枝さん、 西尾順子さん
アンネットは生活の糧を得るため、パリを離れる。混乱と退廃のパリに一人残った19歳になったマルクは、自分の力で自分のパンを得ようとするが、失意の中に。
――行きなさい、そこを通らなければならないことも、そこを一人で通らなければならないことも、お前が打たれ、へとへとになり、恐らく傷ついて、しかし、しっかりそこから出てくるだろうということを私(アンネット)は知っています。(また、お前も知っています) 危険を伴わない、安全地帯におかれた美徳など、あたしは歯牙にもかけません。危険を冒しなさい!――
マルクにとって生きるということは?
二女性も含めた七人組のそれぞれにとっての生き方とシルヴィの生き方も合わせて意見や感想を出し合い、また、スピノザの愛好家も2名参加されていたので、マルクの生き方を通してみえるロマン・ロランとスピノザの思想の類似についても話しあい大変もりあがった。
一ヶ月の夏休みの後でしたのに、配布物(マルクの仲間、5―7人組の名前と人物を列記)が足りなくなる程の盛会だった。
読書会例会 304回 (通算479) 報告 2012年6月23日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「母と子」エピローグ
読書会例会 303回 (通算479) 報告 2012年6月23日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「母と子」エピローグ
発表者 松田 有美子 さん
《物語の時代的背景》
この「母と子」は、第一次世界大戦開戦の1914年から、1918年11月の休戦までの長い期間にわたる間の物語。
そしてこのエピローグの部分は、この大戦休戦の直前頃、ヨーロッパ全土が戦争に巻き込まれ、政治的・思想的に混沌としている時期。
本人の意志に関係なく、いつ戦争にかり出されるかわからない状況。理不尽な戦争に翻弄され、傷ついた人たちが町中に溢れている。物語の中で一貫して描かれている人たち「アンネットの家に住んでいる住人たち」の悲劇もさらにエピローグの中で語られている。
このような悲劇があらゆる人々の間で日常的に起こっている中で、ついにマルクはアンネットが一番恐れていることを言う。
「さあ、今度は僕の番ですよ」
エピローグはこのマルクの言葉から二人の戦争に反対する気持ちや平和について語り合う長い会話がはじまっていく。
《物語の流れの中で》
エピローグ最初の部分は次のように始まっている。
「閘門はすべての扉-すべての水脈-を開け放っていた。召集は瞬く間に次々に行われた。二十歳のものは出発した。19歳の者も応召した。18の者は明日にも召集されるだろう。マルクの番も来つつあった。・・・」
このような緊迫した状況の中で、マルクは18歳。いろいろな人々との交流、若者らしい社会的な経験、または読書・勉学によって成長し、若き知識人としての入り口に立っている。
一方、アンネットは42歳。人生の夏から秋へと年を重ね、さらに内面的な円熟味を増している、と感じる。
二人はこの「母と子」の長い物語の中で語られてきたように、お互いにそれぞれの場で成長し厳しい自己分析と自己批判をもって自らの生き方を見つめ直し、また深めて、アンネットとマルクは今まで読んできたような長い時間を経て、やっとお互いを理解し合い、尊敬しあい、マルクをして「あなたはお父さんであり、お母さんです」と言わせ、お互いが自分にとってかけがえのないものであるという関係が今では築けている。
エピローグでは、このような二人が、互いに深い愛情と相手への思いやり、そして理解と敬意を持って内密の心を語り合い、戦争や新しい戦争を孕んだ見せかけの平和の嘘について、そういう社会や単に言葉だけで平和を語る人々に対する軽蔑、または戦争に反対する気持ちなど、真摯に語り合う場面がずっと続いていく。どの部分の会話も深く重いものであるけれど、その会話の中にアンネットの苦悩がにじんでいる。それは、戦争がマルクを奪うのではないか、という単に戦争に対する恐怖だけではなく、マルクの「真摯であるがゆえにあまりにも危険な思想」を恐れて苦悩するアンネットがいる。
そしてマルクは「さあ今度は僕の番ですよ」 と言って、アンネットに自分の思想・堅い決意を語る。
「アンネットは勇気をかきあつめた、そして、咽喉を詰まらせて、彼に訊いた。『もし、戦争がお前を取りに来たら、お前は彼に何というの?』
『ぼくはノンというでしょう』
アンネットはこの衝撃を覚悟はしていた。そしてそれを受けたときに、彼女は両手を伸ばしたが、それを避けるには遅すぎた。
『それはいけません』
マルクは落ち着いていった。『ぼくがよろしいといえばいいんですか?』アンネットは反対した。『それもいけない』・・・・・・・・」
アンネットはマルクの思想的成長、そしていかにマルクが自分自身に正直であり、自分の理論によって築かれた思想の下に行動しようとしているかを知っているし、そのマルクの成長と真摯さはアンネットにとって誇れることであるはずだけれども、この激動する世界の状況下にあって、マルクのように「真の正義」を貫こうとすることが、どれほど危険なことか、アンネットはマルクをそんな危険な場所に行かせることはできないと思っている。マルクの「思想」に共鳴しながらも、どんなに自分を偽ることになろうともそのマルクの「思想」を認めるわけにはいかない。それはあまりにも危険すぎる。このマルクとの会話の中では、自分の命をもかえりみず、自分の信じた道を突き進む雄々しいアンネットは陰を潜め、ただ愛する息子をひたすら思う母としてのアンネットがいる。このような時代に真摯に自らの意志に従い、まっすぐに自分を偽らずに生きようとするマルクの思想は、アンネットにとってはあまりにも過酷であり受け入れることができない。母であるアンネットは理性ではなく心がそれを拒んでいる。そういう苦悩の中にアンネットはいる、と思う。
《「母」としての限界》
アンネットの戦争に反対する思想はどちらかと言えばマルクのそれのように理論的根拠に基づくものではなく、母として、女性としての心情的なものである。マルクの男性としての「強さ」、アンネットの女性としての「弱さ」が、二人の会話から際立つように思う。
本当の意味で「父であり母」となるためにアンネットはどうすればいいのか?
そして、さらに二人の会話はすすんでいく。
あくまでもマルクは冷静に、アンネットに愛情をそそぎながら、自分の考え・意志を貫く覚悟を語り続ける。
エピローグではお互いの気持ちや考えを理解し合いながらも「一致」はしない二人の会話が続く。
「『お母さん、あなたはあなたの生涯を否定なさるんですね・・・・あなたの反抗や闘いや、自分のためにも、他のためにもあなたは不正を忍ぶことができないことを、ぼくが知らないと思っていらっしゃるんですか?・・・・・』
『いいえ、あたしを手本にしてはいけません!・・・・・・・私は盲目的に生きてきました。あたしは自分の道案内としてはこの生来の感情と、女性の情熱と、ちょっとでも触れれば、闇の中で慄え上がるような、あまりにも激しい心しか持っていなかったのでした・・・・男子は-わたしが作り上げた男は-女を手本にしてはいけません。男は混沌とした自然から脱却できるのです。だからそうすべきです。もっとはっきりもっと遠くまで見通すべきです。』」
強くなったマルクに対し、母であるが故に「弱さ」に苦しむアンネット。
マルクは母に向かって、次のようにも言っている。
「ついさっき、あなたは、人間のすべての子供たちに及ぼしたいと夢見る母性のことを話されたでしょう。今、その用途が見つかったのですよ!あなたが僕に対していだいていらっしゃる愛を他の人々に与えてください!」
そしてアンネットはマルクに言う。
「わたしは自慢しました。でもわたしにはできません!ああ!これまで果たして誰にそれができたでしょう!それは非人情でしょう。わたしはおまえを通じて他の人々を愛します。他の人々を通じておまえを愛します。おまえというものがないうちは、わたしが彼らのうちに捜していたのはお前でした。お前をえた今となって、お前を犠牲になどできるでしょうか?彼らはもうわたしには必要じゃありません。お前はわたしの宇宙です。」
「お願いだからね!お願いだからね!無益なことに危険を冒さないようにしておくれ!それが何になります?人間を変えることができないのはよくわかっているでしょう!・・・・」
ここには、自分の直感のみを信じていかなる犠牲をも恐れずに突き進むアンネットはいない。
ただひたすら息子の「命」を考える母としてのアンネットがいる。
《ジェルマンの遺言=「母と子」の物語の中で大切な部分》
二人の会話の中のマルクが語る「思想」に対して、アンネットの母として、あるいは女としての「苦悩」と「矛盾」を考えるとき、ジェルマン(第4部で登場した)が死の間際にあって、アンネットの弱さと限界を見抜き、アンネットに残した遺言とも言うべき最後の言葉がとても大切に思える。アンネットを愛した男性としてアンネットの息子に残した言葉をアンネットは胸の内に持っている。同じ知識人としてマルクに伝えるべきこと、引き継がれなければならないことをアンネットに託した言葉。アンネットはマルクを支え、援けるためにこの言葉を力にしなければならない。「母と子」のこの物語の中で、大切な部分だと思う。でなければ、本当の意味の「父となり母となる」ことはできないのではないか、と思う。
《第4部 ジェルマンの遺言》
「アンネット、僕が逝ってしまうのはいいことです。僕が精神的に属していた人種は、来るべき世界には入れられないでしょう。未来の幻影も過去のそれも持たない種族です。僕は一切を理解しました。僕は何も信じなかったのです。あまりに理解するということが僕の内部の行動欲を殺してしまいました。行動しなければだめです!しっかりやって下さい!あなたの心情の本能は僕の賛否よりもっと確実です。しかしそれでもまだ足りないのです。あなたにもあなたの限界があります。あなたは女です。しかしあなたは一人の男子を作り上げました。あなたは男の子を持っていらっしゃるんです。彼はあなたの限界にぶつかるのです。嬰児が飛び出すために、あなたのおなかの壁にぶつかるように。彼はまだ幾度もあなたを血みどろにするでしょう。歌いなさい、ジャンヌ・ダルブレのように、彼の解放の賛美歌を。彼があなたから出るであろう割れ目を歌いなさい。僕の名において彼に言ってください。僕のようにすべてを理解し、あなたのようにすべてを愛するだけで満足しないで、・・・彼は選ぶのです・・・正しくあると言うことは立派です。しかも本当の正義はその天秤の前に座って皿が上下するのを眺めていることではないのです。それは判断し、決断を実行することです。彼は断行して欲しいものです。夢はもうたくさんです。来たれ、目醒め!・・・おさらば空想!」
アンネットはこのジェルマンの遺言をマルクに「伝達」しなければならない。
強い決意を持っているマルクだけれども、母に援けを求めている、マルクの叫びとも言うべき言葉。
「お母さん・・・・ぼくを援けてください。そして祈ってください。」
「わたしは祈ります。でも誰に?」
「僕の源泉(みなもと)。あなたの魂。ぼくはその水です。」
アンネットはこのジェルマンの言葉を、単に「言葉で伝える」という意味ではなく、堅い決意を持って自ら選んだ道を歩もうとするマルクを援け、本当の「父であり母である」ために、そして本当の意味で「世界の母」となるために自分の限界を越えていく力にしなければならない。という意味が込められているように思う。
《そして休戦》
二人がこのような緊張した日々を送っているとき、「休戦が署名されたのよ」というシルビィの声。
ついに戦争は終わった。
長い緊張感から解放されて「彼らは互いに抱き合った。」
けれど戦争は単に一時的に休戦になっただけで、予想される戦後の頽廃と政治的混乱の中で、本当の戦いがマルクを待っている。
アンネットとマルクはどうなっていくのか。
さらに二人の過酷な運命を予告するエピローグの終わりの文章。
「『わたしは知っています、知っています・・・・』・・・・・マテール ドロロサ(悲しめる聖母)の運命・・・・
『わたしは逃げはしない。このとおり戻ってきました!・・・』
そして彼女の目は向けられる、彼の上に、息子の上に、いとしい夢の上に。彼女は生きた人々の眼にふたたび捕らえられる。彼女は微笑む、そしてふたたび落ちる・・・・
『しばし待て』
やがて、私たちはふたたび眼を醒ますであろう。」
次の巻「予告する者」への期待がたかまる。
読書会例会 303回 (通算478) 報告 2012年5月28日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「母と子」第5部
読書会例会 303回 (通算478) 報告 2012年5月28日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「母と子」第5部
発表者 中田 裕子 さん
「母と子」の最後のページにマルクの「あなたはぼくのお父さんでお母さんです」という
言葉を手がかりに母と息子の深い心の繋がり、魅せられた魂の女主人公アンネットの
生き方を考える。
「母と子」第5部についてのレポートと参加者による討議を実施し、とくに、
女性会員を中心に母と子の心の絆の強さについて活発な意見交換がなされた。
読書会例会 302回 (通算477) 報告 2012年4月28日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「母と子」第4部
読書会例会 302回 (通算477) 報告 2012年4月28日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「母と子」第4部
発表者 西尾 順子 さん
シングルマザーとなって生きる女主人公アンネット、そしてその一人息子マルクが
戦争という苛烈な状況のなかで変貌していく二人の姿を克明に追っていく・・・
「母と子」第4部についてのレポートと参加者による討議を実施し
とくに、女性会員を中心に母親の視点から活発な意見交換がなされた。
読書会例会 301回 (通算476) 報告 2012年2月25日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「母と子」第3部
読書会例会 301回 (通算476) 報告 2012年2月25日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「母と子」第3部
発表者 中田 裕子 さん
「母と子」第3部についてのレポートと、主に母親の視点、そして女性の
視点からの、参加者による討議、意見交換がなされた。
また、3月5日(月)に開催予定の朗読会「女たちの祭典・ワークショップ
『魅せられたる魂』を朗読する」の案内がなされた。
読書会例会 300回 (通算475) 報告 2012年1月28日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「母と子」第2部
読書会例会 300回 (通算475) 報告 2012年1月28日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「母と子」第2部
発表者 中田 裕子 さん
思春期の息子マルクとの葛藤に悩むアンネット、二人の間を取り持つ義妹シルヴィ……
偶然、アンネットは、瀕死のドイツ人捕虜の青年の最期を看取ることになる。彼の助けを
求める姿に接しているうちに、マルクの母から世界の「母」へと心を広げたアンネットの
母性、受動的に容認していた戦争にたいする気持ちにも変化が……
「母と子」第2部についてのレポートと参加者による討議を実施した。
また、前日に開催されてた『ロマン・ロラン伝』翻訳・出版記念の会における守田省吾氏の
講演について共感の意見を述べられた。講演中に言及されたローザ・ルクセンブルグの
手紙のうちロランに言及されたものが紹介され、意見・感想の交換がなされた。
読書会例会 299回 (通算474) 報告 2011年11月26日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「母と子」第1部
読書会例会 299回 (通算474) 報告 2011年11月26日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「母と子」第1部
発表者 中田 裕子 さん
発表者によるレポートと読書会参加者による活発な討議を実施した。
第281回 読書会報告 テーマ “私にとって母が何であったか” 報告者 西尾順子さん
第281回 読書会報告 2010年1月23日(土)午後2時―4時 場所 ロマン・ロラン研究所
テーマ “私にとって母が何であったか”
「家系の樹」 ―全集第17巻『自伝と回想』(みすず書房)の『内面の旅路』―から
ロラン自身のルーツ、フランスの中央部ブルゴーニュ地方に根を張っていた父方、母方の家系を17世紀に遡って、数代にわたり明らかにしながら、今回は特に母親について報告する。
父は公証人で先祖は裁判官、弁護士、検察など司法関係者。母方は鍛冶屋、技師、弁護士、公証人などの家系。
報告者 西尾順子さん(元高校教師)は彼女の実体験も重ねてテクストの一部を参加者とともに朗読しながら報告。
「母は私を産んだ。、、母は私を産み続けた。、、」
第282回 読書会報告 テーマ マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグについて 報告者 山本和枝さん
282回の読書会 2010年2月27日(土)午後2時―4時
場所 ロマン・ロラン研究所
「女友たち」 ―『内面の旅路』から
マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグ(1818-1903)について
ロランにとっては第二の母ともいうべきマルヴィーダはフランス大革命のときドイツへ亡命したフランス人の子孫である。伝統的で安楽な家庭環境のなか快い社交生活に甘んじられるはずであったが、人間の良い意味での女性の解放、労働階級に正当な権利を自覚させることに目覚め、教育に携わった後、創造的活動に発展した。作家として『一理想主義者の回想』『一理想主義者の晩年』で光彩を放った。
23歳のロランがローマに留学するとき恩師モノーからマルヴィーダに紹介されたのがきっかけだった。マルヴィーダ家で、若い姉妹ソフイアに出会ったことがロランを足繁くマルヴィーダ家を訪れさせることになった。
青年ロランは精神の肥やしともいうべき芸術、教養の薫陶を70歳を超えたマルヴィーダから受ける一方で、恋心を少女ソフイアへと募らせる。
ローマ時代の精華はロランの人生に作品に深く投影された。『マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグへの手紙』『したしいソフイア』が著作集に収められている。
男性の友情、女性の友情について参加者の身近な経験が活発に論議された。
報告者 山本和枝さん
読書会例会 298回 (通算473) 報告 2011年10月22日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「夏」ⅠⅡⅢ
読書会例会 298回 (通算473) 報告 2011年10月22日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「夏」ⅠⅡⅢ 総括
発表者 西尾 順子 さん
発表者によるレポートと読書会参加者による活発な討議を実施した。
読書会例会 297回 (通算472) 報告 2011年9月24日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「夏」第3部
読書会例会 297回 (通算472) 報告 2011年9月24日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「夏」第3部
発表者 中田 裕子 さん 山本 和枝 さん
小尾俊人氏(当研究所・理事 みすず書房創業者 8月15日逝去 享年89)の追悼。
読書会としては、発表者によるレポートと読書会参加者による討議。
読書会例会 296回 (通算471) 報告 2011年7月23日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「夏」第2部
読書会例会 296回 (通算471) 報告 2011年7月23日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「夏」第2部
発表者 中田 裕子 さん 山本 和枝 さん
発表者によるレポートと読書会参加者による討議を実施した。
妹夫婦との仲直り、アンネットの息子マルクの成長、幼児から中学生、
性への目覚めくらいまでの母親にとっては最も難しい男の子の成長期、
シルビーの娘オデットの事故死、家族模様へのリアルで深層的な考察、
学生時代の旧友フランクが再びアンネットに接近、・・・などのテーマに
ついて意見交換した。
読書会例会 295回 (通算470) 報告 2011年6月25日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「夏」第1部
読書会例会 295回 (通算470) 報告 2011年6月25日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「夏」第1部
発表者 中田 裕子 さん 西尾 順子 さん
発表者によるレポートと読書会参加者による討議を実施した。
アンネットとジュリアの恋の破局を題材に男女の結婚観、
恋愛観の差異について白熱した議論があった。
読書会例会 294回 (通算469) 報告 2011年5月28日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」「アンネットとシルヴィ」
読書会例会 294回 (通算469) 報告 2011年5月28日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)「アンネットとシルヴィ」
発表者 中田 裕子 さん
発表者によるレポートと読書会参加者による討議を実施した。
読書会例会 293回 (通算468) 報告 2011年4月23日(土)午後2時―4時 「魅せられたる魂」序
読書会例会 293回 (通算468) 報告 2011年4月23日(土)午後2時―4時
『魅せられたる魂』(1921年~1934年)序
発表者 中田 裕子 さん
発表者によるレポートと読書会参加者による討議
執筆、発表に要した10年に及ぶ期間の時代背景などを詳細に報告し、併せて、
最近のインターネット上の一般ブログにみられる「魅せられたる魂」についての
論考も紹介した。
この物語の主要な女主人公アンネット・リヴィエールは、この女性の世代の
アバンギャルドにぞくしている。この世代は、フランスにおいてさまざまな
偏見と道づれたる男性の悪意に反抗して、独立の生活にむかって、困難な
道を切り開かなければならなかった。
読書会例会 292回 (通算467) 報告 2011年3月5日(土)午後2時―4時 「トルストイの生涯」
読書会例会 292回 (通算467) 報告 2011年3月5日(土)午後2時―4時
テキスト「トルストイの生涯」
先月の朗読会の朗読者が中心となって自由討議
読書会例会 291回 (通算466) 報告 2011年1月29日(土)午後2時―4時 尾埜前理事長追悼・「ロランとトルストイ」概要
読書会例会 291回 (通算466) 報告 2011年1月29日(土)午後2時―4時
○ロラン生誕記念日(1866年1月29日)
○尾埜善司前理事長・追悼(2010年12月15日逝去)
○ロランとトルストイの関係についての報告(※)、及び録音された「トルストイの肉声」を聴く・討議
(※)報告概要
読書会レジュメ「ロランとトルストイ」概要(H23.1.29) 黒柳大造さん
1.はじめに
読書会で「トルストイの生涯」、朗読会で同書と「トルストイとの往復書簡」を取り上げる
準備としてトルストイとロランの関係への理解を深めることを目的とする。
2.トルストイとは?
1828年~1910年。ロシアの文豪。ドストエフスキーと並び、その作品は近代世界文学の
最高峰に位置する。代表作は「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「復活」など。
日本への受容は明治時代に始まり、白樺派の作家達を中心に大正時代に最盛期を迎える。
3.ロランとの関係
時期によって変化・変遷はあるが、ロランは基本的にはトルストイの思想に共鳴している。
ロランのトルストイに関する作品等は次の通り。
(1)「内面の旅路」(みすず書房全集第17巻)
「3つの閃光」の中の第3の閃光で若いロランは「戦争と平和」の一場面に込められた
個人の精神の独立の意味を発見する。
(2)ロラン~トルストイ間書簡(みすず書房全集第39巻)
(ロラン→トルストイ:7通、トルストイ→ロラン:1通)
書簡執筆年代が進むのに応じてロランのトルストイ理解が深まっていくのが興味深い。
(3)伝記「トルストイの生涯」(みすず書房全集第14巻、岩波文庫など)
トルストイの作品を執筆順に並べ、作品内容とその執筆時のトルストイの思想、トルストイ
を取り巻く社会的背景等を記すことでトルストイの生涯を描いている。
邦訳は宮本正清・訳(みすず全集)、蛯原徳夫・訳(岩波文庫)など多数有。成瀬正一・訳は
第三次/四次新思潮の同人仲間である成瀬(ロランに初めて手紙を出した/会った
日本人)、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲(以上3名は漱石門下の作家達)による共訳で
あることが有名。
(4)日記・書簡・その他(みすず書房全集第39巻に集められている)
ロランは日記、知人への書簡などの多数でトルストイについて記している。
4.参考(トルストイとロランの関連について)
ツヴァイク(「ロマン・ロラン」創元社)、魯迅(講演「知識階級について」(「中国知識人の百年」
(早大出版部)所収))、宮本正清(「ロマン・ロラン‐思想と芸術‐」みすず書房)、蛯原徳夫
(「ロマン・ロラン研究」第三文明社)などが両者について取り上げている。
読書会例会 290回 (通算465) 報告 2010年11月27日(土)午後2時―4時 戯曲 笑劇『リリュリ』 後半
読書会例会 290回 (通算465) 報告 2010年11月27日(土)午後2時―4時
戯曲 笑劇『リリュリ』 後半
登場人物のせりふを各自が選択し、提案、朗読、討議。
主要人物 ポリシネル、ジャノオ、リリュリ、アルタイル、天主 など。
真理、神、 幻影、群衆、知識人たち、労働者、 外交官などの登場人物をして 笑いのなかで大胆な風刺と皮肉で世の中の仕組みや伝統、神にまで迫る戯曲のせりふに日常の束縛から解放される。
読書会例会 289回(464)報告 2010年10月23日 戯曲『リリュリ』 前半 朗読 参加者たち
読書会例会 289回(464)報告 2010年10月23日(土)午後2時―4時
戯曲『リリュリ』 前半 朗読 参加者たち
登場人物のせりふを各自が選択し、提案、朗読。
主要人物 ポリシネル、ジャノオ、リリュリ、アルタイル、天主 など。
ポリシネル おっと、待った! 小さい方々! 並足!並足! どうしてそう走るんだね?新月を他人に盗られるかと思って心配なのかねーー鳩は飛ぶからねーー
読書会例会 288回(463)報告 戯曲『リリュリ』 翻訳者あとがき 朗読 参加者たち
読書会例会 288回(463)報告
2010年9月28日(土)午後2時―4時
戯曲『リリュリ』 翻訳者あとがき 朗読 参加者たち
ロマン・ロランの作品像は重く厳しい印象であるが、それだけではない。『リリュリ』は皮肉と笑いの笑劇である。
翻訳者 宮本正清のあとがきを声に出して朗読することで作品の理解を深める。
読書会例会 287回報告 うたと朗読による佐々木斐夫先生追悼会、読書会補助資料 黒柳
読書会例会 287回(462)報告 2010年7月10日(土)午後2時―4時
うたと朗読による佐々木斐夫先生追悼会
前常務理事で成蹊大学名誉教授佐々木斐夫先生のご功績をしのび、追悼の会を催しました。
うた 下郡 由さん 『心やさしい友』佐々木先生の著書から
朗読 『ベートーヴェン研究』ロラン著・訳 佐々木先生
朗読者 西尾順子さん、中田裕子さん、権 英子さん、山本和枝さん、
宮本エイ子ほか
佐々木先生の業績報告 黒柳大造さんの次の資料。
故人をしのびながら故人の好物であった紅茶とお菓子で和やかに歓談。
第287回読書会補助資料(H22.7.10:黒柳)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―佐々木斐夫先生―
1.佐々木斐夫先生とは?
1913年~2010年。社会思想史学者。成蹊大学名誉教授。
ユートピア思想の視点からの欧州社会思想史研究、人間個人の精神と社会(社会構造)との関係性に着目した社会学研究、などに取り組む。
日本ロマン・ロラン友の会、財団法人ロマン・ロラン研究所の創立に参画。元・常務理事。みすず書房のロラン全集に翻訳も多数有。
なお、佐々木先生がみすず書房の小尾俊人・元編集長(ロマン・ロラン研究所理事)の弟の先生だったことが、後のみすず書房のロマン・ロラン全集出版につながった。
2.主な業績
<主な著書>
「心やさしき友よ」(1977年 みすず書房)
「イデアとエスカトン」(1997年 みすず書房)
「認識社会学の方法序説」(1989年 いなほ書房)
「狂気と文化」(1980年 東海大学出版会)
「パリの社会学」(共著)(1982年 日本ブリタニカ)他
<主なロラン作品の翻訳>
「16世紀イタリア絵画の凋落」(ロラン全集第20巻)
「ベートーヴェン偉大な創造時期1‐エロイカからアパッショナータまで‐」
(ロラン全集第23巻)他
<ロラン関連論文など>
「ロマン・ロランの政治思想」(前出の「認識社会学の方法序説」所収)
「ロマン・ロランの生涯」(新日本文学1952年12月号)
「ロマン・ロランと日本」(ユニテ第28号2001年)
「自伝的諸作品について」(ユニテ第19号1992年)
「静かにやさしき顔」(ユニテ第20号1993年)・・・宮本正清没後10年寄稿
※「認識社会学の方法序説」の「あとがき」には佐々木先生自身が1960年前後だけでも10数本のロランについての文章を発表したと記しているが、今回のそれらを入手することはできなかった。
<その他>
雑誌「高原」「婦人公論」などに寄稿多数
(以上)
第286回 読書会報告 『内面の旅路』 付録 報告者 今西 良枝さん
読書会 報告 第286回 通算461回
6月26日日(土)午後2時―4時
テクスト 『内面の旅路』 付録
報告者 今西 良枝さん (会員)
なぜ私は自伝を書こうとしているのか。消滅しようとしている思い出を再び生気づけるためではない。わたしの生の意味を理解させようとの試みである。
60年を過去ににしてきた今、わたしはわたしの今後の余生を、、(それ<調和>自身のため)のーわたしのためのーそして【第九交響曲】における老ブルクナーのように神さまのための「もしも神が受納するならば」ですが、そんな<調和>を歌うことに捧げうる権利を持ちたいものだと願っています。
生の意味そのもの、生の勇気は、私にとっては生が己を他と違うものとして実現することである。各自の存在が全的にそれ自身の存在であるがいい。どの存在も他の存在ではないがいい。そしてわたしにとっての絶え間ない敵は、群れの精神であり、その精神の感染である。
第285回 読書会報告 『内面の旅路』 Ⅸ「周航」 報告者 馬渕岳大
2010年5月29日
ロマン・ロランセミナー 読書会例会 285回 通算460回
『内面の旅路』 Ⅸ「周航」
報告者 馬渕岳大
ロマン・ロランは『周航』の中で周りの無理解に苦しんだと率直に告白しています(それは生涯続いたでしょう)。
しかし、彼の運命のライトモチーフ(主導動機)である下記のヘラクレイトスの言葉に至る内面の過程が描かれているのを読んだときは感慨深くなりました。
「不協和によって作られる最も美しい和音……」
無理解の中でも自らの魂に忠実に行動を続け、磨かれたモチーフ。
“ユニテ”という言葉の理解も少しは深まったと思います。
私はあるとき、『ベートーヴェンの生涯』、『ジャン・クリストフ』をのめりこむように読みました。自分の悲しいときやうれしいときの感情の流れが非常に繋がる感じがしたからです。
ただその読み方は自分本位のものでした。
『周航』では『ベートーヴェンの生涯』、『ジャン・クリストフ』の根底にあるものを知ることができました。
今後、これらの作品を読み返すとき、あるいはまだ読んでいない『魅せられたる魂』や『コラ・ブルニョン』を読むときにも『周航』は助けになります。
また、皆様とさまざまな意見を交換できたことは非常に楽しかったです。
第284回 読書会報告 『マルヴィーダへの手紙』 朗読,発表者 下郡由さん、西尾順子さんほか参加者
ロマン・ロランセミナーご報告
<読書会 例会>第284回
テクスト『マルヴィーダ(1890-1903) への手紙』
先祖はフランス人だがドイツ生まれの教養豊かな婦人、マルヴィーダは若いロランのなかに偉大な可能性を見抜いていた。ワーグナーの苦悶、ニーチェの悲劇などを身近に見、ともに苦しみを分かち合ってきた彼女は、いま門出するロランに大きな期待を寄せた。ロランの第二の母ともいうべき精神的芸術的感化を成した。
3月好評につき、継続。
朗読,発表者 下郡由さん、西尾順子さんほか参加者
とき 2010年4月27日(土)14時~16時
かいひ 500円(賛助会員無料)
ところ (財)ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL 075-771-3281
E-mail rolland-miyamoto@mtf.biglobe.ne.jp
第283回 読書会報告 テクスト『マルヴィーダへの手紙』 朗読者 下郡由さん、西尾順子さんほか
<読書会 例会>第283回
テクスト『マルヴィーダへの手紙』 (1890-1903)
先祖はフランス人だがドイツ生まれの教養豊かな婦人、マルヴィーダは若いロランのなかに偉大な可能性を見抜いていた。ワーグナーの苦悶、ニーチェの悲劇などを身近に見、ともに苦しみを分かち合ってきた彼女は、いま門出するロランに大きな期待を寄せた。ロランの第二の母ともいうべき精神的芸術的感化を成した。
朗読者 下郡由さん、西尾順子さんほか
とき 2010年3月27日(土)14時~16時
かいひ 500円(賛助会員無料)
ところ (財)ロマン・ロラン研究所
〒606-8407 京都市左京区銀閣寺前町32
TEL 075-771-3281
E-mail rolland-miyamoto@mtf.biglobe.ne.jp
第282回 読書会報告 テーマ マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグについて 報告者 山本和枝さん
282回の読書会 2010年2月27日(土)午後2時―4時
場所 ロマン・ロラン研究所
「女友たち」 ―『内面の旅路』から
マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグ(1818-1903)について
ロランにとっては第二の母ともいうべきマルヴィーダはフランス大革命のときドイツへ亡命したフランス人の子孫である。伝統的で安楽な家庭環境のなか快い社交生活に甘んじられるはずであったが、人間の良い意味での女性の解放、労働階級に正当な権利を自覚させることに目覚め、教育に携わった後、創造的活動に発展した。作家として『一理想主義者の回想』『一理想主義者の晩年』で光彩を放った。
23歳のロランがローマに留学するとき恩師モノーからマルヴィーダに紹介されたのがきっかけだった。マルヴィーダ家で、若い姉妹ソフイアに出会ったことがロランを足繁くマルヴィーダ家を訪れさせることになった。
青年ロランは精神の肥やしともいうべき芸術、教養の薫陶を70歳を超えたマルヴィーダから受ける一方で、恋心を少女ソフイアへと募らせる。
ローマ時代の精華はロランの人生に作品に深く投影された。『マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグへの手紙』『したしいソフイア』が著作集に収められている。
男性の友情、女性の友情について参加者の身近な経験が活発に論議された。
報告者 山本和枝さん
第281回 読書会報告 テーマ “私にとって母が何であったか” 報告者 西尾順子さん
第281回 読書会報告 2010年1月23日(土)午後2時―4時 場所 ロマン・ロラン研究所
テーマ “私にとって母が何であったか”
「家系の樹」 ―全集第17巻『自伝と回想』(みすず書房)の『内面の旅路』―から
ロラン自身のルーツ、フランスの中央部ブルゴーニュ地方に根を張っていた父方、母方の家系を17世紀に遡って、数代にわたり明らかにしながら、今回は特に母親について報告する。
父は公証人で先祖は裁判官、弁護士、検察など司法関係者。母方は鍛冶屋、技師、弁護士、公証人などの家系。
報告者 西尾順子さん(元高校教師)は彼女の実体験も重ねてテクストの一部を参加者とともに朗読しながら報告。
「母は私を産んだ。、、母は私を産み続けた。、、」
『第280回読書会レジュメ「内面の旅路」4(「Ⅲ.家族の樹」)』発表者 黒柳大造さん
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『第280回読書会レジュメ「内面の旅路」4(「Ⅲ.家族の樹」)』
『参考書籍紹介「小尾俊人先生の新刊「昨日と明日の間」(幻戯書房)」』
発表者 黒柳大造さん
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第280回読書会レジュメ 「内面の旅路」4(「Ⅲ.家系の樹」)(2009.11.21) 黒柳
本章では、ロランを育みロラン思想の源泉となった彼の先祖達が紹介されている。
ロランは自分の思想を先祖達(父方ロラン家、母方クロー家)により受け継がれてきた結実((永年の努力の)収穫、思考する血脈の総計(いずれもP315))と位置づけている。
●コラ・ブルニョンに例えられる楽天的、人生肯定的な一族の人々●
(1)エミール・ロラン(父)
・楽天性と率直さがロランの一族の中でも際立った人物。
・自分の望まない境遇に直面し続けたが、それらを楽天的に受容。
→妻の意向で息子のために安定した地方公証人の地位を棄ててパリに移住、など。
・異なる思想の持主も包み込む懐の深さの持主
→思想的に対立する息子や、敵国であるドイツ人も受容。(エミールは愛国主義者)
(2)エドム・クロー(母方の祖父)
・著書「家庭史」やロランへの手紙の文章の素晴らしさはロランに大きな影響を与える。
・生涯を通じて向学心・知的好奇心を保ち続け、生活環境の変化も克服。
→仕事引退後、クラムシーに移り自分の学会設立。パリ移住後も大学等で学問を継続。
病気で外出不可になって以後も、15年間、精神的みずみずしさを保つ。
●「コラ・ブルニョン的」とは対照的な一族の人々●
(1)ボニアール(父方の曽祖父(祖母の父))
・・・コラ・ブルニョン的人生受容の人物ではなく、行動の人物
・政治にも恋愛にも情熱的な人物。フランス革命にも参加。プレーヴ市長なども務め、生涯「軍事独裁制」と対立する政治姿勢を保ち続ける。
・学問にも情熱を注ぎ、生涯を通して科学と自由な宗教精神を追求
(2)マリー・ロラン(母)
・・・コラ・ブルニョン的楽天性とは対照的な、内省的・厭世的人物
・娘マドレーヌの死後、息子ロマン・ロランに過剰ともいえる期待・愛情を注ぐ。
→息子のために安定した地方での生活を棄ててパリに移住、など。
・ロランとの関係は時代毎、テーマ毎変化し、親密ではあるが独立したかたちに進む。
→カトリック信仰に関する姿勢については息子と決別するも戦時中の息子への社会的非難に対しては毅然として息子を支持する、など。
(以上)
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小尾俊人先生の新刊「昨日と明日の間」(幻戯書房)紹介 (2009.11.21) 黒柳
ロマンロラン研究所理事の小尾俊人先生の新刊が発売されましたので紹介します。これまで小尾先生が発表してきた文章をまとめたものになっています。
ロラン関係の文章ばかりでなく、丸山眞男、萩原延壽、バーリン、フランクル、エッカーマン、ゲーテ、・・・、など、幅広いテーマがとりあげられています。
そして一つ一つの文章において実際の交流や体験にもとづく深い考察がなされていて、非常に興味深い書物となっています。
<目次と各章概要>
1 機縁の人びと
丸山眞男、野田良之、萩原延壽、宇佐美英治、高杉一郎、藤田省三などの各氏との交流について紹介されている。
とくに丸山眞男氏との深い交流、萩原延壽氏とのバーリン(東京読書会でも小尾先生が言及)を通した交流が興味深い。
2 著者の書斎、
瀧口修造、片山敏彦、西田長壽、山辺健太郎、井村恒郎、石川淳、生松敬三、野口秀夫などの各氏との思い出について記されている。瀧口修造氏の文部大臣選奨辞退のエピソード、片山敏彦氏が占領軍兵士に対したときのエピソードなど、とりあげられた人物達のひととなりが伝わってくる。
3 戦争と非暴力について
「夜と霧」「ゲバラ日記」「戦争と自由」などのみすず書房で手掛けた書籍を通して、戦争、暴力などに対抗する精神について述べられている。
4 都市と書物と文明
英国、フランス、韓国など、小尾先生自身が訪れそして自身の眼でみた各国の出版界の風景についての紹介と考察が記されている。
5 本と人
山路愛山、田口卯吉についての考察、ユニテに収録されているロマン・ロランについての論文、そして非常に興味深いエッカーマンの「ゲーテとの対話」についての論文、など、さまざまな「本と人」に関する文章が収められている。
(以上)
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第279回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
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『第279回読書会レジュメ「内面の旅路」3(「Ⅱ.三つの閃光」)』
『ロマンロランをめぐる人々-中村星湖』
『ロマンロランをめぐる人々-加藤周一先生の新刊紹介-』
『ロマンロランをめぐる人々-高橋哲哉先生の著書紹介-』
発表者 黒柳大造さん
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第279回読書会レジュメ 「内面の旅路」3(「Ⅱ.三つの閃光」)(2009.9.26) 黒柳
本章では青年期にロランがその思索を深めるステップとなった主要な3つの契機について述べられている。「内面の旅路」前半部分における最も重要な章となっていると考えられる。
<ロランが示す2つの生>
ロランは人間が生きる「生」を2つに区分した上で、その精神・思想である「普遍的な生」を「第二の生」に属するもの/「第二の生」の延長にあるもと位置づけている。そして、その観点から自らの思想的成長の足跡(「第一の生」から「第二の生」への人生における比重の移行)を記している。
○「第一の生」について(P297)
先祖から承け継いだいろいろな構成要素の結合が一定の空間と時間との中で私に着せている人物としての生
=「皮相的(物質的)一時的(有限的)」な生
=人間の実社会における生、一個体としての生。その個人で完結。
○第二の生について(P297)
あらゆる生の息吹であり実質そのものであるところの、顔も名も場所もない《実在》の生
=「持続的(無限的)で深い」生
=★「第二の生」はロランの普遍的な精神・思想(普遍的な生)へつながってゆく。
<3つの閃光>
ロランはその思想的な成長段階として、次の3つのステップを経てきたことを記している。ロランはそれらを「3つの閃光」と表現している。本章ではロランの思想の最終的な到達点は主眼とされていない。
ロランは自分自身が最終的に到達した思想のみでなく、その思想的到達点に至るまでの自己の思索の変遷/精神的成長の過程を記すことにより、自己の精神を立体的に表現しようとしたのではないかと考える。
(第一の閃光)フェルネーの見晴らし台
(第二の閃光)スピノザの燃える言葉
(第三の閃光)トルストイ的な閃光
(1)「(第一の閃光)フェルネーの見晴らし台」について
当時16歳のロランが物理的に見たものはフランス国境地帯の田園風景。しかしロランの精神はここに(それまでは普遍的ものとして疑っていなかった)「国家」というものの限界を見たのではないかと考える。
ヴォルテールが「ガンディード」などで示す個人の精神の尊重(個人の人生の「国家」に比しての優越、「国家」の虚構性)(*1)、ルソーの示す単なる政治機構でしかない「国家」(国家は単なる政治機構でしかなく、世界にはそれ以外/それ以上の概念が存在している。)(*2)、などの思想/その思想の萌芽をロランはここで見つけたのではないかと考える。(*3)
なお、ロランの具体的なルソー観及びヴォルテール観についてはロラン全集第19巻所収の「ジャン=ジャック・ルソー」で参照できる。ロランはルソーとヴォルテールの両者、とくにルソーを重要視し、旧い社会を壊し新しい共和国/革命を導いた役割を評価している。これは表現を変えると、新しい社会に起因する存在である「国家」の限界にロランは気付いていたことを示すことであると受け取ることができるのではないかと考える。そしてこの「限界」は上記の「第一の閃光」に通じるところがあるのではないかと考える。
*1:「ヴォルテールが私の心に伝えたものは何だったのだろうか?・・・その後三十年経って第一次世界大戦中に初めて私は自由な笑いの魔神(ヴォルテール)に、自分の『万神廟』の中に座を与えた。・・・」(P300)
*2:「・・・浪漫主義の調子はみじんもない。これはルソー以前の大きな古典的風景である。」(P300)
*3:「・・・私のみちびきである見えない運命の手が、フランス国境へ私が行って私の視野が自分の国を超えるのを待ち受けて、そこで私の眼かくしを取り外してくれたのだということの意義なのである。」(P301)
(2)(第二の閃光)スピノザの燃える言葉
ロランは16歳から18歳までの学生時代にスピノザの思想に傾倒した。ロランは後にこのスピノザの思想を「卒業」している(*1)もののスピノザの思想自体を否定しているわけではなく、ロラン自身の思想形成過程におけるその重要性と意義は認めている。(*2)
ロランにおいて、スピノザの思想は、エコール・ノルマルの講義で扱われていたデカルト以前の「抽象的・普遍的」思考を主とする古典的/閉鎖的学問・思想からの突破口であると位置づけられた(P305)。
なお、ここにおけるロランのスピノザ受容は実在論の観点からの受容であり(*3)、そしてロランのいう実在論とは「抽象的概念、普遍的概念を用いた論理的考察ではなく物質的にリアルな事物や現象のつながり、関連性を論理的に説明、明確化する考察」であると述べられている(具体的にはP305~P308参照)。この辺りにも、後年のロランの思想への萌芽を読み取ることができるように思われる。
ロランは当時のロラン自身のスピノザ受容が必ずしも的確な理解に基づくものではなかったことを本文中で認めているものの、スピノザにより自分の中に自分の創造活動のためのプラットフォームを得ることができたと述べている(*2)。そしてこのスピノザの思想及びプラットフォームの上に、シェークスピアやワーグナー(ドイツや北欧文化(神話))、トルストイなどの思想、影響を迎えることにより後年の創作につなげていった(*4)。とくにロランは、キリスト教思想から独立した個人の精神性に立脚する点を強調しており、この点はロランが生涯を通して追求した「精神の独立」などの思想につながっていると考えられる。
なお、ロランのエコール・ノルマル時代の精神遍歴についてはロラン全集第26巻所収の「ユルムの僧院」で参照できる。また当時のスピノザへの傾倒/受けとめかたの詳細については、「ユルムの僧院」とともにロラン全集第19巻所収「真であるがゆえに私は信じる」で参照できる。とくに後者では「存在」「実体」等の概念に対する若々しい思索が述べられている。
*1:「私の思想は今では師ブノウ(スピノザ)の厳格な合理主義からは脱しており・・・」(P303)
*2:「(ロラン自身の若い時代のスピノザ理解について)この思想ははなはだ私自身のものであり・・・少なくとも一つの確乎たるプラットフォームを―待つためのプラットフォームを与えてくれた。」(P310)
*3:「・・・私の心を奪ったスピノザは、確かに幾何学的秩序の巨匠としての彼・・・実在論者(レアリスト)としての彼であった。・・・」(P305)
*4:「・・・古典的オランダのデカルト的ユダヤ人(スピノザ)を作り上げた教養とは非常に違う精神的素材に元来私は養われた・・・アムステルダムのレンズ磨き(スピノザ)は、私の二心についていくらか微笑しながら、私の仕打ちを過度に否認することはあるまいと私は思う。」」(P309)
(3)(第三の閃光)トルストイ的な閃光
エコール・ノルマル入学の少し前のトンネルでの体験、そしてその数年後に読んだトルストイの「戦争と平和」の一場面をきっかけとして、ロランは「第三の啓示」を受ける(*1)。後者の場面とは大富豪のロシア貴族・ピエールがフランス軍に捕らえられて搬送される途中で笑いだす場面である。ここでロランは、ピエールがロシア社会と切り離された「ピエール個人の精神」の存在に気がついたことを発見したのではないかと考える。ここでピエールが気づいた「ピエール個人の精神」とは本レジュメに記す「第二の生」に該当する。
トルストイとロランの思想は一見、共通性が少ないように受け取られがちであるが、実際はその根底において深くつながっており不可分のものであるとロランは述べている(*2)。しかしながら、その作品の表現手法についてのみ着目するのであれば、ゴーリキー、イプセンなどの他の文学者のほうがロランの立場に近いことは否定できず、ロラン自身も学生時代、「第3の閃光」を経験するまでは、トルストイの作品に重要性を認めることはできなかった。(*3)
本書においてロランは、トルストイは意志の在り方が天性の在り方と無意識的に大きく相違しているため上記のような「誤解」が生じ、ロラン自身のトルストイ受容が困難だったと述べている。これは、トルストイの偉大な文学性、道徳性、等の要素が、かえってロランにトルストイの本質を理解させる/気付かせるのを妨げていたという意味であると考えることができる。
なお、エコール・ノルマル時代のロランのトルストイへの姿勢はロラン全集第26巻所収の「ユルムの僧院」で参照できる。ロランは学生時代、トルストイを文学作品として非常に高く評価、重要視している。また、トルストイに限ることなくドストエフスキー、ワーグナー、フランクなどの多方面の芸術にも取り組んでいるとともに、(「第一の閃光」「第二の閃光」や後年のロランの思想にも通じるところがあるが、)国家の枠にとらわれない文化、精神の受容を目指している姿/ロランの後年の思想の萌芽を読み取ることができる。
*1:「・・・さてその後一年ほどして『戦争と平和』を初めてむさぼり読んだときに、ピエールのあの発見(悟り)の箇所を読んで私は心が震えた。・・・ピエールは夜の大空を見つめた。《これらすべては僕のものだ!》と彼は考えた。―《これらすべては僕のうちにある。これらすべてが僕だ!・・・》・・・」(P314)
*2:「どんな人間の中にも二人の人間が生きている。・・・トルストイの書いたものを私がまだ1行も読まなかった前に、私自身のいくつものトルストイの根と、大地の肉体の中で絡み合っていた・・・」(P312-313)
*3:「・・・トルストイが私に及ぼした影響については一般によく理解されていない。美的にははなはだ強く、道徳的にはかなり強く、知性的には皆無である。・・・」(P311)
《参考》
ロランとトルストイ、ゴーリキーの関係については、宮本正清先生の論文「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」(人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章)でも取り上げられているので参考にすることを推奨する。宮本先生は本レジュメとは異なるアプローチをなさっている。
◇◇第276回読書会補助資料1(黒柳作成)からの抜粋引用◇◇
(3)「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」
(人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章)
ロマン・ロランとトルストイおよびゴルキーの関係について、そのそれぞれの意味、特徴に関する考察がなされている。
ロランとトルストイとの関係について、宮本先生は、両者が生きた環境(共和国フランスの中産階級と帝政ロシアの貴族階級)に相違があるものの、両者はともに共通点として「清教徒的な正義感」や両者の生涯の基調をなす「道義心(モラル)」を持っていることを指摘し、さらにそれらが両者の芸術的本質であると述べている。
これに対して、ロランとゴルキーの関係については、革命後のロシアに対する社会的意識の共通性が重要であると指摘し、トルストイとの関係と比較してゴルキーとロランとの関係は「はるかに現代的であり、より多くの政治的要素を含んでいる。」「この二人の交わりを通じて、私たちはゴルキーとロランの人間と芸術を知るのみでなく、現在および将来の社会における芸術の性格、そのあり方について、いろいろ重要なポイントをとらえることができる。」と述べている。
(以上)
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読書会補助資料1(2009.9.26) 黒柳
ロマンロランをめぐる人々 ―中村星湖―
「少年行」などの作品で知られる作家・文学者であり、フランスにロランを訪ねた経験を持つ中村星湖とロランとの関係を紹介します。
1.中村星湖とは?
1884年(明17)~1974年(昭49)。作家・文学者。山梨県の農家出身。早稲田大学進学後、「早稲田文学」を中心に作品を発表。小説に加えてフランス文学やロシア文学、日本文学の評論などにも取り組む。後に農民文芸会、山梨日日新聞などでも文章を発表し郷土文化の発展にも活動範囲を広げる。1928年(昭3)にはフランスに留学しオルガ山荘にロランを訪ねている。また、フローベルの翻訳などの業績も有。
主な作品に小説「少年行」、同「女のなか」、エッセイ集「文化は郷土より」など。現在、星湖の故郷である山梨県の山梨県立文学館が星湖に関する研究を進めており、同館の年次報告「資料と研究」で研究成果が報告されている(継続中)。
2.中村星湖を読むには
中村星湖の作品は現時点ではいずれも品切れ。図書館や古書店などで探す必要がある。
主な書籍名は次の通り。
「精選中村星湖集」(早稲田大学出版部)
・・・代表作「少年行」などが収録されていて中村星湖を読みたい人にはお勧め。
「明治文学全集 〈72〉 水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司小剣集 水野葉舟」(筑摩書房)・・・収録作品不明
「残雪抄 ― 中村星湖/まさじ和歌集」(文遊社)
( 紀伊国屋書店HPによる検索結果(キーワード「中村星湖」)。2009.9.25現在。上記はいずれも品切れ)
3.中村星湖のロマンロラン観とオルガ山荘への訪問
中村星湖はロランを非常に高く評価。エッセイ集「文化は郷土より」所収の「新民芸の先駆、ロオランとギヨオマン」において星湖は、
「私はかれ(=ロラン)を以て、ヨーロッパ現代における新しい民間文芸の先駆者の一人とみて差し支えない・・・」
「私は西洋に参りましても、別段、あちらの有名な文学者や思想家に逢おうとはかんがえていなかったのでありますが、ロマン・ロオランだけには逢ってみたい・・・」
と記している。また、他にも多くの文章でロランについて触れている。
ロラン訪問当時、星湖はロランの作品(「ジャン・クリストフ」「民衆演劇論」「ミレー」など)を「革命」の観点を主眼に受け取り、ロランを「『革命』思想の先駆者」と認識していたと推定される。そのためオルガ山荘にロランを訪問した際も星湖が提示した話題はプロレタリア文学についてであった。
なお、星湖の文章(「オルガ山荘とロラン日記」(「農民文学」第11号:昭和32年12月))やロランの日記(ロラン全集第36巻P511)によると、星湖のオルガ山荘におけるロランとの会見は成功とは言い難い状況であったらしい。星湖の文章とロランの日記との食い違いも考慮すると、両者のスタンスがかみ合っていなかったのではないかと推定される。(「オルガ山荘とロラン日記」によるとロランは星湖の話題に対して激しい怒りを示した。)
<参考資料>
・ロランの日記(ロラン全集第36巻P511)
・「オルガ山荘とロラン日記」(中村星湖・著「農民文学」第11号:昭和32年12月)
・「新民芸の先駆、ロオランとギヨオマン」(中村星湖・著:「精選中村星湖集」所収)
※黒柳が全文を入手できたのは上記の各資料のみであるが、山梨県立文学館の年次報告「資料と研究」では、現在整理中の星湖の文章のタイトルにロランに関する記述がなされていると推定ものが多数あり、今後、新しい資料が発見される可能性有。ただし、実際のロランとの会見が不首尾であったことは明確であることから、あくまで星湖としてのロラン観に限られると推定される。
4.備考
「精選中村星湖集」(早稲田大学出版部)は京都市立図書館などで貸出可能。
山梨県立文学館の年次報告「資料と研究」については、京都近辺では京都府立図書館が所蔵。貸出不可であるが館内での閲覧、コピーは可能。
(以上)
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読書会補助資料2(2009.9.26) 黒柳
―加藤周一先生の新刊紹介―
ロマンロラン研究所との関係が深く、昨年、惜しまれつつ亡くなった加藤周一先生の著書が、最近、新たに多数発売されていますので紹介いたします。
(1)「加藤周一自選集」(全10巻)(岩波書店)(9月発売)
加藤先生の主要論文を年代別に収録。加藤先生が亡くなる前から進んでいた企画のため、論文選定作業には加藤先生自身も参加している。2009年9月より毎月1巻のペースで発売予定。
第1巻(1937-1954)(発売開始済)の収録論文は次の通り(岩波書店HPより引用)。
映画評『新しき土』(最初の公表著作)/正月/トリスタンとイズーとマルク王の一幕(戯曲)/天皇制を論ず/ポール・ヴァレリー/象徴主義的風土/定家『拾遺愚草』の象徴主義/木下杢太郎の方法/日本の庭/外と洋学/ジャン・ポール・サルトル/演劇のルネサンス/途絶えざる歌/現代オペラの問題 ほか。
※第2巻以降については岩波書店HPを確認のこと。
(2)「言葉と戦車を見すえて─加藤周一が考えつづけてきたこと」(筑摩書房)(8月発売)
加藤先生の政治面での主要論文を収録。太平洋戦争終戦~「プラハの春」~現代まで。ちくま学芸文庫の1冊。
収録論文は次の通り。(筑摩書房HP参照)
天皇制を論ず/逃避的文学を去れ/知識人の任務/日本文化の雑種性/雑種的日本文化の課題/天皇制と日本人の意識/西欧の知識人と日本の知識人/戦争と知識人/日本の新聞/安保条約と知識人/言葉と戦車/ベトナム 戦争と平和/わが思索わが風土/危機の言語学的解決について/軍国主義反対再び/遠くて近きもの・地獄/教科書検閲の病理/『加藤道夫全集1』読後/「過去の克服」覚書/再説九条/戦後五十年決議/原爆五十年/「心ならずも」心理について/サラエヴォと南京/また9条/60年前の夜
(3)「語りおくこと いくつか」(7月発売)
「加藤周一 戦後を語る」 (6月発売)(いずれも、かもがわ出版)
加藤先生の講演集。前者は文化関係のテーマが中心、後者は戦争・平和・歴史関係のテーマが中心。各テーマとも非常に興味深い内容。
(4)「居酒屋の加藤周一 1・2合本」(かもがわ出版)(6月発売)
加藤先生と交流のあった京都の市民サークル「白沙会」における対話の記録。テーマはその時々の朝日新聞記事から取り上げているため政治~社会~文化~スポーツまで多種多様。過去に分冊で出版されていたものを今回合本・再刊行した。
(5)「加藤周一が書いた加藤周一 」(平凡社)(9月発売)
加藤先生が自身の著書に記したあとがき(一部まえがき)を合計102冊分集めたもの。各著書の本文で表現しきれなかった微妙なニュアンスや背景が伝わってきて興味深い内容となっている。
(6)現代思想・7月増刊「加藤周一」(青土社)(7月発売)
加藤先生ご自身の文章(竹内好論)や有識者の「加藤周一論」が集められている。
雑誌「現代思想」はバックナンバーが入手できる哲学の専門雑誌。
(7)「ある晴れた日に」(岩波書店)(10月発売予定)
加藤先生としては珍しい小説。戦争末期~終戦の時代を舞台にした内容。岩波現代文庫で発売予定。
(1)~(6)まで黒柳が入手できた範囲を紹介しました。黒柳もまだ全ては読み終えていないので、皆様の興味に応じて書店で内容を確認願います。(7)は今後の発売。また、加藤周一著作集や加藤周一セレクション(いずれも平凡社)などをお持ちの方は、内容が重複する可能性がありますのでご注意下さい。
(以上)
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読書会補助資料3(2009.9.26) 黒柳
―高橋哲哉先生の著書紹介―
10月に開催されるロマンロラン研究所主宰講演会の講師・高橋哲哉先生の著書を紹介します。高橋先生の講演への理解を深める一助になれば幸いです。
黒柳としては高橋先生の研究テーマは大きく以下の4分野に区分されると考えます。各分野について高橋先生の主な著書を紹介します。
(テーマ1)国際関係について
「人間の安全保障」(東京大学出版会)
・・・高橋先生は編者として本書を取りまとめ。高橋先生の最新刊。
(テーマ2)フランス哲学について
「デリダ―脱構築」(講談社)
「逆光のロゴス ― 現代哲学のコンテクスト」(未来社)
「他の岬 ― ヨ-ロッパと民主主義のコンテクスト」(デリダ著:みすず書房)※
「有限責任会社」(デリダ著:法政大学出版局)※
※:高橋先生が翻訳
・・・高橋先生はフランス哲学、とくにデリダの研究者として有名。
(テーマ3)日本の戦後思想について
「国家と犠牲」(日本放送出版協会)
「靖国問題」(筑摩書房)
「戦後責任論」(講談社)
・・・日本の戦争責任・歴史問題がテーマ
(テーマ4)欧米戦後思想について
「記憶のエチカ ― 戦争・哲学・アウシュヴィッツ」(岩波書店)
「『ショアー』の衝撃」(鵜飼哲との共著:未来社)
・・・欧米の戦争責任・歴史問題がテーマ
(注意)
各テーマと著書の対応は便宜的な区分です。著書によっては複数のテーマにまたがっているものも有。
上記以外にも、対談や時評、論考を含め、著書多数。
講演会ではどの分野に関するお話がうかがえるのか、その講演内容が期待されます。
(以上)
第278回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
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『第278回読書会レジュメ「内面の旅路」2(「Ⅰ.落し穴」)』
『ロマンロランをめぐる人々-アインシュタイン-』
『ロマンロランをめぐる人々-今江祥智先生-』
『ロマンロランをめぐる人々-新村猛先生-』
発表者 黒柳大造さん
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1.「内面の旅路」第278回読書会レジュメ「内面の旅路」2(「Ⅰ.落し穴」)(2009.7.25)
ロラン幼年期の自己の確立/精神的独立の過程(の萌芽)である家族の束縛(陥落)からの離脱、カトリック信仰の束縛(陥落)からの離脱の記録が記されている。
この2つの「離脱」は本質的に同一のもので、両者は相似形/同心円の関係となっていると考えられる。また、教会を「家族」の次段階の精神的共同体と位置づければ、ロラン幼年期の自己の確立/精神的独立の進行/発展過程ともいうことができると考えられる。
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「家族の束縛(陥落)」 →(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼
「カトリック信仰の束縛(陥落)」→(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼
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(1)「家族の束縛(陥落)」とそこからの離脱について
家族の束縛(陥落)
→子供の死を恐れるロランの母の眼差しに始まるロラン幼年期の精神的抑圧。
・圧迫されている自分の胸:病弱なロラン自身
・不祥な死の環:幼くして亡くなった妹から連想される死への恐怖
・旧い家:閉鎖的な幼年期の住居に象徴される閉塞感
↓
(離脱)
↓
死の直前に妹の見せた人間的な「憐みの心」(コンパッション)
=独立した人間の精神(の間での意志の交流)
(2)「カトリック信仰の束縛(陥落)」とそこからの離脱について
カトリック信仰の束縛(陥落)
→ロランは伝統的カトリック信仰のことを「教会の神」「サンマルタンの鎹で緊めつけられている尖弓形の『囚われ』の中にうずくまっている『主』」(ともにP293)と表現している。
↓
(離脱)
↓
「自由無礎な神」「私の求め聴いた神は・・・鐘の歌の中にいた。そして大気の中にいた。」
=(歌(音楽)に感動し、大気を吸って、日々、力強く生きている人々が持っている)独立した人間の精神
○「ハムレット」の引用(P294)について
ロランは本引用によって、自分自身を精神的に束縛しているものを「牢獄」と位置づけ、自分自身の思索を深めることによってその精神的束縛(牢獄)から脱することを「おお神よ。私は胡桃の殻の中にとじこもって、そして自分自身を、無限の一空間の王としてみなす」と表現しているのではないかと考える。
↓
自分自身の思索を深めることをもって自分自身の精神の独立を確立する姿勢はこのままロランの生き方の姿勢のつながっているのではないか?
また、本章において「家族の束縛(陥落)」「カトリック信仰の束縛(陥落)」から離脱した方法もまたこの姿勢と共通すると考えられる。
○「鏡の中のグラチアの姿が見えてくる場面」に見られるこの照覚の反響的な思い出について(P296)
「・・・彼が見たただ一つのもの―それは、彼女の同情深い微笑の神々しい善良さだった。」(全集第3巻P448-449)
↓
ロランがここで見たものは
・小学校時代に出会い、数週間後に亡くなった少女
・目の前に現れたグラチア
2人は、ロランにとって「独立した精神」の持ち主という点で共通している。そして、ロランの現状を人間的な「憐みの心」(コンパッション)で受けとめている。
これは幼くして亡くなった妹とも本質的な点において共通しており、そのため「照覚の反響的な思い出」と表現されているのではないか?
(以上)
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読書会補助資料1(2009.7.25)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―アインシュタイン―
高名な物理学者で平和活動でも有名なアインシュタインとロランとの関係を紹介します。本資料は読書会のテキストである「内面の旅路」の「序曲(プレリュード)」においてアインシュタインの考えが引用されている(*1)ことより、ロランとアインシュタインの関係を紹介して「内面の旅路」への理解をサポートするためのものです。
(*1)「われわれの宇宙の存在は、アインシュタインの考えによれば、自分自身の尾を咬む永遠性の蛇みたいなものである。そしてもしも各人がこの宇宙存在に、好意と視線とを与えることをのぞむなら、前方へ放たれる光線が[各人の]背後から[その人の]内的視力へ戻ってくることをわれわれは知っているではないか?・・・」(P279)
1.アインシュタインとは?
アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)はドイツ生まれのユダヤ人の物理学者。1916年に一般相対性理論を完成。1921年、ノーベル物理学賞受賞。第二次世界大戦前は欧州の各大学で研究をするが、1933年、ナチスの台頭により米国へ亡命。以降はプリンストン高等研究所を中心に活動。1939年には米国による原爆開発を当時の米国大統領ルーズベルトに促す「ルーズベルト大統領への書簡」に署名。第二次世界大戦前から平和活動でも有名(詳しくは2項参照)。第二次世界大戦後は世界政府創設運動にも取り組む。
2.アインシュタインの平和思想・平和活動
アインシュタインの平和思想は第一次世界大戦後に兵役拒否論からスタート。ロマン・ロランの平和思想にも共鳴。しかし、ナチスドイツの台頭により、第二次世界大戦前には武力容認に方向転換(国際警察軍の創設、ナチスによる原爆開発を防ぐための米国による原爆開発の支持、など)した。しかし、第二次世界大戦後は再び原水爆禁止、世界連邦政府創設支持、兵役拒否などを支持・主張している。
○アインシュタインの平和活動・年譜(主なもの)
1914.8 親しいオランダの物理学者パウル・エーレンフィストへの書簡の中で自分の平和思想を記述。これがアインシュタインの平和思想に関する最初の記録。
1914.10「ニコライ‐アインシュタイン宣言」(「ヨーロッパ人への宣言」)に署名。これは、直前に表明されたドイツ政府による「文明世界への宣言」に対抗するもの。
1919.6 ロマン・ロラン起草の「精神の独立宣言」に署名。
1921.1 チェコのマサリク大統領をノーベル平和賞に推薦。
1928後半 兵役拒否の主張を固める。
1930.12 2パーセント演説。(2%の者が兵役拒否をすれば影響力大であるという内容。)米国で大きな反響を呼ぶ。(2%バッジ流行)
1933.7 兵役拒否論を変更。(軍隊廃止よりも超国家的軍隊組織設立を支持。ナチ圧政下ではヨーロッパ文明保護のため兵役に就くことを支持。)
(1939.8 「ルーズベルト大統領への書簡」に署名)
1945.11 世界政府創設の実際案発表。
1945.12ノーベル記念晩餐会演説「戦争に勝ちましたが、平和は得られません。」
1946.5 原子科学者緊急委員会議長。以降、原水爆反対運動に献身。
1947.8 世界連邦政府世界運動国際会議へ挨拶を送る。同会議で計画された「世界憲法制定議会」ならびに憲章を支持。
1954.10-11 ハマーショルド国連事務総長と「我々の文明にとって崩壊に代わる唯一の代替物(諸国の主権を尊重する世界組織)」に関する書簡を交換。
1955.4 「ラッセル‐アインシュタイン宣言」に署名。核兵器廃絶を世界各国に訴える。
(アインシュタインはこの1週間後に死去)
3.ロランとアインシュタインの関係
ロランとアインシュタインは、アインシュタインが兵役拒否思想を主張していた1920年代末までは良好であったが、1930年代前半より齟齬が生じ始め、アインシュタインが武力による平和維持を肯定する方向転換をした1933年には決定的な意見の相違が明確になる。
以降、アインシュタインは米国で「ルーズベルト大統領への書簡」等の武力による平和維持を肯定の活動を活発にするのに対してロランの社会的な発言は第一次世界大戦時と比較すると(ソ連関係を除けば)減少し執筆活動も芸術関係が中心となる。その後、ロランの死去により両者は和解するには至らなかった。
1915.3アインシュタインはそれ以前に面識の無いロランに手紙を送りロランの平和思想への共鳴を伝える。(ア平書1:P15)
1916.9アインシュタインはスイスにロランを訪問。(ア平書1:P17)
1917.8ロランとアインシュタインは書簡を交わす。ニコライ著「戦争の生物学」などが話題となる。(ア平書1: P23)
1919.6 アインシュタインはロラン起草の「精神の独立宣言」に署名。(ア平書1:P34)
1922.4 ロランとアインシュタインは書簡を交わす。この中でロランは新しい自由主義雑誌「クラルテ」をアインシュタインに説明。
(後日、アインシュタインはバルビュスに依頼により「クラルテ」に寄稿。)(ア平書1:P56)
1926.1ロラン60歳を記念する「友達の本」にアインシュタイン寄稿 (ア平書1:P89)
1930.9 ロランはアインシュタインにタゴール70歳の記念にささげる「ゴールドン。ブック」への寄稿を依頼。(アインシュタインはこれを受諾)(ア平書1:P123)
1930.10 ロランとアインシュタインは「若者の徴兵と軍事訓練反対の宣言」に署名。
1931.2 ロランアインシュタインの2パーセント兵役拒否論を肯定するも実効性には疑問を表明(英国・世界戦争反対抵抗者連盟ブラウン名誉理事長への書簡)(ア平書1:P131)
1932.5 統合平和委員会ジュネーブ会議記者会見において、ロランはアインシュタインが科学の領域以外では実際的でないことを批判。(ア平書1:P190 )
1933.9 ロランはアインシュタインの武力肯定への方向転換を日記の中で批判。(ア平書2:P282)
1936.4 アインシュタインは知人への手紙の中でロランの「革命によって平和を」に対して「その本をかなり読んでみましたが、事柄の本質上、親近感を見出しえませんでした。・・・」との評価を与える。(ア平書2:P323)
(注)ア平書(No)・・・アインシュタイン平和書簡(巻数)
<参考文献>
「アインシュタイン平和書簡(全3巻)」(ネーサン,ノーデン編:みすず書房1974~77年)
「アインシュタイン選集(第3巻)」(共立出版 1972年)
「湯川秀樹とアインシュタイン」(田中正・著:岩波書店2008年)
(以上)
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読書会補助資料2(2009.7.25)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―今江祥智先生―
ロマン・ロラン研究所とも関係の深い児童文学者・今江祥智先生について紹介します。今江先生の著作「私の彼氏」には本日の読書会テキスト「内面の旅路」が登場します。
1.今江祥智先生とは?
1932年生まれ。児童文学作家。前・ロマン・ロラン研究所理事。
<主な著書>
「ぼんぼん(全1冊)」(理論社)
・・・「ぼんぼん」「兄貴」「おれたちのおふくろ」「牧歌」を合本
「優しさごっこ」(理論社・新潮社)
「冬の光」(理論社・新潮社)
「雲を笑い飛ばして」(理論社)
「私の彼氏」(新潮社)
「山の向こうは青い海だった」(理論社・角川書店)
「ひげがあろうがなかろうが」(解放出版社)
「幸福の擁護」(みすず書房)
「今江祥智の本(全36巻)」「同・童話館(全17巻)」(ともに理論社)
他多数
2.ロランとのかかわり
同志社大学在学中にロマン・ロラン研究会を設立。顧問にはフランス文学者・新村猛氏、会員には後の福音館書店社長の松居直先生などがいた。児童文学作家となってからは、自身の作品中でロランを扱ったり、またロランの作品から引用をする機会多数。
ロマン・ロラン研究所・前理事長の尾埜善司先生との交遊(同志社大学ロラン展がきかっけ)も深い。
3.ロランについての考え方
ロランに関する研究論文はないが、児童文学作品中にたびたびロランを引用している。また、宮本正清先生、新村猛先生や松居直先生、尾埜善司先生、・・・等とのロランを通じての出会いについても紹介する文章多数。
なお、今江先生の作品にはロランのみでなく、ルイ・アラゴン等のフランス作家やイブ・モンタン等のフランス歌手などフランス芸術全般、またケストナー等のフランス以外の国々の作家、などの影響が見られる。
○ロマン・ロランに触れられている今江先生の主な著書
(1)小説「私の彼氏」
主要登場人物の一人である沢柳が少年時代の初恋相手・有子を回想する際に、ロランの「内面の旅路」が登場する。沢柳にとって有子の登場する回想は沢柳にとっての「内面の旅路」と位置づけられるのではないかと考えられる。
(2)児童文学作品「雲を笑いとばして」
本作品の第2章の章名が「オマン・オロン」。ここで「オマン・オロン」とは「ロマン・ロラン」のこと。本作品の主要登場人物「古山先生」は今江先生のロランに関する「先生」である新村猛先生がモデル。ロランの名前をタイトルとした本章において、今江先生はロランに関する自身の経験を登場人物達に再体験させている。
(3)評論集「幸福の擁護」
今江氏は自分自身のロラン史を本書の中の各所で紹介している。ロランを通して出会った人々(新村猛先生、松居直先生など)、ロラン研究会、ロラン作品の思い出など。
(4)エッセイ集「私の寄港地」
(125「タイムトンネル」,126 「タイムトンネル、また」,136「手紙と部屋と」,・・・等)
学生時代における宮本正清先生、片山敏彦先生、蛯原徳夫先生、新村先生、松居先生、尾埜先生、鈴木寿太郎氏(今江氏の名古屋時代の知人)、・・・、等の交流のエピソードが紹介されている。また、同志社大学ロラン研究会の読書会(at進々堂)、同・ロラン展、宮本正清先生宅から盗難されたロラン原書発見事件などのエピソードも興味深い。
<上記以外の今江先生とロランに関する資料>
(1)ユニテNo.21における今江先生の寄稿「いま、ロマン・ロランを語る」
(2)ユニテNo.21における尾埜先生の寄稿「いま、ロマン・ロランを語る」
(3)同志社時報第68号「ああ、ロマン・ロラン‐私の学生時代‐」(今江祥智)
(4)「新村猛著作集」(三一書房)第1巻 解説(今江祥智)
(以上)
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読書会補助資料3(2009.7.25)
ロマン・ロランをめぐる人々 ―新村猛先生―
フランス文学者、ロラン研究家で、今江祥智先生のロマン・ロランについての「先生」にあたる新村猛先生について紹介します。
1.新村猛先生とは?
1905年~1992年。フランス文学者。名古屋大学、同志社大学教授、橘女子大学学長。
戦前は雑誌「世界文化」などに参加。戦後はロランをはじめとするフランス文学研究に取り組み著書多数。文学研究関係から時事問題まで幅広く発言・執筆。その著書や論説、記事は「新村猛著作集(全3巻)」(三一書房)にまとめられている。
戦前の不当逮捕・拘束などの経験から、新村先生の思索は政治思想/理論と実際の政策/政治活動を混同せず、明確に考察対象・範囲を区分・整理した論理性・客観性が特徴。
父親は国文学者の新村出氏。その関係で、新村猛先生自身も「広辞苑」の編集にかかわっている。またロランに関して今江祥智先生の「先生」にあたり、今江氏の作品「雲を笑い飛ばして」の登場人物「古山先生」は新村先生をモデルとしている。
<主な著書>
「フランス文学研究序説」(1954年 ミネルヴァ書房)
「ロマン・ロラン」(1958年 岩波新書)
「国際ファシズム文化運動フランス編」(1948年 三一書房)
「新村猛著作集(全3巻)」(1995年 三一書房)・・・各巻にロランに関する論文・翻訳・記事を収録 他多数
2.ロランとのかかわり
京都大学文学部在学中の1932年、
・アムステルダムで開催された世界反戦・反ファシズム大会へのロランの参加。
(ロランは同会議の共同議長をつとめた。)
・雑誌「ヨーロッパ」のゲーテ特集号にロランが寄稿したロラン論
の2つをきっかけにロランに傾倒。また1934年のレーニンの「トルストイ論」に対するロランの評釈にも影響される。以降、著書や新聞・雑誌記への寄稿などでロランについて幅広く紹介。みすず書房「ロマン・ロラン全集」翻訳(「闘争の15年」)にも参加。今江祥智先生が同志社大学在学中に設立したロマン・ロラン研究会を顧問として指導。
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3.ロランについての考え方
新村先生のロラン論は「ロランの同時代の政治/社会情勢の中での位置づけ」を押さえた内容になっていることがその特徴として挙げられる。そのため(ロランの作品やロランという一人の作家からの視点に閉じない)広い視野からのロラン像が浮かび上がってくる。具体的には、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてのフランスやヨーロッパの政治/社会情勢(ナチスの台頭、フランスの人民政府、スペイン動乱等)、当時活躍した作家達(アラゴンやバルビュス、ゲーノ、ジッド等)の言動(文化擁護国際作家会議、国際ペンクラブ大会、等)や編集に参加した言論誌(「ヨーロッパ」「新フランス評論」「コミューヌ」等)の動向などが詳しく述べられている。
また個々のロラン作品への考察にもその視点は反映されており、とくに「魅せられたる魂」のに対する分析・評価は非常に重要であると考える。((3)参照)
(1)ロランと同時代のフランスの作家・思想家の位置づけは次の通り。
●個人主義的傾向
○個人主義・・・ジッドなど
○無政府主義・・・マルローなど
○カトリック主義・・・モーリアック、マリタンなど
●共産主義的傾向
バルビュス、アラゴン、ブロック、エリュアールなど
なお、個人主義的傾向の人々、共産主義的傾向の人々ともに共通してヒューマニスティックであり反ファシズムの立場であった。(ただし々の政治的事件に対する見解は様々)
また、上記の人々とは別に、人間性に対するゆるぎない信頼‐西欧デモクラシーの根底に存する理性信仰に支えられた本質的ヒューマニストとして、アルコス、デュアメル、ロマンなどがいて、それらはゲエノ、カスーに引き継がれる。
そしてこれら本質的ヒューマニストの作家達の上にあたかもそびえたっていたのがロランである。(新村猛著作集第3巻P62)
(2)ロランがその創刊に参画し、アルコスとバザルジェット→ゲエノ→カスー→アブラアムと編集長が引き継がれていった雑誌「ヨーロッパ」の変遷を追うことによって、ロランの思想が次世代の思想家・言論人に引き継がれていく歴史を、その思想・主張の普遍性/変化の両面とともに把握、解説している。(新村猛著作集第2巻P285)
(3)フランス知識層において「魅せられたる魂」の評価が「ジャン・クリストフ」と比較して低くなっているのは適切ではない。
「魅せられたる魂」を深く理解し、正しく評価するには「魅せられたる魂」と「ジャン・クリストフ」の両方をあわせて読む必要がある。(新村猛著作集第2巻P214)
→ロランの二つの面が「ジャン・クリストフ」では主役のクリストフと脇役のオリヴィエによって、「魅せられたる魂」では主役のアンネットと脇役のマルク、アーシャなどによって表現されている。
(A)登場人物達が体現する「政治」「民族」
●ジャン・クリストフ
クリストフ・・・ ドイツを象徴
オリヴィエ・・・ フランスを象徴
↓↑
●魅せられたる魂
アンネットとマルク・・・ 西欧諸国を象徴
アーシャ ・・・ソビエト・ロシアを象徴
(B)登場人物達が体現する「人間像」
●ジャン・クリストフ
クリストフ・・・ロランが<こうあるべきだと考えた>人間の形象
オリヴィエ・・・<現にこうある>自分(=ロラン)という人間の形象
↓↑
●魅せられたる魂
アンネット・・・<こうあるべきだと考えた>女性の形象、いわばロランの理想の女性像
マルク ・・・社会と個人の対立という問題で悩むロランの個人主義者の側面
4.その他
ロランを通してベートーヴェンの音楽に傾倒。その様子は今江先生の著作「雲を笑い飛ばして」の古山先生の音楽好きにも反映されている。(「読書会補助資料2(2009.7.25) ロマン・ロランをめぐる人々―今江祥智先生―」参照)
(以上)
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第277回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
************************************ 『第277回読書会レジュメ「内面の旅路」1』『ロマンロランをめぐる人々-高杉一郎氏-』『ロマンロランをめぐる人々-山本実彦氏-』発表者 黒柳大造さん ************************************ 第277回読書会レジュメ「内面の旅路」1(2009.6.27) |
1.「内面の旅路」概要 2.2つの序章について(「序曲(プレリュード)」と「旅へのいざない」) 3.「Ⅰ.落し穴」について 4.「Ⅱ.三つの閃光」について ※Ⅲ~Ⅸ、付録の各章は次回以降の読書会にて発表予定 1.「内面の旅路」概要 「内面の旅路」はロランの自伝的精神史。1924年~1926年にかけて執筆された。(P281参照) 1942年(ロランの死の2年前)にⅠ~Ⅴが発表された後、ロラン没後の1945年 にⅥ、Ⅶが、1946年にⅨが発表され、そして1959年にⅧを加えた現在の構成となった。 Ⅰ.落し穴 Ⅱ.三つの閃光 Ⅲ.家系の樹 Ⅳ.射る者 Ⅴ.女友たち Ⅵ.敷居(閾) Ⅶ.Tの王国 Ⅷ.ラ・サンチュール(性) Ⅸ.周航 全体構成は大きく3部構成であると考えられる。 第1部:Ⅰ~Ⅲ ロラン自身の幼年時代、及び自身のルーツとなる家族とその一族について記述されている。ロランはⅠにおいて幼年期における自己の独立した精神(の萌芽)の発見、カトリック宗教からの精神的独立の経験を記し、それを踏まえてⅡにおいてロラン個人の精神の成長の軌跡を段階を追って記している。Ⅲはロランの存在の背景となるその家族とその一族の精神的歴史。 第2部:Ⅳ,Ⅴ ロラン青年期の思想的成長段階について記されている。とくにⅤにおいては、ローマ時代に直接的交流があり、また後年も継続してロランの重要な精神的支えであったマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとの交流が記されている。哲学、文学、絵画、音楽、などの学問・芸術分野のテーマ、用語をもちいた文章が多く、学問・芸術分野を介した自己の成長を信頼/肯定していたロランの若い理想が伝わってくるように感じられる。 ※Ⅴは未完であり、マイゼンブーク夫人とともにロランの重要な精神的での成長のパートナー/保護者であったクリュッピ夫人との交流の記述が欠けたままである。 第3部:Ⅵ~Ⅸ 第1部、第2部が過去のロランであるならば、第3部は「内面の旅路」執筆当時の(つまりはロランが到達した)思想について記されている。とくに、ロラン自身の内面方向に深く踏み込んだⅥ、そしてロラン自身とともに同時代の同志的人物達との思想的交流(つまりは自分から外向きの方向)にスコープを広げているⅨは本書で最も重要な論文であると考える。宮本正清先生の論文の言葉を借りるならば、Ⅵ、Ⅸのエッセンスは次のように考えられる。 Ⅵのエッセンス: 「ロランがみとめた神は人間自身のうちに、人間的であると同時に神的な(結局それは一つのものにすぎないが)火を燃え立たせることである。それはすなわち積極的な、創造的な愛である。・・・」(人文研究(1962年)大阪市大, 「ロマン・ ロラン 思想と芸術」第1章) またⅦのエッセンス: 「思想の領域においても、信仰の領域においても、めいめいの個性の存在理由とその自由を尊重し、受け容れつつ、それらの個性の間にユニテと調和(アルモニー)とを求めようとする精神」(人文研究(1963年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第2章) 2.2つの序章について(「序曲(プレリュード)」と「旅へのいざない」) 「内面の旅路」には執筆時期の異なる2つの序章がある。その執筆時の社会背景が対照的であることから、内容的にも、また文体も異なっているが、いずれも「内面の旅路」の入り口として重要な観点を読者に提供している。 2-1「序曲(プレリュード)」について 「序曲(プレリュード)」は第二次世界大戦におけるドイツ占領下のフランス・ヴェズレーで執筆された。「序曲(プレリュード)において「内面の旅路」の執筆動機、背景はロランのこれまでの一貫した思想、(国境を越えた)独立した精神の調和であることが示されている。(*1)そして、ロラン自身の理想とかけ離れた現実に対して、これまでの自分の思索・思想の積み重ねを書物として著わすことにより、その克服・抵抗を試みようとしている。そしてその現実とは「フランスがドイツに占領されたという戦争の勝ち負けという現実」ではなく「フランスとドイツが戦争をしているという現実」「国家間で戦争が起こっているという現実」である。(*2) とくに人類の精神・知恵の蓄積への信頼を表現するためにアンシュタインを引用したロランの文章(*3)は、後年のドイツ大統領・ヴァイツゼッカーによる「荒野の40年」(・・・過去に目を閉じる者は現在に対して盲目になる・・・)に通じる内容であると感じられる。 1924年に執筆した序文「旅へのいざない」と比較して文章も短く理念的な内容も少ないことから、その社会状況の影響が大きく、ロランの精神的な緊張が伝わってくる。 *1:「・・・二重の祖国、フランスと世界との新しい運命に役立とうとこころざして。」(P280) *2:「自由を大いにうばわれているいまの時を・・・蓄積されているわれわれの精神的資源を―どんな戦勝者もわれわれからうばいとることのできないそれらを―われわれの思い出を思い出を寄せ集めてしらべてみることにささげる。」(P279-P280) *3:「・・・見ることのできる者にとっては、充実している各瞬間が、過去と、そして未来への精髄を含んでいるのである。・・・前方へ放たれる光線が(各人の)背後から(その人の)内的視力へ戻ってくることをわれわれは知っているではないか?それゆえ、背後に(内面に)向きながら、その光線と対面しよう。」(P279) 2-2.「旅へのいざない」について 「序曲(プレリュード)」と同じく、「内面の旅路」の序文。ただし、こちらは1924年(第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期)の執筆であり、平和な社会背景を反映して理念的、思索的、ときには感傷的な表現が散見される。ただし、そのため内面的には深い内容を持ち、「内面の旅路」の執筆を通して自分自身の思想を客観的に評価し、再構築していく心構えが示されている。(*1) これより、「旅へのいざない」は(戦時下に執筆されて対外的な観点で堅固な)「序曲(プレリュード)」と比較して内面的に堅固な序文であるということができる。 *1:「・・・新しいおのおのの時間がわれわれに啓いて見せる思いがけない相貌をまともに見ること、そして自分が前もって作り上げていた形象がたとえどんなに親愛に思われようとそれがまやかしの形象だと判ればそれを棄てることを、私は決してためらいはしない。」(P284) 3.「Ⅰ.落し穴」について ロラン幼年期の自己の確立/精神的独立の過程(の萌芽)である家族の束縛(陥落)からの離脱、カトリック信仰の束縛(陥落)からの離脱が記されている。この2つの「離脱」は本質的に同一のもので、両者は相似形/同心円の関係となっていると考えられる。 本章において幼年期のロランは自分自身を束縛していた「家族の束縛(陥落)」「カトリック信仰の束縛(陥落)」から、「独立した人間の精神」への信頼を自身の中で確立することにより離脱する。 「家族の束縛(陥落)」 →(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼 「カトリック信仰の束縛(陥落)」→(離脱)→「独立した人間の精神」への信頼 (1)「家族の束縛(陥落)」とそこからの離脱について 家族の束縛(陥落) →次のような要因による精神的抑圧 ・病弱なロラン自身や幼くして亡くなった妹から連想される死への恐怖 ・子供の死を恐れる家族(とくにロランの母)の心理的重圧 ・閉鎖的な幼年期の住居に起因する閉塞感 ↓ (離脱) ↓ 死の直前に妹の見せた人間的な「憐みの心」(コンパッション) =独立した人間の精神(の間での意志の交流) (2)「カトリック信仰の束縛(陥落)」とそこからの離脱について カトリック信仰の束縛(陥落) →ロランは伝統的カトリック信仰のことを「教会の神」「サンマルタンの鎹で緊めつけられている尖弓形の『囚われ』の中にうずくまっている『主』」(ともにP293)と表現している。 ↓ (離脱) ↓ 「自由無礎な神」「私の求め聴いた神は・・・鐘の歌の中にいた。そして大気の中にいた。」 =(歌(音楽)に感動し、大気を吸って、日々、力強く生きている人々が持っている)独立した人間の精神 4.「三つの閃光」について ロランは人間が生きる「生」を2つに区分した上で、その精神・思想である「普遍的な生」を「第二の生」に属するもの/「第二の生」の延長にあるもと位置づけている。そして、その観点から自らの思想的成長の足跡(「第一の生」から「第二の生」への人生における比重の移行)を記している。 <ロランが示す2つの生> ○「第一の生」について(P297) 先祖から承け継いだいろいろな構成要素の結合が一定の空間と時間との中で私に着せている人物としての生 =「皮相的(物質的)一時的(有限的)」な生 =人間の実社会における生、一個体としての生。その個人で完結。 ○第二の生について(P297) あらゆる生の息吹であり実質そのものであるところの、顔も名も場所もない《実在》の生 =「持続的(無限的)で深い」生 =★「第二の生」はロランの普遍的な精神・思想(普遍的な生)へつながってゆく。 ロランはその思想的な成長段階として、次の3つのステップを経てきたことを記している。ロランはそれらを「3つの閃光」と表現している。本章ではロランの思想の最終的な到達点は主眼とされていない。ロランは自分自身が最終的に到達した思想のみでなく、その思想的到達点に至るまでの自己の思索の変遷/精神的成長の過程を記すことにより、自己の精神を立体的に表現しようとしたのではないかと考える。 (第一の閃光)フェルネーの見晴らし台 (第二の閃光)スピノザの燃える言葉 (第三の閃光)トルストイ的な閃光 (1)「(第一の閃光)フェルネーの見晴らし台」について 当時16歳のロランが物理的に見たものはフランス国境地帯の田園風景。しかしロランの精神はここに(それまでは普遍的ものとして疑っていなかった)「国家」というものの限界を見たのではないかと考える。 例えるならヴォルテールが「ガンディード」などで示す個人の精神の尊重(個人の人生の「国家」に比しての優越、「国家」の虚構性)(*1)、ルソーの示す単なる政治機構でしかない「国家」(国家は単なる政治機構でしかなく、世界にはそれ以外/それ以上の概念が存在している。)(*2)、などの思想/その思想の萌芽をロランはここで見つけたのではないかと考える。(*3) *1:「ヴォルテールが私の心に伝えたものは何だったのだろうか?・・・その後三十年経って第一次世界大戦中に初めて私は自由な笑いの魔神(ヴォルテール) *2:「・・・浪漫主義の調子はみじんもない。これはルソー以前の大きな古典的風景である。」(P300) *3:「・・・私のみちびきである見えない運命の手が、フランス国境へ私が行って私の視野が自分の国を超えるのを待ち受けて、そこで私の眼かくしを取り外してくれたのだということの意義なのである。」(P301) (2)(第二の閃光)スピノザの燃える言葉 ロラン16歳から18歳までの学生時代に傾倒した思想である。なおロランは後にこのスピノザの思想を「卒業」している(*1)が、ロラン自身の思想形成過程におけるその重要性と意義は認めている。(*2) ロランにおいて、スピノザの合理主義はデカルトなどの「抽象的・普遍的」思考を主とする古典的/閉鎖的学問・思想からの突破口であると受けとることができたのではないかと考える。そして、ここにおけるロランのスピノザ受容は実在論の観点で受容である。(*3)ここでロランのいう実在論とは「抽象的概念、普遍的概念を用いた論理的考察ではなく物質的にリアルな事物や現象のつながり、関連性を論理的に説明、明確化する考察」であると考える(具体的にはP305~P308参照).。ロランはその若さから「実在論」的スピノザを「抽象的・普遍的」な古典的な思考方法で受容していたのではないか? なお、ロランは当時のロラン自身のスピノザ受容を必ずしも的確な理解に基づくものではなかったことを本文中で認めている。 ※1:「私の思想は今では師ブノウ(スピノザ)の厳格な合理主義からは脱しており・・・」(P303) ※2:「(ロラン自身の若い時代のスピノザ理解について)この思想ははなはだ私自身のものであり・・・少なくとも一つの確乎たるプラットフォームを―待つためのプラットフォームを与えてくれた。」(P310) ※3:「・・・私の心を奪ったスピノザは、確かに幾何学的秩序の巨匠としての彼・・・実在論者(レアリスト)としての彼であった。・・・」(P305) (3)(第三の閃光)トルストイ的な閃光 エコール・ノルマル入学の少し前の時期、ロランはトルストイの「戦争と平和」の一場面から「第三の啓示」を受ける。(*1)その場面とは大富豪のロシア貴族・ピエールがフランス軍に捕らえられて搬送される途中で笑いだす場面である。ここでロランは、ピエールがロシア社会と切り離されたピエール個人の精神の存在に気がついたことを発見したのではないかと考える。ここでピエールが気がついた「ピエール個人の精神」とは本レジュメに記す「第二の生」に該当する。 なお、ロランのトルストイ観については「若い時代」とは異なり(また、一部は当時も共通していたが)、トルストイに「知性面での影響」は求めていない。あくまで「道徳面での影響」である。(*2)これは、トルストイの作品における民族精神(歴史、民族文化などの影響)の強さに起因するものである。ロランは決してトルストイの作品における「知性」の存在を否定してはいないが、その対極にある民族精神の影響の強さのため、「知性」要素が制約を受けてしまっていることを指摘している。そしてその知性をゴーリキーに求めている。ここで「知性」は「第二の生」に、「民族的要素」は「第一の生」に該当する。(*3) *1:「・・・さてその後一年ほどして『戦争と平和』を初めてむさぼり読んだときに、ピエールのあの発見(悟り)の箇所を読んで私は心が震えた。・・・ピエールは夜の大空を見つめた。《これらすべては僕のものだ!》と彼は考えた。―《これらすべては僕のうちにある。これらすべてが僕だ!・・・》・・・」(P314) *2:「・・・トルストイが私に及ぼした影響については一般によく理解されていない。美的にははなはだ強く、道徳的にはかなり強く、知性的には皆無である。・・・」(P311) *3:「・・・トルストイのおどろくべき天才力と、その天才力のたくさんの根・・・我々をもっともじかに触れさせる人はゴーリキーである。・・・」 なお、ロランとトルストイ、ゴーリキーの関係については、宮本正清先生の論文「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」(人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章)でも触れられているので参考にすることを推奨する。 (以上) 読書会補助資料1 ロマン・ロランをめぐる人々 ―高杉一郎― 「極光のかげに」をはじめとするシベリア抑留をテーマとした作品で有名な著述家・文学者である高杉一郎氏のロマン・ロラン観を紹介します。 1.高杉一郎氏とは? 1908年~2008年。著述家、翻訳家、文学者(静岡大学、和光大学教授)。元・改造社「文芸」編集長。戦前は改造社の雑誌「文芸」編集長として活躍するも、軍部からにらまれて出征。終戦後はシベリヤ抑留生活を送る。シベリヤ抑留から帰還後、「極光のかげに」をはじめとするシベリア抑留をテーマとした記録作品の執筆、英米露文学研究者として小説の翻訳や作家の評伝執筆、エスペラント運動の研究など幅広い分野で活躍。 ロランとの直接的な交流はなかったが、高杉氏はその著書でたびたびロランについて言及している。また、ロマンロラン研究所と関係の深い片山敏彦先生、加藤周一先生、小尾俊人先生、村上光彦先生などとも交流が深かった。 <主な著書> 「極光のかげに」(1950年 目黒書店 1991年 岩波書店) 「スターリン体験」(1990年 岩波書店:2008年「私のスターリン体験」と改題して再販) 「シベリアに眠る日本人」(1992年岩波書店) 「征きて還りし兵の記録」(1996年 岩波書店) 「大地の娘‐アグネス・スメドレーの生涯‐」(1988年 岩波書店) 「夜明け前の歌‐盲目詩人エロシェンコの生涯‐」(1982年 岩波書店) 「中国の緑の星‐長谷川テル反戦の生涯‐」(1980年 朝日新聞社) 「ザメンホフの家族たち‐あるエスぺランティストの精神史‐」(1981年田畑書店)他 <主な翻訳> 「ギリシャ神話」(グレーヴス著・紀伊国屋書店) 「エロシェンコ作品集」「同・全集」(みすず書房) 「中国の歌声」「中国は抵抗する」(スメドレー著・みすず書房/筑摩書房)(同・岩波書店) 「権力と戦う良心」(ツヴァイク著・みすず書房) 「ある革命家の生涯」「ロシア文学の理想と現実」(クロポトキン著・岩波書店) その他、英米露の児童文学などの翻訳多数 <関連書籍> 「若き日の高杉一郎」(太田哲夫・著 未来社:「未来」2008年12月号に追加論文有) 「高杉一郎・小川五郎 追想」(追悼文集:かもがわ出版から2009年7月発売予定)他 2.高杉一郎氏のロマンロラン観 (1)「内面の旅路」の「女友だち」の章で記されているロマン・ロランとマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとの交流について「私のいちばん好きな文章」(「ザメンホフの家族たち」P248)と述べ、有名なエッケルマンによる「ゲーテとの対話」などと同列に評価している。(同・P243) また上記を含めて、「ロマンロランの『道づれたち』」「かたくなな家庭教師とやさしい女友だち」などの各文章(いずれも「ザメンホフの家族たち」所収)で高杉氏はロランの他の知識人(ガンジー、ルナン、シュピッテラー、レーニンなど)との知的交流(対話、書簡等による直接的交流、論文発表による他者の思想への肯定的評価/批判的考察など)を重要視しており、高次の知的交流は高杉氏のロランへの関心の中心であったと考えられる。 (2)ロランとソ連・スターリン主義との関係について、高杉氏はロランはスターリンにとって「物の数ではなかった」、スターリンに「かつがれた」等の見解を示している。これはロランとヘッセのソ連訪問への評価(「スターリン体験」第9章)やエスペラント運動とスターリンのかかわり(「エスペラントの擁護」(「ザメンホフの家族たち」所収))などで「圧倒的なスターリンの政治力の前になすすべがなかったロラン」を指摘している。 ソ連・スターリン主義の圧倒的な力を直接体験した高杉氏ならではの厳しい評価であるととともに、(第275回読書会補助資料3で取り上げた)ジャーナリスト松尾邦之助氏の見解とも共通するなど、現実の政治の視点からのロラン評価としての特徴をもっていると考えられる。 (3)高杉氏は、自身のテーマの一つでもあるエスペラント活動への理解者としてロランを評価している。(「中国の緑の星」P25、「エスペラントの擁護」(「ザメンホフの家族たち」所収)他) (4)高杉氏はその著書の中でロランが第二次世界大戦前夜に執筆した子供向け絵本「ヴァルミイ」を取り上げ、その執筆経緯/思想的背景、ロランを取り巻く社会的背景などに言及するなどロランの執筆活動を適確に把握し、その意味を深く考察していた。(「ザメンホフの家族たち」P244) (5)高杉氏はロランの見識を高く評価し、魯迅の「阿Q正伝」などはロランの書評などをきっかけに研究した。また、改造社時代は社長・山本実彦に対し訪欧時のロランとの会見を勧めたり(「若き日の高杉一郎」P94)、高杉氏自身の文章へたびたびロランの文章を引用するなど、ロランを重要視している。 3.備考 高杉氏自身のロランを取り上げた文章、及び「高杉一郎・小川五郎 追想」(かもがわ出版)における加藤周一先生、小尾俊人先生、村上光彦先生の寄稿を別紙で紹介します。 (以上) 読書会補助資料2 ロマンロランをめぐる人々 ―山本実彦― 改造社・社長として有名な出版人・山本実彦氏によるロマン・ロラン会見記を紹介します。 時代的/社会的な背景や制約、著者の関心/視野の方向性や専門性、・・・等の諸要因で、現在の我々が読むと意外であると感じたり誤解を生じてしまいそうな箇所もありますが、同時代の日本知識人の一視点からのロラン観として受け止め、(各自で注意しながら)ロラン理解のための参考にしてください。 1.山本実彦氏とは? 改造社社長として活躍した出版人。ロランに対して自社の出版物へ複数回寄稿を依頼しロランの文章の掲載を実現。また、高杉一郎氏などの勧めもあり、1940年の訪欧時には高田博厚氏とともにヴェズレーでロランと会見。その記録は「蘇聯瞥見」(改造社1941年)等に収録。上記旅行も含め世界各地を訪問して各地の政治家、知識人との会見。会見内容や時事情勢をレポートした著書多数。 なお、「出版人としての山本実彦」については小尾俊人先生の著書「出版と社会」(幻戯書房)に詳述されているので本資料では省略。また「出版人の遺文」シリーズ(栗田書店)にも山本氏自身の文章がシリーズ中の1冊としてまとめられている。 2.山本実彦氏のロマン・ロランとの会見 (1)日時: 1940年4月(約3時間半) (2)場所: ヴェズレーのロラン宅 (3)同席者: マリー・ロラン夫人、高田博厚氏 (4)時代背景: 第二次世界大戦は始っていたが、まだフランスは降伏していない状況。 (5)記録: 「蘇聯瞥見」(改造社1941年)、「欧州の現状と独英の将来」(改造社1940年) (6)会見内容要旨: 山本氏によるロマン・ロラン会見記のポイントを記します。 とくにガンジーに対する(部分的に)批判的見解、当時の独裁者3人(ヒットラー, スターリン, ムッソリーニ)に対する批評、などは興味深いところです。 (1)ロランの文学的見解 <ロシア文学について> ・ロシアで現在(1940年当時)もっとも重要な作家はゴーリキーである。ゴーリキーの人格はその作品より偉大である(ロランの発言の意味するところは山本氏にも不明)。また、ゴーリキーはソ連の多くの若手文学者を(文学的に)指導しているとともに、スターリンの政治的圧力に抵抗している。 ・ゴーリキー亡きあとロシア文学を担っていく作家としてはトルストイ、ショーロホフなどが挙げられるが、ゴーリキーと比べると力不足であることは否めない。 <英文学について> ・バーナード・ショウは独特の皮肉が面白いが建設的でない ・H・G・ウェルズは博学で創造的、そして非常に立派な意見を述べるが、その意見がしばしば変わってしまう。 <今後注目すべき重要な作家> ・世界文学の観点からはトーマス・マンが挙げられる。 ・フランス文学の観点であればジユール・ロマン、ジョルジュ・デュアメルが挙げられる。 <タゴールについて> ・タゴールの詩が最も意味を持つのはインドの中世語で書かれた時である。現在(当時)の英訳は適切でない。 (2)ロランの政治的見解 <第二次世界大戦について> ・我々はあらゆる平和的手段を用いて本大戦勃発を防ごうとしたができなかった。 ・本大戦には目的がある。ヒトラーは戦争という手段を取らなくてもドイツ第三帝国を作ることができたと思われる。 <ガンジーについて> ・ガンジーのは時勢の進捗とともに進歩する力を持っている。しかし世界全体を見渡した時、ガンジーの視野が及ばない点がある。(それ以上の具体的指摘はなし) <当時の独裁者3人(ヒットラー, スターリン, ムッソリーニ)について> ・ヒットラーは3人の中では一番天才的で、かつ、前途の見通しのきくこといん関しては神秘的でさえある。ただし、その天才は均衡がとれていないし、しっかりした基礎に欠ける。 ・ムッソリーニは聡明な男だが独創的なところはない。ムッソリーニはあちらこちらから意見を集めてきてそれを巧みな抑揚や身振りで表現する。ムッソリーニの全体主義体制自体、ソビエト体制の模倣である。 ・スターリンは謎の人物である。トロッキーはインテリで聡明だがスターリンは一筋縄ではいかない点でトロッキーより上である。スターリンは権力を手放さない。スターリンは冷たいところがある。・・・など。(途中でロラン夫人により話が遮られる) <戦後の政治体制について> ・小国では政治的影響力に限界があるヨーロッパも連邦制を採用すべきである。そのスタートとして英仏の連携が重要になる。 ・英国的帝国主義は崩壊する。英国の植民地は順次独立し、英国の政治、文化は英国本国にのみ残ることになるだろう。 ・フランス帝国主義も残念ながら植民地での圧政を実施した。しかしゴール主義の流れをくむフランスはドイツのような他民族排斥主義は発生していない。 (以上) |
第276回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会>
第276回 ロマン・ロラン セミナー<読書会・例会> ************************************ 報告内容 『ヘンデル』 発表者 清原章夫さん 『ロマンロランをめぐる人々-宮本正清先生-』 『ロマンロランをめぐる人々-山口三夫先生-』 『ロマンロランをめぐる人々-松尾邦之助氏-』 『ロマンロランに関する書籍・記事の紹介(海外編)』 発表者 黒柳大造さん ************************************ 『ヘンデル』 1.ヘンデル Georg Friedrich Handel (1685~1759) J.S.バッハに並ぶバロック音楽最大の作曲家。ハレ大学で法律を学んだのち、ハンブルグに出てカイザー(1674~1739)後継者として歌劇の作曲で成功。1706年から’10年までイタリアで活躍したのち帰国。ハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長になったが、この年にロンドンに出て歌劇を上演、’12年ふたたびロンドンに赴いたまま、’27年にはイギリス市民権を得た。この間おもに歌劇の分野で作品を発表し、イタリア人ボノンチーニ(1642~78)競い合ったが、’32年より英語の歌詞によるオラトリオ(宗教的な性格をもった長い歌詞による楽曲)の作曲に新生面を見出し、「メサイア」を含む数々の傑作を生み出した。 このほか、バロック様式の協奏曲、ソナタ等もあるが、バッハが教会音楽家であったのと対照的に、劇場または公開演奏会用の作品を中心としており、ドラマティックで色彩的な要素が強く、特に合唱曲にすぐれている。(三省堂:クラシック音楽作品名辞典) 2.ロランのヘンデル研究 (1)『ヘンデル』「このささやかな書物はヘンデルの生涯や作風のごく簡単なスケッチにすぎない。」(同書序) ベートーヴェン以外では、一冊の著述をあてたのはヘンデルのみ。 (2)ヘンデル協会のプログラムに使用された5篇の論説。 (3)国際音楽協会の機関誌に寄稿した評論1篇。 3.ロランにとってのヘンデル ロランは、ベートーヴェンについでヘンデルの音楽に深く傾倒した。 (1)「わたしにとって、いわばわたしの実体をなす芸術―音楽においてさえ、わたしは巨匠たちのなかでも、ベートーヴェンやヘンデルのように、その音楽が行動を鼓吹するような人々に傾倒する。」(『闘争の一五年』序説) (2)「自分の種族の涙っぽい信心ぶりの癖を無視して、あの巨大なアンセム(イギリス国教会礼拝式で歌われる合唱曲)や英雄詩的なオラトリオを書き、諸国民衆のために、諸国民衆に通じる歌を作ったヘンデルの作品をクリストフは、読み直してみた。」(『ジャン・クリストフ』「女友達」) (3)「又ベートーヴェンがヘンデルと共に、とくに理想的民衆、今日のそれよりもいっそう完成せる民衆、まさに有るべき民衆の歌手であったとすれば―」(『ベートーヴェンへの感謝』) 4.ヘンデルの作品をCDで聴く (1)「見よ、勇者は帰る」オラトリオ『ユーダス・マカベウス』より (2)コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)第2番ヘ長調 op.6-2 (別紙資料参照) (3)ハープ協奏曲 変ロ長調 op.4-6(リュートのための協奏曲) (4)「ハレルヤ・コーラス」オラトリオ『メサイア』より ロマンロランをめぐる人々 ―宮本正清先生1― 発表者 黒柳大造さん ロマンロラン研究所の創設者で代表的なロランの日本への紹介者である宮本正清先生の論文を紹介します。論文多数であるため本報告では一般誌(著書、大阪市大紀要論文、雑誌掲載論文)などに掲載されたものを中心に紹介し、ユニテ掲載論文などは、次回以降、段階的に紹介します。 1.宮本正清先生とは? 1898年~1982年。フランス文学者。詩人。ロマンロラン研究所理事長(創設者)。 立命館大学、大阪市立大学教授。京都精華大学学長。ロマンロランの作品の翻訳多数。 2.主な著書・翻訳 翻訳 ロマン・ロランの作品(ロマン・ロラン全集(みすず書房)、岩波文庫、など) 研究書「ロマン・ロラン 思想と芸術」(1958年 みすず書房) 詩集「生命の歌」(1949年 みすず書房) 詩集「焼き殺されたいとし子らへ」(1981年 みすず書房) 他多数 3.主な論文とその概要 宮本先生の主な論文とその概要を記します。いずれも重要な論文ですが、とくに(3)~(7)についてはロラン作品への理解を深める上で不可欠であると考えます。 (1)「ロマン・ロランのジャン・ジャック・ルーソォ論」(人文研究(1950年)大阪市大) 宮本先生は、ベートーヴェン、ミケランジェロ、トルストイ等のロランの一連の評伝は多くの読者にその優れた精神性を伝えたと高く評価している。そしてルソー論についてもそれらの一連の評伝と並び立つ内容であると述べている。(本論文は未完) (2)「ロマン・ロラン研究所とロマン・ロランの書簡の意義」 (人文研究(1952年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第6章) パリにあるロマン・ロラン研究所とそこに保管されているロランの資料(含:書簡)の紹介とその重要性が述べられている。マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(ロランのイタリア時代の文通相手)、ソフィア・ベルトリーニ(同)、ロランの母、及び妹(マドレーヌ女史)の重要性が述べられているのに加えて、その書簡相手としてツヴァイク、トルストイ、ラッセル、・・・等の多くの知識人の名前が挙げられている。 (3)「ロシアとロマンロラン -トルストイ・ゴルキーとの関係-」 (人文研究(1953年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第3章) ロマン・ロランとトルストイおよびゴルキーの関係について、そのそれぞれの意味、特徴に関する考察がなされている。 ロランとトルストイとの関係について、宮本先生は、両者が生きた環境(共和国フランスの中産階級と帝政ロシアの貴族階級)に相違があるものの、両者はともに共通点として「清教徒的な正義感」や両者の生涯の基調をなす「道義心(モラル)」を持っていることを指摘し、さらにそれらが両者の芸術的本質であると述べている。 これに対して、ロランとゴルキーの関係については、革命後のロシアに対する社会的意識の共通性が重要であるとを指摘し、トルストイとの関係と比較してゴルキーとロマンロランとの関係は「はるかに現代的であり、より多くの政治的要素を含んでいる。」「この二人の交わりを通じて、私たちはゴルキーとロランの人間と芸術を知るのみでなく、現在および将来の社会における芸術の性格、そのあり方について、いろいろ重要なポイントをとらえることができる。」と述べている。 (4)「ロマン・ロランにおける笑いⅠ -コラ・ブルニョンについて-」 (人文研究(1960年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第4章) ロランが生んだ2つの喜劇「コラ・ブルニョン」「リリュリ」の内、前者について考察がなされている。 「・・・芸術家においては、笑いも涙も、悲劇も喜劇も本質的にはもちろん、その表現の過程においても決して異なったものではないのである。」と「喜劇」の受け止め方の概要が述べられた後、「コラ・ブルニョン」の作品とその背景の説明がなされている。そしてロランが「コラ・ブルニョン」で表現したかったものとして、時間的、空間的、民族的、人種的な差別を越えた「人間的同情共感(サンパティ)」であることが述べられている。そして、さらにその「人間的同情共感(サンパティ)」をロランの人生に対照させている。 (5)「ロマン・ロランにおける笑いⅡ -リリュリについて-」 (人文研究(1961年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第5章) ロランが生んだ2つの喜劇「コラ・ブルニョン」「リリュリ」の内、後者について考察がなされている。 ここで宮本先生は「リリュリ」の笑いを「クレランボー」の苦悩と一体のものととらえており(「クレランボー」で描かれた社会的狂気に対するロランの苦悩は「リリュリ」においては痛烈な風刺の形式で表現されている)、そのロランの精神の生命力を高く評価している。 本文では上記のようなエッセンスとともに「リリュリ」の概要を述べながらその中に描かれたロランの視点が解説される。 (6)「ロマン・ロランの思想・芸術の根底としてのヒューマニズム-ロランの宗教思想-」 (人文研究(1962年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第1章) ロマンロランの思想、芸術の底流となるヒューマニズムの考え方を「内面の旅路」の「敷居」章を通して考察した論文。(7)の論文とセットでの考察となっている。 本論文では、ロランの少年期~成人期までの宗教的思想遍歴を説明した後、ロランが到達し、また、多くの作品を著わす際の基盤とした思想(宗教的思想)を次のように説明している。「ロランがみとめた神は人間自身のうちに、人間的であると同時に神的な(結局それは一つのものにすぎないが)火を燃え立たせることである。それはすなわち積極的な、創造的な愛である。・・・」 (7)「ロマン・ロランの精神的遺言 -周航について-」 (人文研究(1963年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第2章) ロマンロランの思想、芸術の底流となる考え方を「内面の旅路」の「周航」章を通して考察した論文。(6)の論文とセットでの考察となっている。 本論文でロランのヒューマニズム、ロランの宗教思想についての考察はさらに深められる。そのエッセンスを宮本先生は次のように記している。 「思想の領域においても、信仰の領域においても、めいめいの個性の存在理由とその自由を尊重し、受け容れつつ、それらの個性の間にユニテと調和(アルモニー)とを求めようとする精神」 そして、そのロランの思想は、当時のフランス社会にはあまりに斬新・進歩的過ぎて、誤解と反発を招いたこともまた記されている。 (8)「ロマン・ロランの未発表の戯曲『マントーヴァの包囲』」 (人文研究(1963年)大阪市大, 「ロマン・ロラン 思想と芸術」第7章) ロランの未発表の戯曲「マントーヴァの包囲」の紹介。本作品はロラン20歳代の作品であるが、後年のロランの思想(汎神論的な宗教思想。「周航」や「敷居」でも触れられている)につながる場面があることが指摘される。戯曲の概要が説明されたのち、宮本先生は本作品について「なによりも私の心を打つのは、この作品全体をつつむ詩であって、この点では、数多いロラン劇作中の白眉というべきであろう。」と述べている。 (9)「ロマン・ロランに関する断章」 (人文研究(1966年)大阪市大) エコール・ノルマル(フランス高等師範学校)在学時代、ローマ留学時代等、ロランの青年期の思想を「義務」「歴史感」「芸術思想」「愛」などの諸観点から考察して、それぞれに後年のロランの思想への萌芽となるポイントを指摘している。 (10)「ロマン・ロランの小説」(「高原」(岩波書店1949.9)) 「コラ・ブルニョン」「クレランボー」の2作品についてそれぞれ独立して紹介。「コラ・ブルニョン」については作品概要とは別に解題をまとまった段落として記載しているが、「クレランボ」については概要紹介と解題を兼ねた記述となっている。(解題となりうる箇所の引用により解題に代えている。) (11)「ロマン・ロランの民衆演劇論」(「世界」(岩波書店1950.4)) 演劇の持つ社会的意義を述べた上で、ロマン・ロランが民衆演劇に期待し、そしてその「民衆演劇論」に記した精神性について、「民衆演劇論」の解説とともに紹介している。 (12)「ロマン・ロラン研究ノートより」 (「ロマン・ロラン研究」第6巻(ロマンロラン協会1952.10)) ロマン・ロランとクルッピ夫妻との交流を紹介したもの。夫君のクルッピ氏はフランス外相も務めた政治家。クルッピ夫人はマルヴィダ、ソフィア、ベルトリエ達と並ぶ高いレベルの文通をロランと交わす。(本論文は未完(クルッピ氏とロランの議論紹介の途中で中断)) (13)「ロマン・ロラン(平和の文学者)」(「改造」(改造社1953.3)) 「平和」の視点からのロマン・ロランの紹介記事。 ロマン・ロランの平和思想を「ジャン・クリストフ」「クレランボー」などの小説、「リリュリ」などの戯曲、トルストイ等の評伝、「革命によって平和を」などの政治・社会論、などの一つ一つの作品と対照させながら紹介。 (以上) 書会補助資料2(2009.5.23) ロマンロランをめぐる人々 ―山口三夫先生1― 発表者 黒柳大造さん ロマンロランの研究家で、ロマンロラン研究所とも関係の深い山口三夫先生について紹介します。 1.山口三夫先生とは? 1928年~1997年。フランス文学者。多摩美術大学、静岡大学教授。 ロマン・ロランの翻訳多数(みすず書房 ロマンロラン全集)。ユニテへの寄稿多数。 ロマン・ロランの他、サン・テグジュペリ、ヴィクトル・ユゴー、アンドレ・マルローなどの研究・翻訳でも活躍。 社会活動として、アフリカ問題(反アパルトヘイト運動)などに取り組む。 <主な著書> 「歴史のなかのロマンロラン」(1964年 勁草書房) 「ロマンロランの生涯」(1967年 理論社) 「人間像 その市民的改革」(1970年 理論社) 「暴力と非暴力のあいだ―知識人・歴史現実・精神の戦い―」(1975年 蝸牛社) 「白い仮面、黄色い仮面―アフリカを見すえながら―」(1986年 すずさわ書店) 「ヨーロッパ近代との対話―戦争と平和を軸に<人間>をめぐって―」 (リーベル出版 1993年) 「ロマンロランとともに―平和と愛の泉へ―」(リーベル出版 1994年) 他多数 2.ロランとのかかわり <主な翻訳> ジャン・クリストフ(講談社) 愛と死のたわむれ(主婦の友社) ベートーヴェンの生涯(主婦の友社) 先駆者たち(みすず全集) 闘争の十五年(みすず全集) 精神の独立(みすず全集) 日記・書簡(みすず全集) など <主なロラン関係著作> 1項参照。 タイトルに「ロマンロラン」の名前がなくても、文中ではロランへの言及多数有 <ユニテへの寄稿> No.7「力に対する精神の闘い ― ロマン・ロランの≪政治≫原理」(1978) No.10「断 章 ―『魅せられたる魂』」(1979) No.12「<<ロラン体験>>の持続と展開」(1980) No.15「雑感 : <<ユニテ>>への歩み」(1982) 3.ロランについての考え方 山口先生のロランへのアプローチには、次のような特徴が挙げられる。 (1)「欧州社会を人文主義(ユマニズム)の時代まで遡り、その当時を起点として欧州史の進歩を現代までの延長した先にロマン・ロランの思想・仕事を位置付ける」という、非常に長い歴史スケールの中でロマン・ロランを考察している。これは同時代的な比較によるロランの客観化とは異なる、歴史時間軸方向の視点からのロランの客観化となっている。(注1) (2)ロマン・ロランの影響の限界が欧米およびその文化的影響範囲(例:日本など)であることを指摘し、とくにその地理的「影響範囲外」の地域に着目している。(注2) また、ロランとガンジーとの考え方の違い(ロランはガンジーの非暴力主義と対立するロシア革命を肯定的にとらえている部分がある)を指摘するなど、政治・社会思想面での「範囲」内外にも注目して、(1)と同様にロランへの客観的アプローチを試みている。(注3) (3)通常のロラン研究から一歩踏み込み、(ロランの「影響範囲外」である)アフリカなどの地域を山口先生自身の論考・活動の対象範囲として位置づけ、実際に行動している。(南アにおける反アパルトヘイト活動など) (4)若い世代への「ロマン・ロラン、及びそれにつながる精神・思想」の紹介に積極的であった。少年少女向けの「ロマン・ロランの生涯」、青年向けの「人間像 その市民的改革」を含む複数の書籍、などの執筆を通じ、その精神の紹介・普及に努めた。 (5)同時代の日本社会の社会的意識の欠落など、日本人自身に対して、ロランの精神にも通じる視点から分析するとともに厳しく批判している。ロラン関係者に関しては高村光太郎や尾崎喜八など、戦争前後の立場の豹変やその無反省にを厳しく指摘をしている。(注3) (注1)「ヨーロッパ近代との対話」Ⅱ章、Ⅲ章など (注2)「ヨーロッパ近代との対話」P53-59など。 (注3)「暴力と非暴力のあいだ」Ⅲ章など (注4)「白い仮面、黄色い仮面」(特に第2章、第3章)など (以上) 読書会補助資料3(2009.5.23) 黒柳 ロマンロランをめぐる人々 ―松尾邦之助1― 発表者 黒柳大造さん 倉田百三の戯曲「出家とその弟子」へロマン・ロランが序文を寄稿することの橋渡しをしたジャーナリスト・松尾邦之助を紹介します。 1.松尾邦之助とは? 1899年~1975年。ジャーナリスト(読売新聞副主筆)。1922年~1946年フランスに滞在。在仏中はロラン、ジッド等のフランス知識人、辻潤などの在仏日本知識人などとの交流が多かった。著書、翻訳多数。 著書の中で松尾は「近代個人主義」(精神が確立・独立した個人による民主主義社会)の重要性を強調するとともに日本での「近代個人主義」への理解の欠如(戦前の日本でみられた国家(集団)が個人を圧殺する日本的集団主義への反省が不充分であること)を批判。 <主な著書> 「巴里素描」(1934年 岡倉書房) 「戦後ルポルタージュ(再建のフランス)」(共著 1946年 鱒書房) 「フランス放浪記」(1947年 鱒書房) 「巴里物語」(1960年 論争社) 「近代個人主義とは何か」(1962年 東京書房 1984年 黒色戦線社) 「ド・ゴール」(1963年 七曜社) 「親鸞とサルトル」(1965年 実業之世界社) 「自然発生的抵抗の論理」(1969年 永田書房) ・・・ジッドとの対話の記録(「ジッド会見記」(1947年 岡倉書房)を増補改訂) 「風来の記」(1971年 読売新聞出版局) 他 多数 <主な翻訳> ○日本語→仏語 「枕草子」(清少納言)1929年 「恋の悲劇」(岡本綺堂)1930年 「出家とその弟子」(倉田百三)1932年 「太陽の季節」(石原慎太郎)1958年 ○仏語→日本語 「アンデアナ」(サンド)1948年 「日本という国」(デュアメル)1953年 「日本の文明」(デュアメル)1954年 「赤いスフィンクス」(リネル)1956年 「フランスとフランス人」(モロア)1957年 他 多数 <ロランとの関係> 松尾邦之助はロマン・ロランからの依頼で倉田百三作「出家とその弟子」の仏訳を実施。また、その出版に際しその序文執筆をロマン・ロランに依頼。松尾は「出家とその弟子」仏訳の関係でスイスでロランと面会(1929年)。その後、手紙のやり取りも有。 (ロランは独語雑誌で「出家とその弟子」を知り、一部、自分と妹で訳し始めたが、それをあきらめ松尾に依頼。) ロランは「出家とその弟子」の序文を執筆。現在、その邦訳は岩波文庫版「出家とその弟子」などに掲載され、現在でも読むことができる。また松尾がロランから受け取った手紙は戦時中焼失。ロラン全集第30巻の「日本人への手紙」にも掲載無(尾崎喜八への手紙の本文中に松尾の名前がでてくるのみ)。 <松尾邦之助のロラン観> (1)ロランと親鸞との思想はその底流で結ばれている。これは「信仰とは神と自分自身との対話であり、そこで確立した自我に立脚して社会と向き合う。」という宗教感が共通していることによる。ロランの思想はカトリシズムの精神・倫理から大きな影響を受けているが主体性をもった個人であり、決して(個人より神・宗教を上位におく)現代的な意味でのキリスト教徒、教会主義者ではない。また親鸞についても、(「南無阿弥陀仏」の念仏は対他的説法であり、)対自的には近代的自我精神(自己と向き合い、社会と闘争する精神)に生きていて、その点においてロランと共通している。 (2)ロランと親鸞は主観主義の観点を共有している。これはロマン・ロランと親鸞がともに「主体性を確立した個人は、つねに自分の思考を絶対的なものとし、いわゆる“客観的”といわれる一般的真理に騙されない」という考えをもってため。 松尾はスイスでロランにあった際、「『真・善・美』は主観的な価値判断か?それとも客観的な価値判断か?」というアインシュタインとタゴールの論争についてロランが「客観的であるといっても、究極において、ひとは、ただ『客観的だと思う』という主観的信仰の中にいるだけです」と語ったことを非常に重要視し、その言葉は親鸞の「親鸞一人がためなりけり」という言葉と通じるものととらえている。 (3)((1)(2)を包括し)ロランは「近代個人主義」の思想的流れの中に存在する。この流れの中にはサルトル、ジッド、スチルナア、リンネ、サルトル、キェルケゴール、親鸞なども存在し、それぞれに傾向は異なるものの、その根底には自らの主体性を確立、主観主義を信じる考えを共有している。そして「近代個人主義」となそのような「個人」が「調和」することで成り立つ社会を指している。 (4)ロランとジッドを比較すると、共通点も多いが、その相違点も多い。 いずれも、自分の良心に従って生き時の権力に激しい抵抗をやめなかった不屈の精神の持ち主であり、自己(自分の精神)を確立していて知識は第二義的なものにする賢者である。 しかし、相違点としては、ロランは「精神的闘士」でありトルストイ風のヒューマニズムを根底に持っていたのに対してジッドはあくまで「個人主義者」であったこと、また、ロランは東洋文化を(西洋文化との比較において)公平な評価をしていたが、ジッドは西洋文化の優越性を信じていたことなどが挙げられる。 (5)ロランとジッドはソ連に対する姿勢、見解も対照的である。ソ連訪問後に明確にスターリン主義を批判したジッドに対してロランは態度を明確にしなかったこともまた相違点として指摘できる。また、そのソ連についても、ロランはソ連の暴力革命主義とガンジーの非暴力主義という矛盾する2つの考えの間で苦悩していた。 (以上) 読書会補助資料4(2009.5.23) 黒柳 ロマンロランに関する書籍・記事の紹介(海外編) 発表者 黒柳大造さん ロマンロランに対する理解を深める一助とするため、ロラン関する海外の書籍・記事(邦訳)を紹介します。 (1)「ロマン・ロラン」(S・ツヴァイク著 創元社1953年) →ロランの評伝。冒頭、ロランの生涯の概略を説明したのち、「演劇論」「英雄の伝記」「ジャン・クリストフ」「コラ・ブルニョン」「政治論」という順序で、ロランの作品にそってロランの思想を紹介。ロランの精神性の高さを評価しているが、レファレンスの提示が少ないことから、著者であるツヴァイク自身のロラン観を強く表現・反映した内容であると考えられる。 ツヴァイクのロラン論でまとまったものは本書であるが、それ以外にも自伝「昨日の世界」(みすずライブラリー みすず書房:ツヴァイク全集第19、20巻にも所収)や評論集「ヨーロッパの遺産」(第2章「ロマンロラン」:ツヴァイク全集第21巻所収 みすず書房)の中でロランについて記述している。 (2)「ロマン・ロラン」(J・ロビシェ著 みすず書房(ロマンロラン全集第43巻)1985年) (3)「ロマン・ロラン」(M・デコード著 理論社1954年) →(1)と同じくロランの評伝。ロランの作品に沿ったロラン思想の記述は(1)と同様であるが(2)(3)ともに、ロランへの評価、考察を根拠となる作品・文章を明確にした上で提示していることから、(1)と比較して客観的、学術的な内容になっている。 (4)「現代フランス文学の開拓者」(E・R・クルティウス著 白日書院 1947年) →第3章「ロマン・ロラン」でロランについて記述。 ロランの作品に沿ったロラン思想の紹介という形式は同じであるが、本書はロランの特徴として、ロランの「ヨーロッパという観点への信仰」「フランスとドイツの精神連帯性への信仰」を指摘している。 (5)「人間を問う作家たち」(P・リーチ著 みすず書房1972年) →第2章「ロマンロランにおける神の諸相」でロランについて記述。 ロマンロランの宗教心理に視点をあわせ、その生涯の各段階について考察している。著者はロランの「信仰」の概念はきわめてあいまいで、ロラン自身は自らの信念を守ることも含めて「信仰」と考えていた(作品の記述より)が、一般的視点からは「信仰」をもったのは幼年期と晩年のみであると指摘。 (6)ロマン・ローランの宗教思想(P・クローデル著 雑誌「世紀」1952年4月号掲載) →ロランと関係が深い外交官・詩人のクローデルによるロランの宗教思想に関する論文。クローデルは、ロランは狭義の信仰(カトリック信仰)を持った時期は短かったが、ロラン独自の信仰(自らが信頼するものへの信仰)は、その生涯を通じて信念として継続して持っていたと指摘。そのロランの信仰の代表的な対象としてベートーヴェンなどを挙げている。 備考:ツヴァイクの「昨日の世界」を除けばいずれも絶版の可能性大の書籍ですので、図書館や古本屋で入手して読む必要があります。(1)~(3)及び(6)はロマンロラン研究所の書庫にもあります。(ロマンロラン研究所HPの「Library和書」参照) (以上) |
第271回 ロマン・ロラン 読書会 例会 2008.9.27(土) 発表者 中 西 明 朗
第271回 ロマン・ロラン読書会 例会 2008.9.27(土) 発表者 中 西 明 朗 テーマ 『コラ・ブルニョン』 (第4回) 4月の読書会で『コラ・ブルニョン』がテーマとなって、先ず黒柳さんからはロランの作品中における本作品の意義および位置づけ、作品の背景、他作品との比較など、同時期のロランの日記なども併せて分析しフリップボードの形にまとめられたものを各種の資料とともに発表して頂きました。 また前回(7/26)には清原さんからカバレフスキーがオペラおよび組曲として作曲した『コラ・ブルニョン』の珍しいCDを聴かせて頂き、本作品と音楽作品との対比など、認識を新たにしたところであります。 さて、今回は作品の5~7話を直に読んで、その中に込められた風刺と笑いおよび心に残る言葉に触れてみたいと思います。 Ⅴ.ブレット 〈あらすじ〉アスノアの館のための戸棚と食器台の注文を受けた家具職人コラ・ブルニョンは、それが据え付けられる場所を見なければ仕事にかかれないと言う彼一流の論理からその場所を見に行った。 その帰り道、牧場の中に逸れていく一本の分かれ道がどこに通じているか知っているのに知らないふりをしてコラ・ブルニョンは歩いていく。それはほかでもない初恋の人ブレットの住まいにつながっていた。ここから話は30年前の昔にタイムスリップする。 * コラ・ブルニョンは、彫刻を教えてくれた師匠(親方)の家の塀越しに、隣の広い菜園で、作物に水をやっている美しい娘の魅力にとりつかれる。彼女の名はブロットだが、それをブレット(いたちの意味)と捩ってニックネームにした。仕事時間の半分は塀にもたれて、彼女の姿、振舞いに見とれていたものだから、ついに親方に尻をぐわんと蹴飛ばされる。 わしは若かった。血は燃えていた。一万一千の乙女に参っていた。わしが惚れていたのは (本当に)彼女だったのだろうか? 山羊に帽子をきせたような女でも恋しかねない時期が一生の中にはあるものだ(全集5、80頁)と彼は回想する。 ともかく互いに悪口を言ったり、罵りあったりしながらも次第に熱くなりはじめていたある日、それは暑さで熔けそうなある午後だった。「鉋は汗だらけ、曲がり柄錐も手にへばりつきそうだった」と、さっきまで歌っていたブロットの声が聞こえなくなった。彼は目で彼女をさがした、すると彼女が小屋の蔭の石段に反り返るようにして手をだらりと垂らして眠っているではないか。(今の私たちの感覚で言えば、これは熱中症で倒れている危険な状態のように思われるのだが…) 彼は塀を乗り越え、キャベツを踏みつぶして駆けつけ、彼女を抱きかかえ接吻した。しかしこんな状況に乗じて彼女を手に入れたと思われるのは辛かったので、彼は逃げ出してしまう。 この日から彼女は手に負えない女になった。気まぐれで、ひどい侮辱を浴びせたり、悪戯、悪ふざけはしたい放題。ついに彼女はわしを傷つけるために、わしの一番の仲良し─どこに行くのも何をするときも一緒だったピノン─ に秋波を四度も送ったので、彼は簡単に彼女に夢中になってしまった。その結果、ついにピノンとわしは喧嘩になり、つかみ合い、殴り合いをはじめることになった、5分もするとどちらも血みどろになった。集まってきた近所の人々や、親方が鞭でひっぱたいたりして、ようやく止められた。 そこへ現れたのが3人目の盗人、肥っちょの粉屋のジッフラールだった。「あいつはお前たちを馬鹿にしているのさ。お前たちは仲直りして遠くへ行っちまいな、そしたらあいつは悔やんで、二人のうちどっちを好いているか決めなきゃなるまい。彼女の腹が決まったらわしが勝った方に知らせてやろう。もう一人は首を絞ればいい」とぬけぬけいう奴の言葉に、まんまと乗せられて、樽のように酒を飲んだあげくに荷物をまとめて村を出た。 翌朝になってつくづく考えて見れば、敵の牙城を乗取るために逃げ出して姿をくらますという驚くべき計略は全く理解できないことに気がついた。それで、まる1日かかって家に帰ってきた。夜がくるのを待って彼女のようすを見に行くと、あろうことか!粉屋の奴が彼女といい仲になっているではないか。さあたちまち起こる叫び声、金切り声、罵詈……、ガラスが割れる、皿が飛ぶ、家具がひっくり返る、界隈の野次馬がたかったのなんの! わしは片目で笑い、片目で泣き、来た道を引き返した。 * こうして30年前の恋心、騒動、恨みごとを思い起こしながら、ブレットの家近くに来た。そして再会するや否や、照れ隠し、憎まれ口、軽口の応酬は昔と少しも変わらなかったが、愚痴まじりに互いの来し方の話に花がさき、かつての愛情がよみがえるのだった。 ブレットは「今さら言っても何の役にもたたないけれど、わたしが想っていたのはあんただったのさ」と打ち明ける。ブルニョンは「ちゃんと知ってたよ」「じゃなぜ…」「わしがそう言ったらお前はいやだと答えたにきまってらあね」……(どうやら彼女に後悔させるために逢いに来たことになったのでわしは困った。) 「なあに!ブレット多分この方がよかったろうぜ、お前は何も損はしなかったのさ、1日くらいならそれもいいが、しかし一生となると、わしはお前がどんな女か、自分がどんな男か知ってるが、お前はじきに飽きただろうよ。わしがどんなに始末のわるい人間だかお前は知らないんだ……(94~95頁)」 そうしてわしは彼女に接吻し、立ち去った。だが家には帰らずに森の茂みに入り、ぶどう畑の丘に登り、そこを下り、大きな樹のそばでごろりと横になり野宿をした。 ・わしは自分の一生を反芻してみた。ああもなっていただろうと思うこと、実際あったこと、崩れた自分の夢のかずかずなど。なんと多くの悲しみを、自分の過去の奥に見出すことだろう。 ・家内はちっとも美しくはないし、そう優しくもない。倅どもは遠方にいて、考えもまるでわしとは違うし、わしに似ているのは上皮だけだ。 ・わしの精神の夢、芸術作品は掠奪された。わしの生涯は一握りの灰だ。……静かに泣きながら、わしは自分の悲しみを木の幹に唇をあてて打ち明けた。父の腕に抱かれたように、わしは木が聞いてくれたことを知っている。もちろんその後で木は喋ってわしを慰めてくれた。なぜなら数時間のちに目が覚めたときに、わしの憂愁は跡形もなく消えていたからさ。(96~97頁) というわけで、上機嫌で楽天家コラ・ブルニョンは1日遅れでクラムシーに戻った。 「辛抱するのがつらいことは あとで、話すのは楽しいものだ」 ☆あちこちに散らばる美しい情景描写や表現の愉快さおかしさ、軽妙な会話と軽口、早口の 類似音の連用(87頁、94~95頁)、時に品の良くないスラングも交えて、いかにもブルゴーニュ気質、土着の匂い芬々たる文章ではある。冒頭の凡例にも書かれているようにフランス語の駄洒落や類似音の連続を日本語に訳すのは、さぞ苦労されたことと思います。 ☆上に掲げた文で「自分の悲しみを木の幹に唇をあてて打ち明けた。」とあります。また別の所では「胡桃の大木」(95頁、118頁)が出てきます。これらはロランにとって特別の意味をもっています。というのは後年彼の『内面の旅路』の扉に“私の夢の話し相手であったヴィルヌーヴの親しい胡桃の老樹に”と献辞が記されています。『内面…』を書き始めたのが1924 年、その十年以上前(1913年)にこのブレットが書かれているので、ロランはかなり以前か ら、悲しみや夢を打ち明けるための心の拠り所の少なくとも一つが‘胡桃の大木と語り合う こと’だったと考えられるからです。 *(ちなみにこの献辞の裏の頁には「私がヴィルヌーヴからヴェズレーへ引越しをしたその年に、この樹は枯死した。その次の冬に、この樹が切りたおされるのを私は見た。」と注記がある) Ⅵ.渡 り 鳥 またはアスノワの小夜曲 マイユボワ伯爵とテルム嬢の二人の貴賓がクラムシーを通ってアスノワ城に行き、3,4週間滞在することになった。(この貴族たちを鳥になぞらえて皮肉っていることからタイトルを「渡り鳥」としたのだろう)。そこで町会委員会は代表者を派遣して彼らに祝意を表して、町の自慢の名物‘砂糖かけビスケット’を贈ることに決めた。わしの婿で委員の一人でもある菓子屋のフロリモンは、気前よくそれを3ダース入れさせた(と言っても代金は町が払うのだが)。そしてまた委員会は4人のへぼ音楽家にドラムを1人を加え、お城の賓客たちに菓子と共に、夜曲を奏上するよう命じた。わしも頼まれもしないのに自分の銀笛をもってバンドに加わった。 わしはちょうどアスノワの殿様から注文された二枚の大きな彫刻板が出来上がっていたので、それを(他人の財布で)馬車で運ばせるのに恰好だと思ったのだ。さらに馬車を利用して一文もかけずに、わしの孫グロディつまりフロリモンの娘を連れて行った。もう一人の委員は自分の男の子を連れて行った。二台の馬車に町長、彫刻板、贈り物、二人の子供、四人の音楽家と四人の委員が乗って出発した、わしは徒歩で行くことにした。 サン・マルタンの塔が見えているあいだは固苦しい様子をしていた紳士がたは、町の人目をはなれるや否や上衣を脱ぎ、一人、また一人と歌いだした。楽士たちは楽器を、わしは自分の銀笛を吹いた。城に近づくとまたぞろ足を停め、明るい晴れ着に着替えて楽器を鳴らしながら城門を入った。公証人のピエールさんは立派なラテン語の挨拶をしたが、わしには聞こえなかった、それを聞いたのはピエールさんだけだったと思う。わしの可愛いグロディは、贈り物のビスケットを盛り上げた籠を小さい両手で抱えて、石段をちょこちょこと上って行ったが一つも落としはしなかった。その可愛いさと言ったら、いやまったく、わしは彼女を食べてしまいたいくらいだった。 さて、わしらが運んだデザートのビスケットを、テルム嬢はわしのグロディを膝に抱き上げて、小さな口に半分に割って食べさせてくれた。わしは嬉しくなって笛で1曲吹いたのがきっかけで、マイユボワ伯爵はわしにいろいろ質問をされた。 ・わしの「商売の収入はどうかな」と(わしを田舎廻りのヴァイオリン弾きと思いなさったのだ) ・(お伴れの女にこっそり、しかしまる聞こえに、はっきりと言った)「少しばかみたいですが、この素寒貧を利用して、地方民がどう考えているか訊いてみましょう」と「どうだね、爺さん、土地の人気はどうかね?」…?… ・「私が訊ねるのは、人々がどういう考えと信仰をもっているかということだ。立派なカトリックかね? 王様には忠実かね」「神さまも王様もお偉い、どちらも好きですわい」 ・「諸侯のことはどう思っているかね?」「そりゃお偉い方々ですわい」「じゃ諸侯の味方 というわけだね」と、(そこまでは良かったのだが……) ・「コンチニには反対かね?」と訊かれ「あの方にも味方ですわい」と答えたからさあ大変。 *注-(コンチニ1616年当時の圧政君主、その翌年に暗殺された(12頁注3参照) 「なんだと!だってあれは敵同士じゃないか」…(わしが「両方の味方です」と言うと)、 「どっちか定めなくちゃ、はっきりと!」…「そのうちに、よく考えてみましょう」 「ええ!なんでぐずぐずすることがあるのかね?」…「王様の味方と諸侯がたの味方と、 どっちを選ぶかという段になると、本当に私には見当がつきませんわい」… (そこでわしは日頃思っていることを言ってやった)「もし自分たちのように畑を耕し、種をまき、穀物を作り、パンを焼き、ぶどうの木を育て葡萄酒を作るものがフランスにいなかったら、王さまはいったい何を口に入れなさるかということですわい!手前どもは駄馬です、撲たれるようにできています!公共の問題とか、殿様がたの喧嘩だとか、政治のかけひきだとか手前どもには難しすぎますわい!」… 相手は笑っていいか、怒っていいかわからない風だった。するとお伴の槍持ちが「殿様、私はこの変人を知っています。いい腕をもった家具職人で彫刻家で……」と、続いてアスノワ公も、何某という公爵がわしの作品を珍重していると言って下さってからは、マイユボワはわしが彫った中庭の泉水やお城の家具や羽目板をみて有頂天になった。アスノワ公爵さまは得意満面だった。──この金持ちの野郎ども!代金を支払ったからって、この作品をまるで、自分が銭で創ったような顔をしてやがる!…… マイユボワはわしがこんな田舎にくすぶっているのが不思議だと言って、わしに花をもたせようと考えた。わしは謙遜して自分の価値がどんなに低いものかよく心得ているし、めいめいが自分の分際を守るべきだと答えた。 マイユボワがわしのことに満足して去った後、アスノワ公爵さまはわしに「ふざけた野郎だ!からかうのもいい加減にしな!あのパリの苺の木(マイユボワのこと)なら好きなだけ摘むがいいさ、しかしもしもこのわしをやっつけようなんて考えたら承知しないぞ!」 「滅相もない、殿様!わたくしの恩人、保護者である殿さまを攻撃しようなんて!ブルニョンをそんな腹黒い人間と考えることができましょうか?… (そして殿さまを持ち上げる言葉をいろいろ並べた)」「よろしい、それはさておきお前が来るからにゃ、ただは来ないだろう」「そうれ、ごらんなさい、ちゃんと見抜いてござらっしゃる!」などと言いながら自作の羽目板2枚と‘イタリアの作品’をうっかり自作だと言って出してしまった。それは控え目に褒められた。それから‘自作の少女のメダル’をイタリアものだといって見せると人々は感嘆の声を上げて絶賛したので、有卦に入ったアスノワ公爵さまはそれに36デュカ、一方の‘イタリアの作品’には3デュカだけくれた。 家に帰ってこのメダルの一件を知ったフロリモンは、イタリアの作品を自作と言って、そんなに安値で手放したことをひどく責めた。わしは人をからかってみるつもりではあったが、ひとを剥ぎ取ることはしないと答えた。それでも憤懣のおさまらない彼に対して、わしの娘マルティーヌは道理至極なことを言ってくれた。(以下108頁下段の文を参照) ☆この最後の、落語で言えばオチにあたる言葉、これがブルゴーニュ風の皮肉と言うか、ウイットと言おうか、笑えて面白い。 ☆この物語では、貴族に対する皮肉や批判がかなり顕著に表われている。うわべでは敬仰のふりをしつつ、裏で笑いものにしたり、領主や政治家、貴族に対して(27頁Ⅱ包囲の表現を引 用するならば)「獣ども、略奪者ども、血搾り」とまで痛烈な言葉を浴びせているなど。 ☆この作品に描かれた時代は、ロランから三百年ほど昔(現在から四百年前)の設定ではあるが、例えば政治家、農民、職人などの役割分担、イタリア製とか広い意味でのブランド志向など現代にもそっくり当てはまることもあり、共感したり、学べることも多い。 Ⅶ.ペ ス ト 「不幸は徒歩で去るが、来しなには馬でくる」現代ではさしずめ馬が新幹線となり、ジェット旅客機でくるということになるだろうが、去る方は昔も今も変わりがないか、若しくはHIVのように居着いてしまうかも知れない。先週サン・ファルゴーに発生したペストが昨日は近くのクーランジュ・ラ・ヴィヌーズに発生したので、みんなわれ先に遠くへと逃げ出した。町の入り口には警備をおいて外部の貧民賤民の侵入を防いだ。町の三人の医者の内、長い防毒マスクをつけた医者と、それを外した医者の二人が死んでしまった。わしらはペストが皮鞣し工場の臭いが嫌いで寄りつかないものとかたく信じていた。そして、かねてより懇意なグラットパン爺さんと飲みに出かけた。彼はなかなか陽気な男でまるまる肥えて健康そのものだった。わしらは一時間あまり息を吹きかけながら喋った。彼は喋りながら相手の手を叩いたり、腿や腕をいじりまわす癖があった。その時にはそれを気にしなかったが、翌日わしの弟子の「師匠、グラットパン爺さん死にましたな…」という一言に背中がぞっとした。 わしは気を紛らすために仕事台でこつこつやってみたが、てんで集中できなかった。はしゃいでみたがだめだった。胃が動くのをおぼえ、自分でさわってみた、ここかしこ、あいた!てっきりあれだ……夕餉の時がきて大好物の料理にも顎を開ける勇気がなかった。 わしがここで死んだら、他の者にペストが感染しないようにと、ま新しいこの家が焼き払われるだろう。そんなことになるくらいなら、(外の所で)自分の寝藁の上でくたばった方がましだ。そこでわしは起きて本を数冊、蝋燭とパンをもって、弟子に暇をとらせ、家を閉め、丘の中腹にあるブドウ園へ行った。町はずれの一軒家で焼き捨てられても大して惜しくないあばら屋だ。着くが早いか、口はかちかち慄え、熱で焼けるよう……、 そこでわしがどんなに勇ましく、ローマの大英雄の如く、豪快に不運に立ち向かったかお分かりかな、みなさん!尤もだれも見ちゃいなかったが…。わしは驢馬のように啼き声をたて、そして神さまにさんざん愚痴を言った(112~113頁)、だが疼きは変わらなかった。わしの悲壮な感情は精根尽きてしまった。今度は自分にいっぱい言い聞かせた。「お前は時間を浪費するだけだ。……さあブルニョンお前の皮がくっついてるうちに皮の下で起こることを観察して書き記そう……」こんな風にわしは自分を熟視、観察する。夜はなかなか過ぎない。蝋燭を点けて読書しようと努めたが、ローマ人の箴言集もてんで駄目だった。 だがブーシェ先生の『諧謔集』なる本を開けてみたわしは笑いこけてしまった。笑ってはわめき、わめいては笑った、これにはペストの奴だって笑ってしまったよ。可哀そうな(ペストの)ちび助くん、わしはお前を喚きすくめ、笑いすくめてしまったぞ! 夜明けがきた時、わしは立つこともできず、一つしかない明かり窓にいざり寄って最初に通った男に呼びかけたが、彼はわしを見るなり十字を切って逃げだした。十五分もたたないうちに警衛が二人やってきた。わしは遺言書を作るために公証人のパイヤール先生を呼んできてほしいと頼んだが、ペストを怖れるあまりわし言葉まで恐れて聞こえない風だ。とうとう感心な男の子が「ブルニョンさん、ぼくが行ってあげるよ」と言ってくれた。 それから幾時間もわしは熱にうなされた後に、鞭と鈴の音がしてパイヤールとシャマイユ司祭がやって来たが、わしを見ると三歩後退りして「気分はどうだね」、「なに!病気の時にゃ、気分は良くないものさね」とわしは答えた。「さぁ、ブルニョン、神さまがお召しだ、支度をしよう」「もうちょっと後にしよう。司祭」…終いに「お前を残して神さまのところに行く勇気はないよ」とか、「めいめいに順番がある」だとか、ああだこうだと言い合う。…ともかく神さまを後回しにして公証人パイヤールに遺言書を作ってもらった。 万事片が付いても説教を続けるシャマイユにブルニョンは「まあ一服しな、いよいよ出発というわしにお前の念仏は、すぐりの実一つの値打ちもないんだ。せめて別れの盃が一杯ほしいな」 ああ!二人ともあっぱれなブルゴーニュ人だ。わしの最後の願いをよく理解して一本の壜どころか三本持ってきてくれた。 わしはまたぐったりとなり、他の人たちは帰っていった。しかしその後の時間がさっぱりわからない、八時間か十時間どうしても勘定が合わないのだ。そしてわしはコラ・ブルニョンを見失った。いったいどこへ行きやがったんだ?…… 夜半ごろに、わしは庭の中に坐っている彼を見つけた。苺畑の上に臀をついて空を眺めていた。それからわしは韮を摘むつもりだったらしい、韮はペストに無類の薬だと言うし酒が無いなら韮で満足する他ないからだ。 わしの果樹園の果実が星のように見えた。地上と、天上の果樹園のすべての枝から、ささやき、うたう、合唱がくりかえされた。── 根を下ろせ、根を下ろせ! そこで、わしは両腕を畑のよく肥えた柔らかな土深く肱まで突っ込んだ。そして両手と膝で掻き混ぜ、抱きしめ、そこに身を横たえて、大空と星(果実)を眺めた。 ☆この辺(117~119頁)の文(詩を含む)の内容は実に美しい。『ジャン・クリストフ』の中でも何度か見てきたように、こうした幻覚のような情景描写や、精神または肉体の奇跡的な大転換の場面(ここでは死の病ペストからの回復)で、ロランが屡々用いた得意の表現手段と言っても良いと思いますが、単に文学的な手段としてでなく、ゆっくりと味わって読みすすめたいところです。 その翌日わしが眼をさましたのは、正午だった。自分が生きているのを見つけてどんなに嬉しかったことか!様子を見に来たパイヤールとシャマイユが「ブルニョン!死んだのかい?」わしはいきなり明かり窓から顔を出して「ほいほい、ここだよ!」とどなった、彼らは驚いて飛び跳ねた。そして嬉しさに泣き笑いしていた。わしは彼らにあかんべをしてやった。そしてあの奴どもは、わしがほんとに治ったことが確かになるまで十五日間も、わしを塔の中に幽閉しやがったんだ!もっとも食料と水は不自由させなかったが。 外に出られるようになると、シャマイユ司祭が「サン・ロックさまがお前を救って下さったのだ。せめてお礼参りに行くことだね」「わしはむしろ聖なるワインのイランシィかシャブリか、それともブイイにお礼参りしたいね」「それじゃコラ、わしらのもそこに入れて折れ合うことにしよう。両方にお礼参りだ」そして伴れだって二つの巡礼に出かけた。「ああ!生きるのはなんていいことだろうね、お前!」と、わしらは三人とも、互いに笑いながら抱き合った。そして言った。 「勇ましい人間て大したものじゃないさ。ありのままの人間をみるんだね。 神さまがお造りなさったものだもの、いいにきまってらあね。」 ☆ ペストに関連のある文学作品と言えば、ボッカチオの『デカメロン』ですが、ロマン・ロランがこの作品を書くとき『デカメロン』が頭に無かったかどうか興味のあるところです。 尤も『デカメロン』の方はペストに罹った人間を描いているわけではないので、別に関係無 いと言えばそれまでですが…。例えば(114頁)ローマ人たちの勇壮な箴言集もてんで駄目だ った。こんなほら吹きどもくそくらえだ!「みんながローマへ行くために生まれたのじゃな いんだ」というくだりに、『デカメロン』の初日第2話を絡めると納得がいく気がするのですが…。 ☆ そのほか、今日お集まりの皆さんは、どんなご感想をお持ちでしょうか? 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第231回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2003年4月26日)
第231回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2003年4月26日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第四巻 反抗 Ⅲ 脱却(前半) 発表者 岩坪 嘉能子さん 『あらすじ&主な登場人物』 脱却の前半部分は、三つの部分から成り立っています。 一.前章の終局で、ラインハルト夫妻との別れを経て、孤独になってしまったクリストフ。そして親愛なゴッドフリート伯父との永遠の別れ。彼を取り囲んでいるのは限りも無いドイツの平野、どんよりとした広がりの大洋から脱却しようとしてますます深く埋没する。必死でもがいていたとき、闇の中の稲妻みたいな光の中にクリストフの心に見えてきたのは、ハスラーの面影であった。 自分も同じたたかいをしていると信じたハスラーが、自分を救ってくれるにちがいない。そう思いつくとすぐさま会いに出かける。友情と勇気づけの言葉が、ただほしかったために、鼓舞を求めに出かけた。それは、蘇生したいためのせっぱつまった努力だった。 しかし、ハスラーは昔のクリストフとの出会い、約束も「思い出せませんね」と。話も噛み合わないまま、意気喪失したクリストフは、立ち去ろうとするが、それではこの長旅全く無益になると思って、もう一度勇を鼓して、自分の音楽を二つ三つ聴いてもらいた申し出、やっとのことで「そう!それならお弾きなさい、、」と。 クリストフの音楽を聴くや、ハスラーの芸術家としての聴覚が開き,感嘆の叫びを上げ、クリストフを押しのけて、自分で弾いてみた。しかし満足と嫉妬を抑えきれない。皮肉になり、厳格さを装い、感銘させた印象を、いまいましがって消し去ろうと努め、、、縁に触れ刻一刻と変化するハスラーの心理の展開。そして結局クリストフに残ったのは、苦い幻滅~より一層の傷心だけだった。 二.心の中の空虚、そして、この都会のなかで彼のまわりにもある同じ空虚、一刻も早く逃れ出ようと、駅で出発時刻を待ちわびているとき、老シュルツの住んでいる土地の名を見つける。と、即座にそこへ行く決心をした。 人の共感にかじりつきたい本能的要求から、未知の友に会いに行こうと彼の心のなかでとっさにひらめく。何度でも他人に期待の夢をかける自分の愚を自嘲しながら。そして、シュルツと彼の親友の老トリオとの出会いは、先のハスラーとの出会いと対極的な癒しの刻。 それに先んじて、シュルツは本屋から送られてきたクリストフの「歌曲集」に接し、全身が震え、大粒の涙を流し、未知の一人の友の若い魂のなかに自分自身が再生するように感じた。クリストフがシュルツの生活のなかで光のひとつの焦点になった。そんなところへ、クリストフが訪ねてきた。いろいろ行き違いがあり、感情を害していたにもかかわらず、二人が出会ったとたん、クリストフはシュルツの魂の純真な善さをいきなり感じてしまい、この魂を愛しはじめた。クンツを交え、待ちに待ったクリストフの演奏、楽しくて美味しい食事。友情と音楽とぶとう酒とを頌めている三重唱、笑い声のひびき合いと、たえずかち合わされるガラスの杯の音とを伴奏として。その後、三人は散歩に出かけ、詩を暗誦したり、ブラームスを讃美するというへまをやったり、そして、帰路の駅で、もう一人の親友ポットペットシュミットに会い、シュルツの家に戻ってきた。 ポットベット・シュミットが,クリストフの歌曲を歌った。三人の親友である老人たちは、クリストフの言葉に聴き入った。夜がふけ二人の友は帰っていった。クリストフは、シュルツに「さあ今度は、ただあなただけのために弾きましょう」。弾き終わって振り返り老人を見た。老人は泣いていた。老人と若者は、年齢の大きなへだたりを忘れた。 やがて、翌朝別れの刻がきた。クリストフは、この先また会えるだろうと思った.老シュルツは知っていた。永遠にもうこれっきりだと。シュルツにとって、人生最後の花火のような輝く出会いだった。心に愛がみなぎり神に感謝していた。若者はさわやかな気持でほがらかな気分であった。 三.帰路クリストフは、切符が有効な限りの駅で下り、歩きだした。いまこの瞬間にしきりに、伯父ゴットフリートのことが思い出されるのに不思議を感じつつ歩いた。驟雨のために雨宿りした家、そこで出会った盲目の少女モデスタは編物をしつつ、歌を口ずさんだ。それは、昔、ゴットフリートがクリストフに教えたことのある歌だった。そして、部屋の隅にあった杖、それはゴットフリートの杖だった。ゴットフリートは、ここで亡くなったのだった。モデスタの母親は話した。ゴットフリートはずいぶん長い前からの知り合い、彼女が若かったころゴットフリートは彼女を恋していた。彼女が別の人と結婚し、幸福であった。そして、偶発した不幸によ って娘のモデスタがめくらになった。モデスタは絶望し泣いてばかりいた。牧師の話もさっぱりモデスタに慰めを与えなかったのにごっよフリーとによってだんだん心を開くようになり、笑い声を立てるようにまでなった。未知の力にみちびかれたように来合わせたこの片田舎、ゴットフリートの魂に充たされているこの片田舎に一泊したクリストフは翌朝、モデスタに案内され、ゴットフリートの墓に詣でた。ゴットフリートに語りかけた。「僕のうちに入ってください。、、、」クリストは、シュルツ、モデスタを通して,ドイツ理想主義の偉大さを感じはするが、ごまかしの夢によって生きることはできない。生命!真実!眼を大きく見開いて、すべての気孔によって生命の息を吸い込み、ものごとをあるがままに見て、自己の不運を直視し、そして笑うことだ ! <主な登場人物> *フランソワ=マリー・ハスラー 6歳のクリストフの精神にひとつの決定的な影響(自分もまたハスラーと同じように作曲しようと決心した)を及ぼした人物。 『君が大きくなっていい音楽家になったら、ベルリンへ私に逢いに来るんですよ。私は君のために何かしてあげられるだろう』と。クリストフの祖父はハスラーは百年に一人しか出ないような天才だと、叫んだ。 歳月は流れ、有名ではあったが、ハスラーは知らずしらずのうちに怠惰に生活を享楽し、音楽力の退行を自身感じている。 *ペーター・シュルツ 75歳。ドイツの理想主義を体現しているような老学究。美学、音楽史の教授で あったが、一年前に健康がすぐれない理由から退職している。歳月は流れ去り、人生 の夕暮れが来ていたが、彼の魂はやはり、いつまでも二十歳の魂だった。読書・音楽・ 詩を愛読し、愛と讃美の心の持ち主。 *サムエル・クンツ シュルツの親友。判事。温和でいくらか眠たげで、ものごとに動ずる気配を示したことがなかった。 *オスカー・ペットポット・シュミット シュルツのもう一人の親友。立派な歌唱者で歯医者。 *モデスタ 盲目の少女。ゴットフリートは最晩年、モデスタの精神的支えとなった。ゴットフリートの最後を看取った。 <私のあとがき> 1.三つの楽章からなる交響曲のように、それぞれ独立した主題を感じ、作曲家になったようにメロディが聞こえてきます。 2.各部分を通じて、ハスラーとクリストフ、シュルツとクリストフ、モデスタとクリストフの変化してやまない心理劇のような深さ、面白さ。 3.ドイツ理想主義の功罪。今まで、シュルツはただ全面的に[善い人]と読んでいたがように思うが、ありのままに人生を見ない、真正面から人生にぶつかる勇気の欠如を見る思いです。 4.読み込むともっと深く理解したいことがたくさん出てきます。例えば詩であったり、地理、歴史、室内の家具、調度、料理 etc。 5.私にとって、むづかしい個所がたくさんありました。例えばシュルツの読書観のところ。 |
第230回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2003年3月29日)
第230回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2003年3月29日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第四巻 反抗 Ⅱ「埋没」(後半) 発表者 大石 清貴 さん 〔物語の便慨〕 クリストフは、悪評に苦しめられた。それは、彼の音楽に対してだけでなく、新芸術の形式に関する彼の考えにまで及んだ。数カ月以来、いかなる不当な攻撃に対しても弁駁せずにはおられなかった。その論説を新聞社に持ち込んだが、要領を得なかった。そのとき、社会主義新聞を思い出した。彼は、自由な意見を吐く者を好んだが、カール・マルクスとは彼にとって、無関係であった。その新聞は激烈で憎悪的で、たえず禁止されていた。しかし、クリストフはそれを読んでいなかった。それで、彼は社会主義新聞に論説を持ち込んだ。翌日、その論説は現れたが、彼は読まなかった。彼が不在中に宮廷から手紙が来た。宮廷へ伺候されたしと、いうことであった。ルイザからの勧めもあり、彼は行くことにした。散歩しているうちに、りっぱな楽旨を見いだした。出かけながら彼は、アデライド姫を誘拐しに行くのだと言った。宮廷へは呑気な調子で出かけた。殿下と姫は、客間にいた。殿下は不機嫌だった。クリストフを悪者だと、罵った。社会主義新聞に彼の論説を載せたからだった。クリストフは、言いたいことを言い、書きたいことを書きますと言い放った。そのことで、大公爵をますます激怒させた。クリストは、意気消沈して帰路に着いた。クリストフは絶望の底で呻吟した。 翌日、社会主義新聞の編集長の訪問を受けた。そこで彼は、大公爵に対する攻撃は、クリストフの復讐心から発した行為と解せられるので、自由の身になった今ではいっそう慎むべきだと主張した。編集長は、自分たちに任せてくれと言った。翌日、彼の談話が社会主義新聞に載った。その記事は下劣な罵詈をもって、大公爵と宮廷を攻撃していた。クリストフは、新たな打撃を受けた。彼は、自分の手紙を社会主義新聞に載せてくれと言った。しかし、それは宮廷との溝を深めることになった。 クリストフは、四面楚歌の状況に陥った。ある記事には、彼の歌曲は野獣の唸り声に似ており、彼の交響曲は癲狂院から発する趣きがあり、彼の芸術はヒステリー的であり、彼の痙攣的な和音は心情の乾燥と思想の空粗とをごまかそうとしたものである、などと書いてあった。その著名な批評家は、 クラフト氏は近ごろ報道記者として、その文体及び趣味に驚くべきものがあることを証明し、音楽界に一大快哉を叫ばしめた。その時彼は親しく、むしろ作曲に没頭するよう勧告せられた。しかし彼の最近の音楽的創作は、この好意的勧告が誤れることを示した。クラフト氏は断然報道記者となるべきであった。 と結んだ。さらに、彼は著名な音楽団や管弦楽団からもそっぽを向かれた。ケルンの管弦楽団で指揮をしていたオイフラート楽長は、古い模型の上にうち立てた作品――50年も前に新しかった作品の模写めいたもの――をもってゆくと非常に優遇した。しかし、美しい慣例を破り彼に新たな骨折りをかける恐れのあるものにたいしては、軽侮と憎悪との交じった気持ちを感じた。その改革者が無名の地位からでる機会のない時には、軽侮の方が強かった。改革者に成功の恐れがある時には、憎悪となった。――もちろん、彼がすっかり成功するまでの間だったが。オイフラート氏が彼の作を演奏したい意向を間接に提議された時驚いた。彼はオイフラートへ交響詩を1つ送った。そして、自作が試演されることになった。ついに、クリストフの交響曲の番となった。出て来たのは、名もないものであり、奇怪な捏り細工だった。公衆の方は、聞きなれた通弁者を、歌手を、管弦楽隊を、あたかも読みつけの新聞を信ずるように信じている。彼らがくだらないことを言うのは、その作者がくだらないからである。音楽を知らない痴漢道化者の作品だった。そして公衆は、クリストフに向かって笑い出した。最後に、楽長は口を開いた。 「諸君、楽匠ブラームスにたいしてあえて妄評を加えた人を、1度ご覧に入れたい希望がありませんでしたら、私はむろんこういうものを終わりまで演奏させはしなかったでしょう。」 演奏会は終わった。 クリストフは、下劣な楽長の横面をはりとばしてやりたかった。しかし、周りの穏やかな景色の美しさ(ここの描写は綺麗)に彼は思い止どまった。苦しむこともまた、それは生きることだと悟るのだった。 彼は、「文士」と言われる人達を相手にしないと決めた。ルイザは、母親らしく彼を理解してくれた。 彼は、作品を書く以外にはないという結論に達した。彼は、借金をしてまでも作品を自費出版しようと思った。ルイザも賛同してくれた。彼は、非常に愛着を持っているごく個性的な1連の作品を選んだ。彼は、その1連の集を1日と名付けた。その各部分には、内心の夢想の連続を簡単に示す小題がついていた。また、この作品以外に30曲の歌曲を選んだ。それらの歌曲は、17世紀の古いシレジアの詩人の句によって書かれていた。彼は、その誠直さを愛していた。そこでの2人の詩人はクリストフを魅了した。(ここの描写力は魅惑的)しかし、ついに出版はなされなかった。 クリストフは財政的窮乏に陥っていた。そこで、ある学校に就職口が見つかった。それは、半宗教的な学校だった。そこでの最も大事な事柄は、一般公衆の列席が許される儀式のために、彼らを歌えるように仕込むことだった。もとより、彼には向いていない職務だった。しかし、ルイザは、学校とだけは喧嘩してくれるなと言った。彼は辛抱した。彼は、同僚を訪問したり、同僚と一緒にいることが耐えられなかった。校長は、月に1度仲間全部が集まることを望んだ。同僚とは、話が合わなかった。その時、1人の若い女を認めた。ラインハルト夫人だった。彼女もその良人も醜女醜男であった。だが、この夫婦の善良さには好感を持った。彼は孤独だったので、あまり上品ではないがしかし単純で心厚いこの善人たちに出会ったのを、実はうれしく感じていた。 ラインハルト家のこじんまりした内部は、彼らと同様に心厚いものだった。それは多少饒舌な心であり、種々の辞令をもっている心であった。家具も道具も皿も口をきき、「親愛なる客」を迎える喜びをあかずくり返し、健康を尋ね、懇篤で道義的な忠告を与えていた。善良な人たちであった。趣味は欠けていたにしても、知力は欠けていなかった。ラインハルト夫妻は、小都市において前任者に対して新来者の義務を規定する田舎の慣例を十分念頭においていなかった。夫人が特に厭がった。ラインハルト夫人はやや自由な態度だった。彼女は仏国人の会話の愛すべき自由をほめた。クリストフも相槌をうった。話が進むにつれて、共通の知人のいることに気が付いた。その若い婦人はアントアネット・ジャンナンであった。彼女には弟がいて献身的に弟を助けていた。リーリ(ラインハルト夫人)とは深い信頼関係で結ばれていた。アントアネットはこの土地を去った。人の噂によると不品行をしたそうだが、リーリは信じなかった。そして、彼女は言い放った。 「世の中のことはたいていそうですが、もう遅い。」 しかし、アントアネットが帰ってくることを信じているようだった。 リーリは、仏国を称揚した。リーリの記憶よりもなお貴いものは書物だった。クリストフは、ラインハルトの忠言により何も知らない仏国文学のうちに入り込もうとした。そして、ある仏国作家の書いた独国人に関する記述を読んで教えられた。 ドイツ人は魂の世界に生きるように生まれている。彼らはフランス 人のごとき喧噪浮薄な快活さを有しない。彼らは魂を多分にもち、そ の愛情はやさしくかつ深い。働いて倦まず企画して撓まない。最も道 徳的な人民であり、最も生活期間の長い人民である。ドイツは非常に 多くの作家を有し、また美術の天才を有している。他国の人民らが、 フランス人たりイギリス人たりスペイン人たることを光栄としている のに反して、ドイツ人はその公平無私なる愛のうちに、全人類を抱擁 する。また、ドイツ国民は、ヨーロッパの中央に位することによっ て、人類の心で あるとともに最高の理性であるように思われた。 「フランス人は善良なお坊ちゃんばかりだ。あまり鋭利ではない。」 クリストフはそう考えた。独国の出版者らは仏国人の欠点と独国人の優秀さとを、仏国人自身の証明によって確定し得るようなものを文集中に選び入れていた。それは、仏国人の驚くべき自由さだった。彼はそういう放肆な独立に慣れていなかった。それは無政府らしく思われた。クリストフは母ルイザにモリエールの1節を朗読した。しかし、聞いてもらえなかった。ラインハルト氏は、仏国に偏見をもっていた。3人とも声高く言い合った。しかし、よく理解し合っていた。そして、交流は続いた。気質のいいラインハルト夫妻は、友情を示すためにクリストフの歌曲集を20部ばかり買った。ラインハルトは、それを諸方の大学関係の知人に送った。無反響だった。しかし、田舎に埋もれている数人の善良な人々の心に、それと言ってよこすにはあまりに臆病なあまりに倦怠している人々の心に、徐々に達したのだった。それから、ある人がクリストフに手紙を送った。しかし、それはブラームス派だった。 彼は、毎日ラインハルト夫妻に会った。彼は2人に音楽をきかしてやった。ラインハルト夫妻は、全く音楽を理解しなかったが、クリストフとは純粋さにおいて共通していたので心は通じ合っていた。彼は、ラインハルト夫妻をますます愛していた。しかし、その最後の情愛をも争いに来ようとは、彼は思っていなかった。 彼は、小都市の邪悪さを勘定に入れていなかった。しかし、小都市の怨恨は執拗なものである。ある朝、クリストフは、誹謗中傷の手紙を受け取った。そこには、彼をラインハルト夫人の情人だと書いてあった。もちろん、そのような事実はない。ラインハルト夫妻も同様の手紙を受け取っていた。彼らの友誼はもはや撹乱されていた。彼は、最後の一息たる愛情までも奪われてしまった。――愛情、それがいかにちっぽけなものであろうとも、それなしにはだれの心も生きられるものではない。 〔私評〕 1.クリストフが孤立無援の状態で、芸術家の真価を問われている点が中心課題であるように思う。芸術家は芸術以外の世俗的な度量衡との戦いに本来向けられるべきエネルギーを奪れかねない。最も恐いのはマスコミであり、この時代も例外ではない。この時、クリストフの無垢な精神が唯一魂の交流のできるラインハルト夫妻(彼らは、全く音楽を理解していなかった。)をも奪いされてしまうクリストフにとって真の愛を発見する好機でもあったろう。 2.ロランは、仏国を手厳しく批判しているようだが、逆説的に言うと最も愛しているが故の行為でもあるように思う。独国を理想化し過ぎる面もなくはないが、内面に向けられた思考を具現化する行為が抽象的な理想郷像を作り上げたのである。ロランの理想とする芸術感でもあったろう。 3.リーリ・ラインハルトの描写は、ドストエフスキーの『白痴』の主人公ムイシュキン公爵を思い起こさせた。ロランにとっての「無条件に美しい人」の創造であろう。 |
第229回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2003年2月22日)
第229回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2003年2月22日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第四巻 反抗 Ⅱ「埋没」(前半) 発表者 大石 清貴 さん 〔物語の便慨〕 クリストフが独国芸術を変革するため奮闘していたおり、1団の仏国俳優が町を通りかかった。マンハイムとその友人たちは、パリーの文学的社交的方面に通暁していた。もしくはそのふりをしていた。マンハイムはパリー人を称賛するのに放逸な騒々しい人間であると言い、遊楽や革命にばかり時間をつぶして、決して真面目になることがないと言った。ある素朴な版画の第1図に、 飽くなき吸血鬼、永遠の豪奢は、 大都市の上にてその餌食を貪る。 と、銘があった。クリストフは、仏国人を遊蕩な異国人としてまたその文学をも軽蔑していた。彼は通りかかった仏国の名高い旅役者にも軽蔑的無関心を示した。しかし、その劇団の古典劇に対する他人の意見が気になった。第2の出し物は、ハムレットの仏訳ということになった。クリストフは、偶然マンハイムに出会った。その時、彼から桟敷の切符を譲り受けた。劇場へ入り、彼は1人の年若な女を認めた。そして、彼はその女を誘うことにした。 クリストフがマンハイムの桟敷に座ると、他人が執拗く干渉してくるのに憤った。彼は、女と話が弾まなかった。彼は、その名女優がハムレットを演じたのを見て、また憤った。彼の好むところは、女は女であり、男は男であった。にわかに彼の渋面はやんだ。音楽的で美しい声に心ひかれた。見るとオフェリアであった。熱情に駆られた者が有する無意識的な妄信さで彼は、その貞節な惑乱せる処女の心の底に燃えてる若々しい熱気に、1つの深い真実さまでも見出した。そしてその魅力をさらに大ならしめるものは、浄い温かい滑らかな声の惑わしだった。1語1語が美しい和音のように響いていた。各綴り音のまわりには、百里香かあるいは野生薄荷の香りのように、弾力性の律動を有する南欧のあでやかな抑揚が踊っていた。アルル国のオフェリア姫ともいうべき不思議な幻影だった。金色の太陽と狂おしい南風との多少を、彼女は身にそなえていた。彼は、隣席の女にとっては、あまりありがたくない比較を、彼女とオフェリアとの間に試みてる自分の調子に、みずから気づかなかった。彼女はそれを感じたが、彼を恨まなかった。その後も、オフェリアの演技にクリストフは心転倒した。そして、初対面の女を置きざりにして帰路に着いた。 翌朝、彼は女優を訪ねた。すると、オフェリアは、子供のように声を張り上げて歌っていた。彼女は、クリストフがただ自分1個の考えで来たのだと言われ、彼女を賛美しているからだと言われると、非常に歓んだ。ーー(彼女はまだ、世辞追従に毒されていなかった。)ーーこの強健で快活で怜悧で感情を隠さない南欧の女は、言葉を知らない他国にあって、話し相手を見出したのがうれしかった。クリストフの方は、誠実に乏しいいじけた小市民らのまん中で、平民的元気に満ちた南欧の自由な女に出会ったことが、言い知れぬ幸福であった。2人は一時間以上も話したことに気づいた。クリストフは、コリーヌ(彼女の芸名)を市内へ案内したいと誘った。そして、2人は落ち合ってから、コリーヌはクリストフに台辞の暗誦の手伝いをしてもらった。クリストフは、才能と幼稚さとを共にそなえている彼女に驚いた。彼女は、正当な感動的な台辞回しの中になんの意味も含まない言葉を言うことがあった。するともう支離滅裂なものになった。やがて、散歩に行こうということになったが、クリストフがピアノの前にすわって少しばかり和音をひいた。コリーヌは、誰の作かねと聞いた。すると、クリストフは自分の作だと言った。そして、独国で鑑賞されないとくに新しい旋律を弾くと、彼女はも1度ひいてくれと頼み、ほとんど間違わずその曲を歌い出した。 「あなたは、音楽家だ。」と彼は叫んだ。 初めは、田舎の歌劇に歌手として乗り出したが、巡回興行主から詩劇にたいする才能を認められて、その方へ向けられたと、説明した。彼は、「ひどい。」と言い、彼女が疑問(詩もやはり音楽の1つではないのかということ。)をもったので、彼女は彼の歌曲の意味を説明さした。彼女は彼に演奏してもらうのに飽きなかったし、また彼は、彼女に演奏してやり彼女の美しい声を聞くのに飽きなかった。不思議なことには、最も古典的で独国で最も賞美さるる楽節において、彼女は最も退屈がった。彼女は劇的な本能から、一定の熱情を忌憚なく描いた旋律を好んだ。彼が、最も重んじていたのも、やはりそういう旋律だった。けれども彼女は、クリストフが自然だと思っていたある種の粗暴な和音にたいしては、あまり同感し得ないことを示した。結局、朗吟法は拡大鏡のように自然の言葉を害うことが最も多いというのに、2人は一致した。コリーヌは、ある戯曲の音楽を書いてくれとクリストフに頼んだ。その芝居で彼女は、時々ある文句を歌いながら管弦楽の伴奏に合わして語りたいのだった。2人は、未来の計画を語り、別れた。 翌日、彼が訪ねてゆくと、コリーヌは鬘が合わないことなどを話した。クリストフは、彼女の容姿をほめ、仏語と独語と折衷的な言葉を使い、彼女ほど「淫麗」な人を見たことがないと、率直に述べた。ついに2人は出かけた。彼女のきらびやかな服装とおかまいなしの言葉とは、人の注意をひいた。彼女はすべてのものを嘲笑的にながめ、その印象を隠そうとはしなかった。彼は、彼女の無作法を少しも迷惑とせず、快く笑っていた。もはや、彼の評判は失墜しても大して惜しいものではなかった。2人は大会堂を見物に行った。コリーヌは高い踵の靴をはきたいへんな長衣を着ていたが、それにもかかわらず鐘楼の頂まで上がりたがった。塔の上でヴィクトル・ユーゴーの詩を朗吟したりした。2人は、会堂の中に降りていった。そこには、ハムレット見物に桟敷を共にした若い女が祈祷に我を忘れていた。それにクリストフは心打たれたが、声を掛けれなかった。そして、コリーヌと別れた。クリストフが家に帰ると、使いのものが来た。コリネットからの食事の誘いだった。そしてすぐ旅館へ出かけた。すると、彼女は南欧式の料理を1皿にこしらえようと考えたのだった。2人はいっしょに小さな客間へ上がった。しかし、仲間の人たちはいなかったので意外だった。それは、独国の習慣とはまるで違っていた。彼女によると、パリーではだれも皆自由だった。そしてパリーでは皆怜悧なので、各人が自由を利用し、1人としてそれを濫用するものがなかった。そして、彼らの唯一の滑稽な点はその理想主義にあるのであって、そのために彼らは世に知られた敏才をもってるにもかかわらず、他の国民から欺かれることがあった。コリーヌは、自分の祖国を独国人に愛させようと努めているばかりではなかった。自分自身をも愛させようと望んでいた。親昵のない1晩は、彼女にとってはしかつめらしくやや滑稽に思われたに違いない。また、彼は自分をよく愛してはいるが決して恋はしていないことを、それを見て取ったことは、仲のいい友だちとして恋愛なしに、自分もまた愛しだしたのであった。クリストフは、伊国式の微笑ーー温和さと機敏さと貪食的な重々しさとのこもった微笑をたたえてるその元気な顔、輝いている美しい眼、ふくらみ加減の頤、などをながめていた。それは、アーダを思い起こさせた。しかし、彼が愛したものは、南欧の性質だった。その時、桟敷で一緒になった仏国の若い女を認めた。しかし、会わずじまいになった。 翌日、マンハイムに出会った。その時、桟敷で一緒になった若い女がクリストフのために迷惑していることを知る。しかし、彼女に再会することなどまずない。そんなおり、コリーネと手紙の遣り取りをした。 クリストフは、彼女が若干の歌曲を歌いながら演ずるはずの戯曲のためにーー一種の詩的挿楽劇のために音楽を書こうと空想した。厚顔な衒学的なワグナー派新しい挿楽劇を排斥し、古い挿楽劇を飾りたてようとつとめた。クリストフは、コリーヌの批評を聞いために言葉を歌とを劇中で併合させ叙唱の中に結合させることは無意味ではないかという疑問をもっていた。彼の最初の試みはシェクスピアの夢幻劇かまたはファウスト第2部の1幕かに音楽の衣を着せることであった。しかし、どの劇場も乗り気ではなかった。音楽の世界と詩の世界とは、たがいに親しみのないひそかに敵意を含んでいる2つの国のようだった。詩の素養のないクリストフは、シュテファン・フォン・ヘルムートという廃頽派の大詩人を協力者にした。彼のもとへ自作のイフィゲニアを、もってきた。このギリシャ式の服をまとってる廃頽した東ゴートの、気障な文学ぐらい、彼の心に相反するものがなかった。しかし、詩人と音楽家は互いに理解しあえなかった。 そして、ワルトハウス、マンハイムとクリストフは、喧嘩になった。その2日後、イフィゲニアは、大不評となった。ワルトハウスの雑誌は、詩だけをほめ音楽についてはほとんど何も言わなかった。しかし、彼は宮廷へ伺候していたので1種の公の保護を受けていた。--がその最後の支持をも彼は、破壊しさることになるのだった。 〔私評〕 ①まずここで問題となっているのは、仏国という国を隣国人から見たらどのようなるかを問うているように思う。この場合、クリストフが仏国を考えることになる。初めはいい印象を持っていなかったかもしれないが、コリーヌとの出会いにより仏国のいい面を理解するようになる。(ロランにとっては、自国を客観的に捉えようとしているように思う。)また、クリストフの芸術にも影響し変革の原因ともなる。また、桟敷で一緒になった女はどのような意味を持っているのかが疑問。(度々登場するので) ②詩と音楽というものを仏国と独国とに対象化させより性格を鮮明にし、ロランの芸術感及び世界的平和にも暗に言及していく姿勢が感じられる。ロランの文体は、青春期の感受性をそのままぶつけてきて好感が持てるが、常に俗から免れていて若い叡智に満ち溢れていることも忘れてはならない。 |
第227回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年12月7日)
第227回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年12月7日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第四巻 反抗 Ⅰ「ぐらつく砂地」(後半) 発表者 清原 章夫 さん 1.あらすじ クリストフの演奏会は失敗に終わった。作品は、未熟でその場で理解されるには新奇すぎた。そして、聴衆はこの無礼な青年をこらしめることに、喜びを感じていたからだ。それまで彼の音楽に興味を持っていたように見えた人々も、彼に激励の言葉一つかけなかった。彼らの中でも誠実な人々は、彼の初期の愚劣な作品を愛したが、新作は愛することができなかった。 だが、失敗を認められない彼は、現在の自分を理解してもらうため、自分を弁明し、議論しようと欲した。そんな時、フランツ・マンハイムというユダヤ人銀行家の息子と知り合った。彼はクリストフに、自分達が作っている雑誌『ディオニゾス』に音楽評論を書いて欲しいと依頼した。クリストフは、最初当惑したが、なんでも言っていい権利を与えてもらうという条件で承諾した。 ある晩、マンハイムは、クリストフを晩餐に家へ連れてきた。クリストフは、はじめてユダヤ人の家に入った。彼の住む小都市でも、ユダヤ人に対する偏見と、素朴ではあるが不当な、ひそかな敵意があった。クリストフはこうした偏見を全然もっていなかった。自分の周囲に対する反抗心によって、むしろこの異民族に心を引かれていたが、この民族のことはほとんど知らなかった。 クリストフは、家に入った瞬間からフランツの妹のユーディット・マンハイムばかり見ていた。彼女は、美しく知性があり、望めばどんな学問にも成功するだけの頭脳を持っていた。彼女は、彼にピアノを弾かせた。彼女は音楽を好きではなかったが、理解はできた。そして、彼の音楽を聴いて、感動はしなかったが、彼の音楽が独創的なものであることは認めた。彼は、その晩は彼女としか話さなかった。しかし、彼はユーディットが思うほど、彼女に心を奪われてはいなかった。それは、アーダとの恋愛からまだ日が浅かったからだ。 しばらくして、ユーディットはクリストフが、ドイツ芸術とドイツ精神との偏見に対して、強硬な攻撃をしかけようと決心して、もしそれをどこまでも執拗につづけると、すべての人々を、また保護者までも敵にまわすようなことになるであろうと見抜いた。また、彼の目的は成功ではなく、自分の信念であること、そして彼は芸術を信じ、自分の芸術を信じ、自分を信じていることを知ると、もはや彼に興味を持たなくなった。クリストフも彼女の、利己心を、冷酷さを、性格の凡庸さを見た。また、彼ははじめ、他民族から独立しているこの力強いユダヤ人の中に、自分の戦いの同盟者を見いだせるものと期待していた。しかし、この民族は、世に言われているよりずっと弱いものであり、外部の影響に左右されやすいものと、彼は直感でそう思いこんだ。クリストフが自分の芸術のてこを置く支点を見いだしうるのは、まだここではなかった。彼はむしろ、この民族とともに、砂漠の砂に飲みこまれかかったのである。彼はこの危険をさとったので、また、その危険をおかすだけの自信が感じられなかったので、マンハイム家に行くのをぴたりとやめた。 雑誌は、最初のうちは万事調子よくいった。最初の評論の題は、『音楽の過剰』というものだった。 「音楽が多すぎる!諸君は自分を殺し、音楽を殺している。諸君が自分を殺すことは、これは諸君の勝手である。だが、音楽を殺すことは、これはやめてもらいたい!聖なる調和と低劣なものを同じ籠の中に投げこみ、たとえば諸君がいつもやっているように、『連隊の娘』による幻想曲とサキソフォーン四重奏との間に『パルシファル』の前奏曲を入れたり、あるいは黒人舞踏(ケーク・ウォーク)の一節とレオンカヴァルロの猥雑な曲をベートーヴェンのアダジオの両側においたりして、世にある美しいものを汚すのはゆるせない。諸君は音楽的な大国民だと自慢している。諸君は音楽を愛していると自負している。だが、どんな音楽を愛しているのだ?良い音楽をか?それともくだらない音楽をか?諸君はそのいずれにも等しく拍手を送っている。さあ、いよいよ、選択したまえ!本当になにを欲しているのだ?諸君はそれを知らない。知ろうと欲していない。諸君は決心することを、危険をおかすことをあまりにも恐れている…そんな用心など悪魔にくれてしまうがいい! ― 自分たちは流派を超越している、というのか? ― 超越しているとは、その下にあるということだ…」 こうした血気にはやった、過激な、そしてかなり悪趣味な大言壮語に、もちろん非難の叫びがあがった。だが、みなが対象にされていながらも、だれもはっきりそれとさされているわけではないので、だれも自分のことだと思う者はなかった。しかし、次の評論では、みなが槍玉にあがった。 真っ先にやられたのは指揮者たちだった。自分の町や、近隣の町の同僚の名前をちゃんとあげ、あるいは、名前をあげない場合には、だれとはっきりわかるようなほのめかし方をした。過去の偉大な芸術家たちを《古典的な人々》として解釈している国立音楽学校の大物たちに対しては、皮肉を浴びせた。名人芸の演奏家の機械的な演奏は、技芸専門学校の領分であるとして、批判すらしなかった。 次は歌手の番だった。彼らの洗練されない鈍重さと、田舎くさい誇張とについては、クリストフには言うべきことが胸につかえていた。特にメロディーの美しさが本質的である、古典的作品における歌のまずいことであった。人々は、詩を歌っていた。人々は、細部の閑却や、醜さや、音の間違いさえも大目に見ていた。作品の全体だけが、思想だけが大事であるという口実の下に。 「思想!それについて話してみよう。まるで諸君は思想を理解しているような顔をしている。…だが、思想を理解していようといまいと、どうぞ、思想が選んだ形式を尊敬していただきたい。なによりもまず、音楽は音楽でなければならない。いつまでも音楽のままでなければならない。」 彼は、芸術家たちを非難するだけでは満足しなかった。彼は舞台からおりて大口あけて演奏を聞いている聴衆をなぐりつけた。拙劣な作品に拍手するのを非難するだけでなく、立派な作品に拍手を送ることをもっとも非難した。例えば、ベートーヴェンの『荘厳ミサ』のあとではそれはとんでもないことだと。 彼は、批評界にも飛びこんだ。彼が子供のころ紹介された作曲家のハスラーに対して、秩序と原則に戻るように言っている愚かしい批評家を攻撃した。 「秩序だと!秩序だと!諸君は警察の秩序しか知らないのだ。天才は踏みかためられた道は歩かない。天才は秩序を創造し、自分の意志を法則にまでする。」 こうした、傲慢な宣言ののち、クリストフはこの運の悪い批評家をつかまえて、彼が近ごろ書いた愚劣な論説を全部取り上げて、まるで教師が生徒に対するようにいちいち訂正した。全批評界は侮辱を感じた。彼らは、毎日の新聞に、不実で、皮肉で、侮辱的な短文を繰り返し載せた。いつも名ざしはしないが、はっきりそれとわかるように、横柄なクリストフを冷やかしていた。 やがて人々は、彼の評論をこれからも載せるのであれば、他の編集者たちもクリストフ同様に非難せざるをえないとほのめかした。編集者たちはクリストフに、批評の調子をやわらげさせようとしたが、彼は全然調子を変えなかった。 マンハイムは、クリストフの主張と、この地方でもっとも進歩的なワグナー協会を結びつけたほうが有利だと思いつき、クリストフをワグナー協会に入会させた。しかし、そこは一つの音楽学校と同じように狭苦しく、また芸術会の新参者であっただけに、いっそう偏狭だった。クリストフは、マンハイムにワグナー協会から脱会すると叫んだ。マンハイムは、クリストフの作品を演奏するには、仲間や友人が必要で、それらが無くては、やがて誰も彼の作品を演奏しなくなるだろうと言った。クリストフは、それに答えて言った。 「それでも結構だ!じゃきみは、ぼくが有名な人間になりたがっているとでも思っているのかね?…なるほど、ぼくはそうした目的に向かって全力をつくしていた…意味のないことだ!ばかげたことだ!くだらないことだ!…まるで、いちばん卑俗な自尊心の満足が、光栄の代価であるあらゆる種類の犠牲―たとえば、倦怠、苦痛、恥辱、堕落、恥ずべき譲歩などの償いででもあるかのようにね!もし、今でもそうした心配ごとにぼくが頭を悩ましているとすれば、悪魔にさらわれるがいい!もうそんなことはないんだ!聴衆とか有名とかいうことには、もうかかわりたくない。有名なんて、卑しいくだらないことだ。ぼくは一人の私人でありたい。自分のために、自分が愛している人々のために生きたい…」 その間にも、クリストフは雑誌『ディオニゾス』で、激しいたたかいをつづけていた。彼はもう批評の仕事にはうんざりしてやめたいと思ったが、彼を沈黙させようと努力している人々に降参したように見られるのがいやで、つづけていた。 マンハイムは、クリストフを黙らせるかわりに、クリストフが、自分の書いたものを決して読み返さないことを利用した。マンハイムは、クリストフの原稿を校正する際、正反対のことを言わせるように改作した。クリストフから嘲られどおしだったある音楽家たちは、彼がだんだんおとなしくなって、しまいにはほめてくれるようにさえなったことを見てびっくりした。クリストフの周囲では、人々の顔が明るくなり、彼のきらっている人たちが、道で挨拶するようになった。 2.ロランのユダヤ人観 クリストフが最初に知り合ったユダヤ人が、フランツ・マンハイムとユーディット・マンハイムだった。ロランもクリストフと同様に、ユダヤ人に対して偏見はなかった。彼には、エコール・ノルマル(高等師範学校)で知り合った、アンドレ・シュアレス(詩人・批評家)や作家のシュテファン・ツヴァイクのようなユダヤ人の親友もあったし、ドレーフュス事件のようにユダヤ人がいわれのない不正や憎悪の犠牲となったときには、常にその味方になっていた。また、彼の最初の妻クロティルドもユダヤ人であった。しかし、クリストフが言っているように、ユダヤ人が確とした信念をもっていないこと等、ユダヤ人の欠点も認識していた。 3.ロランの音楽評論 クリストフが発表した評論は、実際にロランが書いた評論や、日記、手紙を読むとロラン自身の考えや意見であることがわかる。また、新村猛氏によると、ここでのドイツ批判は、ゲーテやニーチェの自国に対する批判に負うところが大きかったそうである。(『ロマン・ロラン』新村猛著・岩波新書) ロランは、日記に演奏会の感想を多く残している。例えば、 「同じ演奏会で、パデレフスキーとかいう人が演奏。二十五歳から三十歳ぐらいで、背が高く、やせていて、頬がへこみ、理髪屋の店員のように髪をもじゃもじゃとさせ、その髪がブロンドで色が薄くてちぢれている。リストの『ラプソディー第十二番』をみごとに弾く。しかしベートーヴェンの『変ホ長調協奏曲』[皇帝]は、まったくぼくをいら立たせた。途中で時どきしゃっくりをする演奏。信念もなく、深い感情もない。この強く、はげしく、英雄的な音楽を、こっけいなほどだらけさせている。もうクラシック[ロマン派以前の作品]など演奏しないがよい。あまりにもポーランド的すぎる。」(『ユルム街の僧院』「一八八九年三月十日の日記より」蛯原徳夫・波多野茂弥訳 みすず書房) また、友人達へ出した手紙の中でも、演奏会の感想を書いている。これらの、公表することを目的としない文章には、ロランの率直な意見が述べられていて大変興味深い。 「先日のバッハとヘンデルの音楽会はかなりきれいでした。―隣に二人のドイツ人の夫婦がいましたが、私はおもしろくおもいました。ヘンデルが演奏されています。彼らは平然としています。バッハが演奏されます。依然たるものです。欠伸をはじめます。スカルラッティをやります。彼らはなかば眼ざめます。もう少しのところで、彼らはその曲を口笛でやりかねないところでした。ギルマン(オルガン奏者)の曲になります。おや!こんどは拍手をおくります。B・ゴダール(グノーのいちばんくだらない弟子の一人)の感傷的で味気ない作品になると、彼らの感激は無際限になります。彼らはほんとうに幸福です。―これがワーグナーのドイツです!」(『マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークへの手紙』「一八九二年四月三十日土曜日より」宮本正清・山上千枝子訳 みすず書房) 公表された評論では、クリストフの発言を連想させられるものが多い。 「最後に、ドイツで音楽を脅かしている最大の危険について述べたい。―ドイツには音楽が多すぎる。―これは逆説ではない。私は芸術にとっては芸術の度外れた過多ほど不幸なものが他にあろうとは思わない。音楽が音楽家を弱らせる。音楽祭につぐ音楽祭、これらのストラスブウルの祭りの翌日アイゼナハでバッハ祭がはじまった。それからその週末にはボンでベエトオヴェン祭。音楽会、劇場、合唱団、室内楽団が音楽家の全生活をのみこんでしまう。いつかれはひとりでいる時間、自分の内面の音楽を聴く時間があるのだ?このような慎みのない音楽奔流が魂の最後の隠れ家にまではいりこみ、その力をうすめ、その聖なる孤独とひそかなるその思想の宝を破壊する。」(『今日の音楽家たち』「フランス音楽とドイツ音楽」一九〇五年 野田良之訳) 4.ロランの受けた音楽教育 『ジャン・クリストフ』を読むと、ロランがどれだけ音楽を愛し、音楽と一体になっていたかがわかる。しかし、彼がエコール・ノルマルで学んだのは、歴史学であった。彼は、音楽をどのようにして学んだのだろうか。 最初の先生は、母であった。妹といっしょにピアノの手ほどきを受けた後、クラムシーに住み着いたポルタという亡命イタリア人について、やはり妹といっしょにピアノを学んだ。パリに引っ越してからは、母が娘時代に習っていたジョゼフィーヌ・マルタンに学んだ。彼女はモーツァルトの演奏が得意であった。これが、ロランが受けた技術的な教育だった。それに、加えて演奏会による教育があった。毎日曜の夕方彼は、音楽会を聴きにいった。パドゥール、コロンヌ、ラムールが指揮する管弦楽、ピアノではアントン・ルビンシュタインの獅子の爪、プーニョのびろうどのように柔らかい手、ディエメルの水晶のように澄んだ演奏、バイオリンではヨアヒムやイザイやサラサーテの魔法の弓によって、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ベルリオーズ、ワグナーの芸術に浸った。 そして、一八八八年の夏休みにスイスで出会った、ショパンの師匠フェルディナント・ヒラーの孫弟子の老侯爵ド・ブルイユポンによってベートーヴェンの扉を開く鍵を与えられた。ロランは、彼に自分の音楽への認識を高めるために忠言を求めた。 「パリではほんとうにあなたのためになる先生はみつからないでしょう。―しかし何よりもまず、オーケストラでベートーヴェンの交響曲を聴きなさい!(それは彼の言葉を待つまでもなかった!)あなた自身で自分の教育をしなさい!一つか、二つか、また三つの作品に専心しなさい。それを掘り下げなさい、その作品にふくまれているすべてのものを発見しなさい、それらの作品を理解しなさい、それらをめとりなさい!交響曲の音楽会から帰ったら、音色の効果をピアノで再現しなさい、音の出し方やヴィヴラートを長く研究しなさい。あなたのメカニズムですが、それはすでに見事です、それを自分で磨きなさい、しかし極端にならないように!」(『回想記』宮本正清訳 みすず書房) ロランのピアノ演奏はかなり高い水準に達していた。また、作曲もしていたが、楽譜を公けにしなかった。あるレコード会社から、未発表のピアノ・ソナタの自作自演による録音を求められたが、固く断ったそうである。 |
第225回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年10月26日)
第225回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年10月26日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第四巻 反抗 Ⅰ「ぐらつく砂地」(前半) 発表者 清原 章夫 さん 1.あらすじ ゴットフリートによって危機を脱したクリストフは、一年来彼を束縛していた恋の情熱から脱却して自由になり、幸福を感じていた。 彼は再び作曲の仕事をはじめた。楽想は汲み尽くせないほどあふれてきた。彼は自分の力を自覚したと同時に、それまで、尊敬していたあらゆるものを、初めて直視した。 彼は市立音楽堂の音楽会へ行った。プログラムはベートーヴェン『エグモント序曲』ヴァルトトイフェルのワルツ、ワグナー『タンホイザー』の中から『ローマへの巡礼』、ニコライ『陽気な女房たち』『アタリー』のなかからの『宗教的なマーチ』『北極星』による一幻想曲、シューマンとブラームスの歌曲だった。これらの曲の演奏を聴いているうちに、クリストフはだんだんあきれてきた。そして突然、万事が嘘だと思われだした。彼がもっとも愛していた『エグモント序曲』までがである。それは、演奏家や聴衆のせいでなく、作品そのものの中に、ドイツ思想が水のそこでまどろんでいるのを見た。 彼は家に帰り、「神聖視されている」音楽家たちの作品をあらためて読み直した。そして彼がいちばん愛していた巨匠たちの中のある人々が嘘をついているのに気づき驚いた。ドイツ国民の芸術的至宝とされるものの中に、おびただしい凡庸さと虚偽が見出され彼は唖然とした。吟味に耐えたものは、ほんのわずかだった。最愛の作品の中にこれらの欠点を見た時、最愛の友を失ったかのような気持ちになり、彼は泣いた。 例えば、メンデルスゾーンには、ゆたかで空虚な憂鬱、お上品な幻想、分別たっぷりの虚無があった。ヴェーバーは、彼の心情の乾燥と、たんに頭脳だけの感動があった。リストはサーカスの馬術師であり市場の大道商人だった。シューベルトは、自分の敏感さにおぼれているかのようだった。偉大なバッハでさえ、虚偽と、流行かぶれのつまらない点があり、ベートーヴェンあるいはヘンデルのような人々の作品のなかに吹きわたっている強壮な外気が彼の音楽にはなかった。そして、クリストフは古典の作曲家たちの作品において、自由が欠けていることが不満であった。 だからといって、彼が浪漫派の人々にはいっそう寛大だというわけではぜんぜんなかった。奇妙なことに、彼をもっともいらだたせたのは、例えばシューマンのように、もっとも自由でありもっとも自発的であり、たんなる組み立て師であることがもっとも少ないと自称した人々であった。シューマンの実例からクリストフが理解したドイツ音楽の最悪の虚偽は、ドイツの音楽家たちが少しも実感していない感情を表現しようとするときにではなく、彼らが実際に感じた諸感情を表現しようと望んだ時に、むしろはるかに多くあらわれるのだ。ドイツの音楽家が素朴で信頼心に充ちていればいるほど、ますますドイツ魂の弱点、その不確かな基礎、そのふわふわした感じかた、独立的率直さの欠如、やや陰険な理想精神、自分自身を直視することの無能力を示すことになる。 さらに、クリストフはワグナーの作品を読みなおしてみて、歯ぎしりをした。『ニーベルンゲンの指輪』の「四部作」には、あらゆる種類の嘘―嘘の理想主義、嘘のキリスト精神、嘘のゴチック精神、嘘の伝説、嘘の神性、嘘の人間性がつまっていた。あらゆる因習をくつがえそうと気負っていたこの作品ぐらい大きな因習が誇示されているものはなかった。 だが、誰がクリストフ以上に、彼らを愛しただろうか。シューベルトの善意を、ハイドンの無垢を、モーツァルトの愛情深さ、ベートーヴェンの英雄的な偉大な心を感じた者があったであろうか。ヴェーバーの森のそよぎの中に、またバッハの音楽のかずかずの大伽藍、その大きな影の中に、彼以上に敬虔な気持ちで魂を潜めた人間があったろうか。 しかし、クリストフは彼らの嘘に苦しみ悩んだ。かつて夢中になって彼らを信じたことについて、自分自身を、また彼らを恨んでいた。そしてそれはいいことだった。子供は教育や周囲で見聞きすることによって人生の本質的な真実にまじっている実に多くの嘘と愚かしさとを吸い込むので、健全な人間になろうと望む青年がまず第一にしなければならぬことは、すべてを吐出すことである。 それ以降、クリストフは自分の感情を隠すようなことはしなかった。会う人ごとや、演奏会の真最中に作品や人物に対して途方もないことを言っては人々を怒らせた。彼を恨む人々は、彼の父方がフランドル地方の出である、純粋なドイツ人でないことを思い出し、この他国からの移住者が、国家的栄光に難癖をつけることは、別に意外なことではないと思った。 クリストフは、自分の作品を音楽会で発表することにした。練習の際、オーケストラの団員は自分たちが演奏している作品についてまるきり理解していなかった。また、彼らはこの新音楽の奇抜さに狼狽させられていたが、自分の意見を作りあげる暇と能力がなかった。クリストフの自信は、団員たちを威圧していたし、彼らは従順でよく訓練されていたので練習は問題なかった。 しかし、歌曲を歌う女性の独唱者だけは、自分のやり方をとおした。クリストフは、彼女の劇的な力をもう少し抑制して歌うようにたのんだが、したがわなかった。ついにクリストフは、歌曲はプログラムから引っ込めてしまうと言ったため、最後の練習の際、彼女はおとなしく彼の言うとおりに歌った。 演奏会の当日になった。大公が来られなかった。また聴衆も、クリストフが子供のころの音楽会は満員だったのに、会場の三分の一は空だった。クリストフはまだ十七才だったが、聴衆は半ズボンの子供のほうが興味があったからだ。 序曲がはじまった。クリストフは指揮をしながら、聴衆の完全な無関心を感じとっていた。次に交響曲が演奏された。この曲に対しても聴衆は無感覚で、プログラムに読み耽けっていた。彼は終わりまでつづけるのが苦しく、いくたびとなく、指揮棒を投げ捨てて逃げ出したくなった。曲が終わり丁重な拍手が起こった。拍手がやんだときに、三つか四つの、ばらばらの拍手が起こった。だが、いかなる反響も呼び起こさなかった。そのため、空虚がいっそう空虚に感じられた。この出来事のおかげで、聴衆は、自分たちがいかに退屈していたかをかすかに理解した。 歌曲がはじまった。聴衆は独唱者を待っていた。彼女は前日クリストフが与えた注意を無視して自己流に歌いはじめた。伴奏していたクリストフは怒り、ついに途中でピアノをやめた。彼は氷のように冷たい調子で言った。「やり直そう!」彼女は彼の威厳ある態度に圧倒され、初めから歌い直した。彼女が歌い終わると、聴衆は熱狂して呼び戻した。彼らが拍手しているのは『歌曲』ではなく、この有名な歌手に対してであった。聴衆はアンコールを求めたが、クリストフはきっぱりとピアノのふたをしめてしまった。 最後の曲はクリストフのオーケストラの同僚であるオックスの『祝典序曲』だった。この平凡な音楽で気持ちのくつろいだ聴衆は、クリストフを非難する意味で、盛んにオックスに拍手喝采を送った。彼は二、三度舞台に呼び戻された。そしてこれが音楽会の最後だった。 新聞の批評では、歌手の技量をほめ、『歌曲』のことは、ただ参考までに述べるにとどめた。クリストフの他の作品については、どの新聞もやっと数行それも似たり寄ったりのことを書いていた。「…対位法には通じている。表現は複雑である。霊感が欠けている。メロディーがない。頭脳で作られていて、心で作られていない。誠実さがない。独創的になろうとしている…」―そして、そのあとに、モーツァルトや、ベートーヴェンや、レーヴェや、シューベルトや、ブラームスなどの《独創的になろうと考えないでしかも独創的である人々》の独創性、つまり真の独創性についての一項が書き添えられてあった。 要するに、クリストフの作品は、もっとも好意ある批評家からは完全に理解されず、彼を愛していない批評家からは陰険な敵意を受けた。最後に、味方の批評家にも敵の批評家にも導かれない大衆のあいだにおいては黙殺された。大衆は、自分自身の考えにまかされると、なにも考えないものである。 2.ロランとクリストフ クリストフのモデルはベートーヴェンだと言われているが、ロランは、この作品の中の、クリストフとベートーヴェンとの伝記的な類似は、第一巻「曙」における、クリストフの家庭のいくつかの特徴だけに限られていると言っている。また、「広場の市」にでてくるクリストフは、若い日のロランそのままである。そして、後に登場するオリヴィエの性格や経験は、ロランのそれと非常によく似ている。このように、ロランは自分自身をこの小説の中の登場人物に投影している。 そこでこの「ぐらつく砂地」での、クリストフのドイツやドイツ音楽についての過激な発言もまた、ロラン自身の考えなのか知りたいと思った。そこで「ぐらつく砂地」を含む『ジャン・クリストフ』の第四巻「反抗」が発表されたのが一九〇六年なので、そのころ発表された他のロランの著作を調べてみると、一九〇八年に音楽評論集『今日の音楽家たち』が刊行されていた。その中に、以下のように、クリストフの発言とほぼ同じ内容の記述があったので、ここでのクリストフのドイツやドイツ音楽についての批評は、執筆当時のロラン自身の考えであることがわかった。 「今日のドイツ人は昔のドイツ人と共通なものはもはやほとんど何ももっていない。 私は単に大衆のことをいっているのではない。今日の大衆は全体として《ブラアムス派》であり、ウァグナア派である。大衆に意見はない。かれには何でもよいものなのだ。ウァグナアに喝采もするし、ブラアムスにもアンコオルを要求する。大衆は、本質においては、軽薄で、センティメンタルであると同時に粗野である。ウァグナア以来、大衆のもっともいちじるしい特色は、力の崇拝である。『マイスタアジンガア』の終末を聴いて、この傲慢な音楽、この帝国的行進がどれほどこの健康と名誉をはらんだ、軍隊的でブルジョア的な国民を反映しているかを感じた しかしもっとも注目すべきことは、ドイツの芸術家がどれほど、日に日に、かれらの偉大な古典派、とくにベエトオヴェンへの理解力を失いつつあるかという点である。」(『今日の音楽家たち』「フランス音楽とドイツ音楽」一九〇五年 野田良之訳) 「ひじょうに教養の豊かなこの芸術家(サン=サアンス)が、いかに自分の学識に煩わされるところが少なく、いかにペダンティスムから自由であるかは注目すべきことである、―このペダンティスムこそドイツ芸術の傷手であり、もっとも偉大な連中もこれから免れられなかった―病膏肓にいたっているブラアムスは言わずもがな、シュウマンのようなもっとも心を魅する天才たちや、バッハのようにもっとも力強い人々においてもまたそうなのだ。」(『今日の音楽家たち』「カミィユ・サン=サアンス」一九〇一年 野田良之訳) 「この世にはブラアムスのように、ほとんど全生涯を通じて、過去の亡霊でしかなかったような人間もいる。」(『今日の音楽家たち』「ベルリオオズ」一九〇四年 野田良之訳) 3.ソフィーアへの手紙 ロランは、『ジャン・クリストフ』のグラチアのモデルとなった、イタリア人、ソフィーア・グェリエーリ=ゴンザーガと一九〇一年から一九三二年の三十一年間文通していた。この膨大な量の手紙の中で、ロランは、心情告白ともいえる人生観や芸術観を語っている。その手紙の中から『ジャン・クリストフ』の第四巻「反抗」に関して書れているものを掲載する。 「『ジャン=クリストフ』の第四巻はまだ出ていません。<カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ>から三冊になって出かかっていますが、それは追ってオランドルフから一巻にまとめて出ることになっています。初めの分冊数巻をあなたにお送りしなかったのは、まず全体をみないうちに作品が批判されることを私はあまり好まないからです。それに、少しあなたのお気にさわるかも知れない心配のあるページを、あまり急いであなたにお目にかけたくないわけです。なぜかというとそれらのページは、あなたが愛するドイツにたいして極度にきびしいからです。私もドイツを愛します、そしてもっと後でドイツの美点をみとめるつもりです。しかし私はまずそのことを言わざるをえなかったのです。それに、クリストフがこうと思いこんだときには、それに反対することは容易ではありません!…それに劣らず激烈な問題を扱ったページがあります。それはユダヤ人について語るところです。現代の社会を描写しようとするときには、今日の芸術と思想において、とりわけドイツとフランスで、じつに重要な役割を演じているユダヤ人を除外することは私には不可能です。私は彼らについて語らなければなりません。そして私はまったく公平に、しかしできるかぎりまったく率直にそれをこころみるでしょう。それはきっと憤慨させるにきまっています。しかし私は平気です。―それに、イスラエル人たちさえも、私が尊敬している多数の人々は、私の言うことは正しいし、私の人物たちは真実だといっています。」(『したしいソフィーア』一九〇六年 宮本正清・山上千枝子訳) |
第224回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年9月28日)
第224回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年9月28日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第三巻 青春 Ⅲ「アーダ」 発表者 清原 章夫 さん 1.あらすじ クリストフは十六才になった。その夏、クリストフと同じ建物の地階に住む二十才の寡婦ザビーネに強く心をひかれ愛するようになる。しかし、彼の愛を伝える前に、彼女ははかなくも流行性感冒で亡くなってしまう。深い悲しみを胸に、ザビーネを思い出すため、彼女の兄が住む農家(ザビーネとクリストフとが、隣り合わせの部屋に泊まった)が見える丘の上へ行くのが、いつもの散歩の目標になる。 しかし、彼は自分の青春にさからうことはできなかった。「生命の樹液は、新たな烈しさをもって彼の衷に昇ってきた。」(以下「 」内 ジャン=クリストフ、片山敏彦訳、みすず書房)彼の内部では、すべてが生を讃えていた。「心の中に死を、肉体のなかに生をもって、悲しさに充ちている彼は、あたらしく蘇る力に―生きることの、夢中な、不条理な歓喜に自分をゆだねた。」こうして、彼は悲しみを乗り越えた。 秋になった。ある日曜の午後、散歩の途中でクリストフは、塀の上に登って李をちぎって食べているブロンドの少女に出会った。彼女の容姿は「彼女の丸顔は、そのまわりに日光の金粉をふりまいているような、ちぢれた金髪にかこまれ、豊かな頬はばら色で、眼は大きくて青く、鼻はいくぶん太く、先が無遠慮に反り返っており、小さな紅い口は白い歯を見せており、強い糸切り歯が突き出ている。食いしん坊の頤。そして彼女の容姿全体が豊麗で、大きくて、肉づきと恰好とがよくできており、しっかりとした作りであった。」といった魅力的な少女であった。 彼女は婦人服店の店員であった。名前はアーデルハイドだが、友達からはアーダと呼ばれていた。彼女は友人達と散歩の途中であったが、友人達とはぐれてしまったのだった。やがて、クリストフとアーダは友人達と宿屋で合流し、一緒に食事をした。友人はクリストフの音楽家としての評判を知っていて、彼に敬意を示した。そのことは、アーダを感激させた。 食後、クリストフとアーダは友達と別に二人で帰りの船に乗るため、船つき場へ行ったが、終発に間に合わなかった。二人は、河岸にある小さな宿屋の部屋で陶酔の一夜をすごしてしまった。「ちらちらとまたたいて光っていた庭の灯が消えた。すっかりの光が消えた…夜…深淵…光もなく、意識もない…《存在》。《存在》の力、幽暗な、そして、むさぼり飲む力。全能の歓喜。おしつぶす力の歓喜。空無が石を吸い寄せるように、生命全体を引き寄せる歓喜。思想をしゃぶる欲望の竜巻。夜の中をころがっていく、陶然たる星々の、不条理な夢中な《法則》…夜…溶けあっている呼吸。溶けあっている二つの肉体の、きんいろの温み。自失の深淵―そのなかに、ともに落下する…かずかずの夜であり、数百年の時間であり、死であるいくつもの瞬時であるような夜…夢を共有し、目をつぶって言葉をいう。なかば眠りのなかでたがいに探しあうはだかの足の、かすかな、そしてひそかな接触。涙と笑い。物たちの空無のなかで愛しあい、まどろみの虚無をともに分け持つことの幸福。」夜が明ける。「彼は目がさめる。アーダの眼が彼を見ている。彼らの腕はからみあっている。彼らの唇がふれる。数分間を、生の全体が通る。―太陽の照る、大きな、静かな日々が通る…《私はどこにいるのだ?そして私は、二人なのか?自分の存在をもう私は感じていない。無限なものが私をつつんでいる。私の魂は、ギリシャの神々のような静かさを湛えた、大きな、澄んだ眼をもつ一つの彫像の魂だ…》彼らはふたたび眠りの数百年のなかに沈む。そして夜明けのなじみ深いいろいろな音―遠くから聞こえて来る鐘、過ぎて行く一そうの小船、水の滴がたれる二つの櫂、路上の足音、それらの音が、彼らの眠たい幸福を乱すことなく愛撫し、彼らが生きていることを彼らに思い出させ、そして生きていることの味を、彼らに味わわせる…」 クリストフは遠足するときにはいつでも、アーダ達といっしょだった。また二人で、劇場や、美術館や、動物園に行った。また、クリストフは、アーダの家を訪ねるのをつねとした。クリストフはアーダを知れば知るほど、アーダが分からなくなった。彼女の関心は、食べること、飲むこと、踊ること、叫ぶこと、笑うこと、眠ることであった。つまり、食いしんぼう、ぶしょう、快楽好きで利己主義だった。また、健康なのに自分の健康についてくよくよと心配し、ばかばかしいほど迷信的だった。さらに、感傷的で、クリストフが許せないほど誠実でなかった。こんな欠点にもかかわらず、クリストフは彼女を愛していた。そして彼女もクリストフを愛していた。「アーダは彼女の愛情においてはクリストフと同じだけ誠実で本気であった。精神的共感に基づいていないからといって、決してこの愛がそれだけ真実でないというわけではなかった。この愛は、低劣な熱情とは無関係であった。それは青春のみごとな愛であった。そして、それははなはだ官能的ではあったが野卑ではなかった。なぜならその愛のなかでは万事が若々しかったから。その愛は、素朴であり、ほとんど貞潔であり、たのしさの熱烈な無意識さに洗われていて純粋であった。」 彼らのことは、隣り近所のみんなが、彼らの出会いの後にすぐに知った。アーダが自慢下に吹聴したからである。小都市では大きな噂になり、宮廷では、クリストフが自尊心を欠いているという非難がわき、中産市民層の人々は、厳格に批判した。彼はいくつかの家庭で音楽を教えることをことわられ、他のいくつかの家庭の母たちは、今後彼が娘に授業するときには、立ち合っていなければならないと思った。特に、フォーゲル一家は、クリストフとローザとの結婚がもう見込みがないと確信していきりたっていた。そして、フォーゲル夫人は、クリストフの母ルイーザに、クリストフの素行について非難した。悲しむ母を見てクリストフは、フォーゲル夫人に抗議し、今後二度とふたたび彼らの敷居はまたがない、と声明した。 その頃アーダは彼女の恋に飽きてきた。「彼女は、クリストフみたいに豊かな性質のなかで、たえず恋ごころを更新してゆくことができるほど十分に聡明ではなかった。彼女の官能と虚栄心とは、この恋のなかから、彼女が見つけることのできるすべてのたのしさを取り出していた。いまではもう後に残っている彼女のたのしみとは、この恋を破り捨てることのたのしみだけだった。」彼女はクリストフの道徳的信念を攻撃した。例えば、「私を愛してる?」「たしかに!」「どれだけ愛しているの?」「愛することができるだけたくさん」「それは、たくさんではないわ…結局!…私のためになにをしてくださる?」「きみののぞむすべてのことを」「そのためなら悪いことでもできる?」もちろんクリストフはできないと答えた。さらに「もし私がほかの人を愛しても、やっぱり私を愛する?」「ああ!それはわからない…きっとそうなったらきみを愛さないだろう…とにかくいずれにせよ、そうなったばあいにきみがぼくに、もう愛さないと告げるよりも先に、ぼくがきみにそう告げることはないだろう」このような議論をアーダは何度も繰り返した。彼は悩んだが、アーダのところを立ち去って十分後には、すべてをけろりと忘れ、再びアーダのところに行きたくなった。彼はアーダを愛していた。 長いこと連絡のなかった末弟のエルンストが、職を無くし、病気になってある日突然、クリストフと母のもとに帰ってきた。しばらくしてエルンストの健康は回復した。ある日曜日クリストフはエルンストを、アーダとアーダの友達ミルハとの郊外遠足に誘った。その時、エルンストがずいぶん前からアーダとミルハの知り合いであったことを知らされ、クリストフは驚いた。その日以後、遠足ごとにエルンストもいっしょに行った。エルンストはミルハに熱中しているらしかった。 彼らは、長い道のりの散歩を何度もともにした。ある日、クリストフが他の三人を残して先に歩いて行ったとき、残りの三人は何かを示し合わせた。次の遠足の際、森の中で道が二筋にわかれていた。クリストフは一方の道をとり、エルンストは、もう一つの道が、丘の頂上への近道だと主張した。彼らはそれぞれの道で競争することにした。アーダはエルンストの意見に賛成したので、アーダとエルンストがいっしょに行くことになり、ミルハはクリストフに同道した。結局、クリストフとミルハが勝った。しかしアーダとエルンストはいつまでたっても来なかった。クリストフはミルハからアーダとエルンストが不倫の行為をしていることを聞かされ、はき出したいほどのいやな気持ちのあまりに、身ぶるいして泣きじゃくった。「アーダはクリストフがまた戻ってくるかと思って二日待った。それから不安になりだして、愛情の言葉を書いたはがきを彼に出したが、それには、こないだの出来事についてはなんにも書いてなかった。クリストフはぜんぜん返事を書かなかった。言い表す言葉も見つからないような深い憎しみを、彼はアーダに感じていた。彼は自分の生活からアーダを抹殺してしまっていた。アーダという存在は、彼にはもうないのだった。」 クリストフはアーダから解放されたが、自分自身から解放されていなかった。彼は過去の力強かった心の落ち着きを取り戻すことができなかった。彼は精神上の危機を通っていた。もうどんな仕事も手につかなかった。そして虚無感から脱するための力も無くしていた。彼は父と同じように酒に酔っぱらうことをおぼえた。 ある晩、彼が居酒屋から出てきたとき、偶然伯父ゴットフリート(神の平安の意)に会う。伯父は彼を見つめて「こんばんは、メルキオールさん」と言った。彼は伯父がもうろくしたと思ったが、ガラス戸に映る自分の姿に、父メルキオールの姿を認め狼狽した。彼はその夜、寝床につかなかった。 翌朝、ゴットフリートはクリストフをメルキオールの墓の前に連れていった。そして祈った後、墓地を出て野道を進んだ。そのときクリストフは泣きだし、自分の恥ずべき点、自分の卑怯さ、心に誓ったことをちっとも実行しなかったことについて話した。ゴットフリートは地平線にさし昇った太陽を指さして言った。「明けてくる新しい日にたいして敬虔な心をおもち!一年のち、十年のちにどうなっているかを考えることはやめるがいい。今日というこの日のことを考えるがいい。理屈はみんな、まずさしおいてしまうがいい。いいかい、みんなだよ。美徳のことを論じる理屈さえもみんなよくないよ。ばかげているよ。悪い結果をもってくるよ。人生に無理な力を加えてはいけないよ。今日を生きることだよ。その日その日にたいして敬虔でおあり。その日その日を愛して尊敬して、なによりもその日その日を凋ませないことだよ。その日その日が花咲くのをじゃましないことだよ。今日みたいな灰いろのくもりの日でも、それでも愛するがいい。くよくよしてはいけないよ。ごらん。いまは冬だ。何もかも眠っている。親切な大地はやがてまた目をさますだろう。自分もまた一つの親切な大地であるがいい。そして大地らしく辛抱づよくあるがいい。敬虔でおあり。辛抱づよく待たなければいけないよ。おまえが善いなら、万事善いだろう。おまえが善くないなら、弱いなら、おまえが成功しないなら―いや、それでもやっぱりそれなりで幸福でなければならないのだ。そのときにはおまえはそれ以上どうにもならない。それならもうそれ以上意志してもしかたがあるまい。できないことのためにくよくよして心をくもらしたって何になるものか。人間は、自分にできるだけのことをしなければならないのだ…Als Ich kann(私にだけのことを)[訳注―画家ヴァン・エックが標語とした句]」伯父と別れたクリストフは、伯父から聴いたばかりの言葉を心にくりかえした「自分にできるだけのことを」そして微笑してこう思った「…そうだ…とにかく…これだけでも十分だ」彼は町に帰った。北風にふかれ凍てついた大地は、ある峻烈な喜びを感じて歓呼しているかのようだった。そしてクリストフの心もまたその大地のようであった。彼はおもった。「ぼくもまた眼をさますだろう」身を切るような寒い風が吹いた「吹け、吹け!…このぼくを、おまえのしたいようにしろ!…ぼくをはこんでいけ!…ぼくがどこに行くかをぼくは知っている」こうしてクリストフの危機は去った。 2.ロランにとっての「存在」と「魂」 クリストフとアーダが過ごした夜の描写で、ロランは『存在』と『法則』と『魂』という言葉を二重括弧で強調している。そこでロランにとってこれらの言葉にどういう意味が込められているかを調べた。『法則』についてはわからなかった。『存在』については、『ロマン=ロラン』(村上嘉隆、村上益子共著、清水書院)にロランのつぎの言葉が引用してあった。「ぼくはもはや『実体』を単に『理性』の一表象として思い浮かべない。それ自体としてそれ自体によってであり、それのうちに全体があり、それによって全体がある『存在』をぼくは感じる。いろんな感覚がぼくをその啓示に導いたのだ。ヴィーナスの前での恍惚、『パルジファル』の前奏曲、『トリスタン』(いずれもワーグナー)それは爆発的な実在感だ…。ぼくは『存在』を次のように定義づける。すなわち、すべて、全体であるもの、全体感覚、全体であり完全無欠であり自由であるという感覚、個別的でない感覚なのだ」と。また『魂』についても同書のなかで、『ロランは、ベートーヴェンの「ゲレルトの宗教歌曲」、「遥かなる恋人によす」などを批評して、「それは音楽ではありません。それは純粋な魂です」といっている』と記述してあった。 3.アーダのモデル ロランがかかわった女性のなかにアーダのモデルになった女性がいたか調べてみた。『ロマン・ロラン』(新庄嘉章著、中公新書)にロランの最初の妻クロティルドに関する次の記述があった。『クロティルドは、ジャクリーヌだけではなく、この作品に登場する他の女性たちにもその影を落としている。たとえば「青年」に出てくるアーダ。彼女は平気で嘘をつく癖があり、また自分の恋人を堕落させて面白がるといったところがあった。もちろんそこには小説的な誇張もあるが、ロランがアーダを描いたときには、きっと眼前にクロティルドの姿がちらついていたにちがいない。』 4.クリストフの名前の意味 クリストフの名前に込められた意味を『ロマン・ロラン―その根本思想―』(蛯原徳夫著、アポロン叢書)より引用する。「ジャン・クリストフ・クラフトのジャンは、ドイツ語のヨーハン(JOHANN)であり、予言者ヨハネを意味する。救世主の到来を告げ、その先駆的な役割を果たす者である。クリストフも人類の救いである生命の更新を告げ、新しい日の先駆者としての使命を生きる。 クリストフとはギリシャ語で「キリストを担ぐ者」すなわちキリスト奉持者を意味し、この名の聖者クリストフォルスは、紀元二五〇年頃デキウス王の治世に、はじめは旅人を肩にのせて川を渡す渡し守であったが、後に篤信なキリスト教徒となり、捕らえられてはげしい迫害に屈せずに殉教したという。伝説によるとある日、幼児のキリストを肩にのせて川を渡ったが、その幼児がしだいに重さを増し、しまいには忍びきれないほどになったが、ついに耐えて対岸へたどりついたとされている。この作品のクリストフにになわされたその聖者伝説の意義は、時代を此岸から彼岸へ渡すこと、つまり宇宙的な生命の展開のはるかな流れのなかで、一つの展開を次の展開へと引き渡すことである。 クラフト(Krafft)は、ドイツ語で力(Kraft)を意味する。この力すなわち生命力によって、人間に先見的にひそむ完成への衝動が、現実の向上意欲となってはたらく。」 |
第222回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年5月25日)
第222回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年5月25日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第三巻 青 春 ─ 第一章 オイラー家 報告者 中 西 明 朗 さん ◇は じ め に 「ジャン・クリストフの序文」から始まり、一回に一章ずつ読み進んできましたこのシリーズも、今回から第三巻「青春」に入ります。 巻のタイトルは片山敏彦訳では「青春」となっていますが、豊島与志雄訳および新庄嘉章訳では「青年」となっています。訳出の順から言えば豊島(1921)、片山(1955)、新庄(1969)となるかと思いますが、どれを優先すべきともいえません。どちらにしてもそれほど大きな意味の違いがないと言えばそれまでですが、何かこれについて訳者のコメントがないか探してみましたが見つかりませんでした。そこで私がかつて慣れ親しんだのが片山訳であったということでもあり、本資料では「青春」としておきます。 さて「青春」最初の章はクリストフが思春期の少年から青春時代へと精神的に脱皮していく過程がテーマですが、その前に生活に疲れてすっかり力を失ってしまった母ルイザのことと、今は亡きジャン・ミッシェルを対比しつつオイラー老人やその家族の様子が語られます。ここで百年後の今、私自身を含め、わが国で多くの高齢を迎えた人々が直面している老年期の問題がいくつか指摘され、すぐれた対処の方法が示されているように思います。 前回私は出来る限り若い人に読んで欲しいと申し上げたことに対して質問と論議がなされましたが、この章をみるとき、決して若い人たちだけに読まれるべき本ではないと言い直さねばなりません。 ◇ あ ら す じ クリストフの父メルキオールが死んで以来、すべてが生気を失い家庭の中は静まりかえっていた。彼はふたたび仕事に没頭してがんばりつづけた。二人の弟は家から出て、ロドルフは伯父テオドールの商会に入り、エルンストはライン川の船の乗組員として雇われていた。今となってはクリストフが生まれ育った家は母と二人で住むには広すぎたし父の借金の支払いも必要となったので、より質素で家賃の安い市場通りの3階にある小さな住居に引っ越すことになった。 引っ越しの準備にかかった母ルイザは、生活のあらゆる思い出がしみこんだ部屋や品々への愛着と、働き続けた疲れから気力をなくしてしまい、ぼんやり坐ったきりいっこうに片づかない。過去の遺物の中に座礁している哀れな魂に、クリストフは心を打たれ母をなぐさめ励まそうと、この日以来母親とできるだけ多くの時間一緒にいるようにつとめた。 引っ越しの当日、どしゃ降りの雨の中、彼らはフィッシャー老人が貸してくれた一台の馬車で、とぼしい家財道具を新しい住まいに運んだ。 夕刻、家主のオイラー老人の誘いで一家の人々の歓迎の集まりによばれた。オイラー老人の娘アマリア、その娘ローザをはじめ皆は、一斉に質問し、よく喋り、議論し、またルイザとクリストフの悲しみをいたわってくれた。二人は疲れきってしまうが孤独の思いは少しは薄らいだ。 オイラー老人は実直で多少潔癖過ぎで、道徳的ではあった。芸術に精通していると自負していたが、実際にはなにも知らなかった。 婿のフォーゲルの方は老人よりも教養があって、芸術界の動きをよく知っていたが、そのためにかえって始末が悪かった、というのは何事にも中傷的な判断と辛辣な皮肉を込めた調子でしか話さなかったから。 フォーゲル夫人(アマリア)は家庭のあらゆる務めを、神聖な義務として熱心に定められた通りに行う働きぶりで虚栄心を満たしていた。だがルイザにたいしてお節介が過ぎるのと、とにかく騒々しいことがクリストフには我慢がならなかった。この騒々しさを憎む気持ちが、クリストフを家の中でいちばん物静かな息子レオンハルトに近づけた。 レオンハルトは聖職者になるつもりだということをクリストフは聞き知っていた。そしてそのことに彼の好奇心は強くひかれていた。クリストフは宗教に対しては奇妙な状態にあった。彼はミサにでかけ、教会でオルガンを弾き信徒としての勤めを果たしてはいたが、神について、イエスについて十分な教育も受けず、また考えを整理することもできていなかったし、自分が神を信じているのか信じていないのか分からず悩んでいた。周囲の人に訊ねても、みな答えは要領を得なかった。またそのことを司祭にうち明けようと試みたが、かえってがっかりさせられた。 そんな矢先、彼は自分と同じ年頃の神を信じている少年レオンハルトを見つけてうれしくなった。彼自身も神を信じたいと思い、レオンハルトを散歩に誘って話を聞くことにした。夕食後、サン・マルタン修道院の回廊で、クリストフはいろいろ質問しレオンハルトもいろいろ語りつづけたが、結局話はかみ合わなかった。レオンハルトはクリストフの精神が、救いがたいほどに病んでいるとあきれ、クリストフは少しも納得できる答えが得られず相手の中に偽善を感じ敵意が募ってきた。 あたりが闇に包まれ鐘の音が響きわたったときクリストフは心の中がすべて変わり、もはや神はなかった、そして信仰が瓦解したことを感じた。 一家の中でクリストフが全然注意を払わなかったのが少女ローザだった。彼女は少しも美しくなかった。クリストフは自分が美しいどころか正反対なのに、他人に対しては、要するに面食いであって美しくない女性は存在しないも同然だった。 ローザにはこれといった長所はなかったが、少なくともクリストフがあんなに愛したミンナよりはすぐれていた。だが彼女はクリストフが逃げ回るほどのおしゃべりだったので、彼の好感は最初の出会いで消えてしまった。数日の間、彼女が親切を尽くそうとしたことが、逆にうるさがられ、三日目にはドアに鍵をかけられてしまった。それでも彼を悪くは思わなかったローザだが、自分ではどうにもならない醜さと、不器用さと、失敗のためにすべてが彼の機嫌を損ねてしまい冷たくあしらわれた。 ある日、ローザが庭のベンチに上り、物干しのロープをほどいて、クリストフの肩につかまってベンチから飛び降りようとしたとき、オイラー老人たちが小声で「似合いの夫婦になるだろうな」と言ったのをちらっと聞いたローザはびっくり仰天し足をくじいてしまった。翌日クリストフはこの禍いがいくらか彼にも責任があると思ったので見舞いにきて、初めてローザにやさしい態度をみせたがその後はもう彼女のことはまったく気にもとめなかった。ローザはクリストフのただの一瞥、一言があればあとは彼女の想像力で際限なくロマンティックな話を組み立てていった。彼女はクリストフの愛を得たい願いをあきらめなかった。そこで彼女はルイザに近づいた。いろんな用事を見つけてルイザに尽くした。ルイザもこの親切でにぎやかな娘がそばにいてくれることはうれしかった。ルイザはクリストフの子供の頃の様子をあれこれと話し、ローザはそれを喜びと感動をもって聞いた。クリストフが夕方帰ってくるとルイザはローザのことをしきりに褒めた。彼は母の顔つきがずっと晴れやかになっているのを感じ、ローザの親切に対して礼を言った。だが彼は彼女のことを思っていなかった。彼はその頃多くのことに心を奪われていた。彼には一つの大きな変化が内部に起こりかけていて、彼の存在の根底までもくつがえされつつあった。 クリストフは極度の疲労と不安を感じていた。頭が重く、耳鳴り、めまいがして、無気力になり、精神の集中ができなかった。夜も昼も彼の内のあらゆるものが動揺し、ばらばらになり、欲望の衝動が彼の中で暴れまわっていた。けだものじみた考えにとらわれ、彼の神も、芸術も、誇りも、道徳的信念も、ことごとく崩れていき、心の中の歯車の装置が狂ったように感じた。 ある晩、自分の部屋で机にひじをついて、ぐったりした麻痺した気持に沈んでいた。虚無が一刻一刻深くなっていき、とつぜん背後の中庭に水門が開かれたように、激しい雨が音をたてて降り出したと思うと、彼の中に幻覚が現れ緊張が走った。閃光に目がくらみ、夜の奥底に彼は神を見た。それは同時に彼の内なる神であった。神が部屋の天井、家の壁を破った。存在の限界を神が取り払った。世界のあらゆるものが滝のように神の中に流れこんで行った。クリストフもまたそこになだれ込み落ちていった。彼は息もつけずにこのなだれ込みに酔っていた。 危機が去ると彼は深い眠りに落ちた。やがて彼は新しい世界を見出した。生き物たちがうごめいている草の中や、昆虫どもがどよめいている木々の蔭に、寝ころがって蟻や蜘蛛やバッタや鎧虫やの動きを見つめた。それまでは彼には理解できない不思議な機械だった虫たちも、今は同じ生命の躍動を満々とたたえて流れる大河のなかの仲間だった。 日々の新しい循環がはじまった。彼は人生を閉じこめる窮屈な規則など笑いとばしていた。 エネルギーに満ちあふれたクリストフは、何もかも壊してしまいたい狂熱的な発作にかられた。 ある夕方、森のはたを散歩していたクリストフは、近くの草はらに肌も露わな姿で、刈り草を乾かしている一人の娘に魅惑された。彼女が近くまで来たとき衝動的に、彼女に飛びつき、抱きしめ、接吻した。彼女は身体をふりほどき、叫び、唾を吐き、彼を罵り、石を投げつけ、逃げていった。クリストフは自分が無意識でした行いが恐ろしく、恥ずかしく、嫌悪感をおぼえた。 彼は家に帰って数日間部屋にこもって外に出なかった。野原に出ると再びあの気狂いじみた風に襲われはしないかと恐れていた。だが彼はその敵がしのびこんでくるには、閉めきった鎧戸に視線が通るだけの僅かな隙間があれば十分だということに気付いていなかった。 ◇興味深く感じられたポイント 1、老後に夫婦の一方が残されたとき心を明るくするためのヒント 「ルイザはメルキオールからいじめられたことはすっかり忘れてしまって、いいことしか覚えていなかった。自分で説明のつかないものは神様にその説明を任せていた」(シ338/ト334) 人生を振り返るとき、愚痴や恨みごとばかりに心が捕らわれるよりも、楽しかったこと、よかったことをたくさん思い出せる方が、心を明るく保ち、落ち込まないで居られるコツであると言っても誤りではないでしょう。性格的なものもありますが、意識的にそうすることは可能だと思うし、心の持ちように関する良いヒントになると思います。 それにしても「他の人から受けた不正当な苦しみの責任は神の手に委ねる」とは、実に巧い言い方・考え方ではないでしょうか。 2、老年期うつ病の危機 「せっせと働き続けた人が、晩年に、なにかの思いがけない打撃を受けて、働く理由をすっかり奪われてしまうと、しばしば神経衰弱(老年期うつ病)の危機に襲われるものであるが、彼女もそうした危機の中にあった。……」(シ338/ト334) そして 「この日以来、彼はこれまでよりも母親と一緒にいるようにつとめた。…母親が孤独に耐えられるほどの力がないことを、彼は感じていた。母親を一人ぽっちにしておくことは危険だった」(シ342/ト338)、1ページで触れましたが、この部分は期せずして現代日本で定年を迎えた以後のかなりの人が直面する大きな問題であります。現に私の身内、知人の中にも何人かいますし、リストラ等で不本意ながら仕事を失った人はなおのことそのような危機に見舞われ易いと思われます。ロランがここでクリストフにさせている対応の仕方は実に適切であります。老年期うつ病は対応を誤ると自殺に結びつくこともあるという点においてロランの言っていることは医学的にも正しい。弱り切った母親の魂をこのように慰められる愛情深い親子の姿、恐らくどんな医療や施設よりも、これにまさるものはないのではないかと思います。 3、内面(心の資源)充実のすすめ 「今では引退している彼は、無為の悲しみをかこっていた。晩年のために内面生活の資源を大切に貯えておかなかった老人たちにとっては、無為であることはつらいことである」(シ349/ト345) また「大部分の人は二十歳か三十歳で死んでしまう。この時期を過ぎると、彼らはもはや自分自身の反映でしかなくなる。彼らの残りの生涯は、自分自身を模倣することに過ごされる。彼らが生存していたときに言ったり、したり、考えたりしたことを、日ごとにいっそう機械的に、またいっそう不細工に繰り返すことに過ごされる」(シ354/ト349)…と。ここでロランは生きるということがどういうことかを問いかけている。そして亡くなった祖父ジャン・ミッシェルは人生を生きていく上にもっとも貴重な特質を持っていた。それはすべてのことに興味を持っていたことであり、寄る年波にも変質されることなく毎朝新しくよみがえってくる新鮮な好奇心であると言う。言いかえれば、精神的に若くあれ、そして興味、好奇心をもって内面(心)の資源を貯えておきなさいと言うことだと思います。確かに老人ホームなどに行きますと、周囲に一切関心を示さず、ただボーっと無為のまま坐ったきりの老人たちばかり、誰が見ても、もはや人生を生きているとは言い難い。ロランはたとえ二十歳代であっても、興味、好奇心を失った人間はそれと同じであると言っているのでしょう、至極もっともなことであると思います。 4、カトリックへの信仰の瓦解と、スピノザ的神への開眼 ①「そして鐘の音の力強い呟きが静まって余韻のふるえが空中に消えたときクリストフは我に返った。彼はびっくりしてまわりを見まわした……もはや何も見覚えがなかった。すべてが変わっていた。もはや神もなかった 、…信仰(に目覚める)と同じように信仰の喪失もまた聖寵の一撃であり突然の光明であることが多い……突如すべてが崩壊する…もはやなにも信じない」(シ369/ト364) ②「ある晩自分の部屋で机の上にひじをついて……閃光に目がくらみ、夜の奥底に彼は神を見た。と同時に神が彼の内にいた。……世界のあらゆるものが滝のように神の中になだれ込んだ。クリストフもまたそこになだれ込み落ちていった。……」(シ390/ト385) この二つの部分の記述はロラン自身の神と信仰に関する体験および思想と深くかかわっている。 先ず①については「ユニテ」29号のD・シッシュ氏の講演記録にもあるように、ロランが青年時代の内心の重要な体験を述べている「内面の旅路」の中で「私が青春の時期に行った第一の行為は自分の宗教(カトリック)と手を切ることであった。…私は見せかけをしたくなかった。信じている風をよそおい、外観だけをとりつくろい、日常の信者の勤めを続けることに耐えられなかった。私は神とのかかわりを嘘いつわりのないものにしたいのです。血を流しているあなたの殉難の像の前に魂の抜けた肉体を跪かせ、心のこもらぬ祈りを口先だけで称えるようなミサにはもう参りません。私はもうあなたを信じていません」それに対して神は「信じないことも、やはり信じることなのだ!」と逆説的に答える。このことがそのまま①の個所に書き表されています。 ではカトリックの信仰を捨てたロランはどんな神を見出したのかと言うと、②の部分が重要なポイントになっています。同じ「内面の旅路」の中に〔三つの閃光〕と題する章があります。三つの閃光とは、ⅰ,フェルネのテラス、 ⅱ,スピノザ(*1)の燃える言葉、 ⅲ,トンネルの暗闇の中でのトルストイ的な閃光、であると書いています。片山敏彦氏は本書の解説の中で、ロランがこのⅱの〈スピノザの閃光的な啓示〉に初めて出会った時の驚きと歓喜の表現が、ジャン・クリストフのこの個所と非常によく似ていると指摘しています。ロランは、スピノザに出会った結果「なぜ特定の、ある姿形をした、ある一人の、神を信じなければならないのか」という疑問から脱却して、「存在するすべてのものは神の中に存在する(*2)。そして私もまた神の中にある!」という考えに共感し、スピノザ的な神を悟ったのであります。 私はさらにⅲの〈トンネルの中での閃光〉も付け加えたいと思うのです。というのは、②の文中で「神は自分のうちにあったのだ。神は部屋の天井を破り、家の壁を破った。神は存在の限界を打ち壊した。神は空を、宇宙を、虚無を満たした」と言う言葉と、〔三つの閃光〕ⅲの「トンネルの中で汽車の狭い箱に閉じこめられたとき、僕は空気よりももっと流動的に、石の天井や壁をつき抜けて脱出する。僕は到るところに存在する、僕は一切のものだ。神は自分の中にある」「…自分自身を全自然と合一させたまえ…」と言っていることとが、非常によく一致していると思うからです。 ロランはその後一年ほどして、トルストイの(戦争と平和)の中に同じ意味の記述(*3)を見出したので「…トルストイ的な閃光」と名付けたようです。 このようにしてロランはスピノザの汎神論的な神に開眼していくのですが、その体験がほとんどそのままクリストフのこの部分に当てはめられているのであります。 (*1) スピノザについて─ オランダのユダヤ系哲学者(1632-1677) ユダヤ教を批判して破門される。レンズ磨きの貧しい境 遇の中で思索し「エチカ〔倫理学〕」「神学政治論」などを書いた。デカルトの合理主義に立脚しながら、その物心二 元論に反対し、個々の事物を神のさまざまな姿と見、神に対する知的な愛によって、神と合一する《汎神論》を唱えた。 その論理の記述は、公理・定義・定理・証明など、純幾何学的に組み立てられている、彼の思想は死後も長く冷遇され たが、一世紀後になってドイツ哲学に大きな影響を与えた。─ 学研、新世紀百科事典より) (*2) この傍点の言葉はスピノザの「エチカ(倫理学)」の中の定理の一つ (*3) 森と野原の姿が、あたり一面にはっきりと見えていた。そして月光をいっぱいに浴びているこれらの森と野原とを越え て、眼差しは無限の地平の奥に沈んだ。ピエールは夜の大空を見つめた。《これらすべては僕のものだ》と彼は考えた ─《これらすべては僕のうちにある。これらすべてが僕だ!…》 ◇む す び 以上のような点を、今回のオイラー家の章で書き出してみましたが、1~3については、二十歳ごろ私がこの部分を読んだとき、どのように感じたか全く記憶にありません。自分にはまだ関係ないと思ったからでしょうか、今の年齢になって読み返してみて関心を寄せる箇所というか、印象に残る箇所が随分変わったものだと感慨を新たにしました。 4の信仰の瓦解と、閃光に打たれ新しい世界を見出す部分については、一見するとクリストフの青春の扉が開かれるにあたって、不安と悩みにとりつかれ精神的な混乱というより錯乱に陥ったさまが描かれ、少しオーバーな表現ではあるが天才ともなればこんなこともあろうか、という印象で読み過してしまうところです。実のところ今回一読したときこの部分にどんな意図と意義があるのかどう要約したら良いものかと大変迷っておりました。しかし少し調べていくうちに前記のことが分かってきましたので報告させて頂きました。そもそも哲学を習ったことのない私にはスピノザについては名前以外はほとんど知らなかったのでありますが、このようなかたちで知る機会が得られロランの思想との関わりも知ることができて大変良い勉強になりました。 さて本章の最後に一つだけ腑に落ちないことがあります。クリストフがあの閃光によって新しい精神へと飛躍し、世界を再び見出し、自然や生物のすばらしさに目覚めた後、なぜ野原で出会った見知らぬ女性に抱きついたりしたのだろうか、この行為はまったく痴漢以下ではないか。精力に満ちあふれたクリストフは物を壊し、焼き、砕きたいなど暴走しかねない狂熱にかられた、とは書いている。しかしクリストフを愛する読者としては、あの閃光に打たれ、理性的にも倫理的にも数段 ている。しかしクリストフを愛する読者としては、あの閃光に打たれ理性的にも倫理的にも数段高みへ飛躍し、崇高であってほしいクリストフが、こんな行為をしでかすとはいかがなものかと思います。順序が逆ならば分からぬでもないが…、それとも次章以後の物語の伏線なのだろうか、ロランの意図はどこにあるのでしょうか?と疑問符を投げかけて私の報告を終わらせていただきます。 |
第221回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年4月27日)
第221回 ロマン・ロラン読書会・例会 (2002年4月27日) 報告内容 『ジャン・クリストフ』 第二巻 朝 ─ 第3章 ミンナ 報告者 中西 明朗 さん ◇あ ら す じ 前章ではクリストフとオットーとの純粋で親密な友情関係が周囲から好奇の目で見られるようになり、父メルキオールからも忠告されたことで天真爛漫な関係は毒されてしまう。やがてオットーが大学に入るために町を去っていったことにより終焉を迎えた。 本章は、こうした時期の少し前、クリストフの家の近くにある広大な庭のある邸宅に、夫を亡くしたケーリッヒ夫人と娘のミンナが引っ越してくるところから始まる。 ある日、クリストフが邸宅の庭を囲っている壁から中をのぞき込んでいるところを夫人とミンナに見つかってしまう。その後、宮廷楽団の演奏会で自作のコンチェルトを弾いているのが同じ少年であることを知った夫人は、彼を自宅のお茶に招待する。クリストフのどぎまぎしたぎこちなさも、夫人の好意的なもてなしとミンナの朗らかな笑いで、次第にうち解けていった。クリストフは請われるままにピアノを弾き、賞賛され、そしてミンナにピアノを教えることになる。 ケーリッヒ夫人は聡明で善良な女性であったので、無知で不器用で礼儀作法をわきまえない野生児のようなクリストフに服装からテーブルマナー言葉遣いなどすべてについて、一つのがさずそれでいて彼を不愉快にさせることもなく上手に指導していく。また歴史の面白いところや詩を読ませたりして文学的な素養を身につけるようにも仕向けた。そして彼を自分の家の子のようにあつかい身の回りの世話までしてやる。そんな母性的な親切に対してクリストフは夫人に淡い恋心を抱くが、そこは賢明な夫人に軽くいなされてしまう。 ミンナは彼に対して最初は完全に無関心であった。ピアノのレッスンで彼をわざと怒らせたり、注意されると口答えしたり文句を言っててこずらせた。ある日ふとしたはずみからクリストフがミンナの手にキスしたことで、互いの相手に対する見方は一変する。二人とも驚き顔を赤らめ平静さを失うが、クリストフが帰った後、ミンナははしゃいだり歌いだしたり母親がいぶかるほど有頂天になる。クリストフは自分の行為で決定的に悪く思われたのではないかと怖れていたが、次第にミンナを愛していたことに気がつく。しばらくの間、気づまりな時期があったが、ついにある雨上がりの庭でお互いの本心をうち明けて初恋の喜びに酔う。恋する二人はいろいろのことに感動し、魅力を感じ、根気よくピアノを弾き、すべての人々に対して憐れみと親切心にあふれているように振る舞ったりする。 やがて二人の関係をケーリッヒ夫人に気付かれてしまう。夫人はミンナに対しクリストフの不格好な服装、粗野な笑い声、田舎臭い訛りその他あらゆる欠点を、非難ではなくさりげなく指摘しただけだったが、ミンナの心を刺した棘は確実に残った。 まもなくミンナと母親は親戚のところへ小旅行することになった。数週間別れている間のクリストフの苦しみは耐えがたいものだった。毎日手紙の来るのを一日千秋の思いで待った。やっと来た一通の手紙に心をおどらせるが、すぐにまた待つことだけで生きていた。とうに帰ってくる日が過ぎて、近所のフィッシャーからおととい帰っているよと聞きつけてミンナのもとへ駆けつけたクリストフは、ミンナの冷淡な無関心な素振りに打ちのめされる。 翌朝訪れたクリストフに対してケーリッヒ夫人は娘との交際を慇懃に断った。なんとか気持ちを分かってもらおうとする彼に身分という一語で決定的な拒否宣告をする。クリストフの最後の抗議の手紙に対しても礼儀正しく冷淡な返事に彼はなすすべもなく万事が終わる。 彼は呆然自失となり絶望の淵をさまよい自殺まで考える。母親のルイザは苦しんでいる息子を慰めてやりたかったがどうしてよいか分からなかった。ただそばにいるだけで逆に彼をいらいらさせるだけだった。 そうしたある夜、酔いつぶれて小川で溺れていた父メルキオールがかつぎこまれて来た。臨終の眠りを見守っているクリストフに父のいろいろの姿が目に浮かんできた。「クリストフ、わしを軽蔑しないでくれ」という父の言葉が聞こえてきた。 そしてクリストフは死という現実にくらべれば、ミンナのことも、彼の誇りも愛も、なんとつまらない取るに足らないものであることか、今少しのところで自殺の誘惑に負けかかったではないか、死によって自らをさげすむことの苦しみと罪悪に比べたら、彼の悩みも裏切られた苦しさも幼稚な悲しみにすぎないこと、人生とは休戦のない無慈悲なたたかいであり……目に見えない敵と絶えずたたかわねばならないということを彼は悟った。 そして十五才の少年は自分の神の声を聞いた。「行け、行け。決して休むな」「行って死ね!行って苦しめ!人間は幸福になるために生きているのではない。人間はわたしの掟を成就するために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかしおまえがならねばならぬ者になれ。つまり一人の人間に」─と。 ◇この章の意義 本章は単純に見れば、前章オットーと共にクリストフの少年期から思春期にかけての成長の一過程を表わす挿話、初恋の物語として、いつの時代どこの国の人間であれ、同じ年頃の少年が恥じらいと、ときめきをもって一度は経験するであろう普遍性のある物語としてこの章が書かれたというふうに見えますが、この章でロランが本当に言いたかったのは、単に初恋の楽しい夢とそれが破れた悲しみという、ありふれた挿話としてでなく、最後の一ページに集約されている「生への休みのないたたかい」に若者達が勇気をもって挑むよう鼓舞することであったのだろうと私は思います。 一つの比喩をあげるならば、ヨーロッパの代表的な悲恋物語である「ロミオとジュリエット」と一方極めて日本的な近松の浄瑠璃「曾根崎心中」であります。どちらも結末は愛し合う二人の死であり、観客はそういう結末にいたる社会的な背景や不条理に矛盾と憤懣の思いをかきたてられ、死をえらぶ二人の哀れさに涙するという筋書き(実話でもあるのでしょうが)となっています。しかしそこには洋の東西を問わず、死んであの世で結ばれ幸せになれるという、死を肯定し美化する考え方が根底にあるように思われます。ロランはそういう考え方を真っ向から否定しているわけで、前記のとおり「人生とは休戦のない無慈悲なたたかいであり、…目に見えない敵(つまり自然の破壊的な力や、濁った欲望、堕落させようとする暗い思想など)と絶えずたたかわねばならない」と言い、「自ら命を絶つことは最大のさげすむべき行為、罪悪」だと悟らせるのであります。 死まで思いつめる失恋の苦しみではあるが、父メルキオールの死という冷厳な現実を突きつけることによって、もろもろの人生の悩みなど吹っ飛ばしてしまう。そしてクリストフに「人間の名に値する人間になれ。そのためにたたかいに行け。決して休むな」という啓示を与える。真にあざやかな、これほど若者達に勇気と力を与える言葉が他にあるだろうか。 やはりこれは単なる文学的小説ではないというロランの意志を、この章にもはっきりと見ることができます。私はこの章の意義をこのように捉えるのですがいかがでしょうか。 ◇興味深く感じられたポイント *[以下括弧内のトは豊島訳岩波文庫・シは新庄訳新潮文庫のページを示す] 1、身分、階級について─「ミンナが貴族的な名とフォンという文字に誇りをもちながらドイツのささやかな家庭の主婦らしい魂をもっていた」(トP278・シP281)という部分と、ケーリッヒ夫人がクリストフに決定的な切り札として「…身分が…」「夫人はみなまで言う必要はなかった。それは骨の髄まで通す針だった…」(トP318・ シP322)と書いている部分。現代の日本の我々には西欧の貴族などの身分を表す称号、例えばドイツのフォンとかイギリスのサーのもつ重みは判らない。しかしそういう階級・身分が重大なものであったことは理解しておく必要があります。ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンが晩年に起こされた裁判で、彼の名がヴァンであってフォンではないと言われた侮辱的屈辱的な一言のために体調を崩し半年も寝込んでしまったという話もおそらく本当だったのでしょう、身分、階級というものは我々が考える以上に重大であったことが伺われます。 2、クリストフがベートーヴェンではないという証し─ミンナの仕事部屋の描写で「棚の上には、しかめっ面をしたベートーヴェン、ベレー帽をかぶったヴァーグナーの小さな胸像が、…書架にはジュール・ヴェルヌ(海底二万哩か?)…部屋の真ん中には髭をはやしたブラームスの胸像…」(トP283・シP286)などとジャン・クリストフの時代設定が1890年ころ以後であることが敢えて判るように書いている。ベートーヴェンと別の時代であることをこのような方法で表現しているのが面白い。と同時に今の私達がよく知っているベートーヴェンやヴァーグナー、ブラームスなどあの特徴ある風貌の胸像が、100年前にも一般家庭の部屋に飾られていたことが読みとれて興味深い。 3、朗読に関する記述─ケーリッヒ夫人がクリストフを教育するために「…晩にみなが一緒になったときを利用して歴史のおもしろいところやドイツや外国の詩を読ませることを考えついた」「ミンナは…さわやかな声で読んでいた。勇者や王のせりふをいうときには声を少し渋くして重々しい口調を出そうとした。ときにはケーリッヒ夫人がみずから本を手にとって読むことがあった。…」(トP276.280/シP279.283)クリストフはその朗読がうまく出来ずに笑われてしまうのだが、このような朗読および暗誦という方法は西欧の教養の高い家庭での重要な教育手段の一つであったようだ。たしかロラン自身もそんな家庭教育を受け非常に長い古代ギリシャの叙事詩を暗誦できたことで先生を驚かせたという。今それがどこに書いてあったか手元に見つからなくて正確にお示しできないのですが…、ともかくテレビやファミコンがあふれる現代日本で家庭における子供の教育に関して考えさせられるものがあるように思いました。 4、気まぐれな親切心と内と外での顔の相違─「実を言うと彼らはときどき親切になるにすぎないのだった… (以下本文参照) …彼ら二人の親切は、発作的にあふれ出た愛情の余りにすぎなかった…」実に面白い皮肉っぽい表現ですが、中でも「すべての人間に対する愛に燃え、一匹の虫も踏みつぶさないようによけて通っていたのに、自分の家の者に対してはまるで無関心……冷酷になりさえした」(トP298・シP302)というくだりには、私にもちょっと思い当たるふしがあり、こんなことも世界共通なのかと思わず苦笑してしまいました。内と外で性格態度が全然ちがうのはどちらかといえば日本人男性特有の問題かと思っていましたが、これを読んでひょっとして西欧でも或いはロラン自身もこういう心がどこかにあったのだろうかとも思ってみました。私の周囲や嘗ての職場でも、家庭と職場、仲間内と外に対する場合でまったく別の顔をもつ人をたくさん見てきました。男性と申しましたが例えば病院に入院しますと、これぞ真実の天使か女神かと思えるような、明るくてやさしく頼りになる看護婦さんをいっぱい見かけます。彼女たちが家に帰ってもそのまんま同じならほんとにステキだと思うのですが…。どうなのでしょうか?。 5、母親と息子の親子関係について─ 「ルイザは子供が苦しんでいるのを見た……だが、気の毒な母親は息子と親しく語り合う習慣を失っていた。…で、今息子の力にな ってやろうと思っても、どうしていいかわからなかった。…ただ彼の前にいるというだけのことで、彼をいらいらさせた。…」(トP323・シP326─7) 特に男の子の場合によくあるようですが、ある年齢になると急に親とうちとけた話をしなくなる。テレビドラマでもそんな場面がよく出てきますが、まるで自閉症のようにものを言わない、話を聞こうとしない、話しかけても拒絶的な態度をとるかうるさいと言ってその場から立ち去ってしまう。こういう親子関係もいつの時代、どこの世界にもあったのかと慨嘆をおぼえます。 6、ロランの魂の叫びと考えられる文について ①クリストフの手紙文中─人間を高貴にするものは心です……いかに貴族をもって自任しても、魂の高貴さを持っていない者は、わたしはそれを土くれのように軽蔑します。(トP320・シP324) ②既に前にあげた「人生とは休戦のない無慈悲なたたかい……」の部分。 ③「人間という名にあたいする人間になりたい者」「おまえがならなければならな いもの─、つまり一人の人間に」と言うところの「人間」の意味するもの。 ④神の啓示として「人間は幸福になるために生きているのではない。人間はわたしの〈掟〉(法)を成就するために生きているのだ」と書いています。確か「レ・ミゼラブル」だったか他の映画だったかも知れませんが「神は人間を平等に愛すると言っているのに罪もない幼子や善人の命をどうして無惨に奪ってしまうのですか」と神に愚痴を言う作品があります。おそらくキリスト教の教義でも最も矛盾することの一つではないかと私は思っていたのですが、ロランはこの一言でズバリ愚痴など入る隙のない答を言い当てているのではないかと思います。 以上いくつかの例をあげましたが、ロランがクリストフをして言わしめ、悟らしめ、或いは神の声として彼に語りかけていることは、畢竟、ロラン自身の魂から発せられた叫びに他ならないと思うのであります。 ◇む す び 以上私が偶々気付いたことをいくつか書き並べてみましたが、全体からみれば小さな一章であっても、いろいろなところで、自分にも思い当たること、折にふれて考えていたこと、同じ悩みが書かれていたりして、それに対するロランの思いと心の叫びが聴こえてくる。 そして、実は私もそれが言いたかったのだ!とか、我が意を得たり!と感じさせるところが随所にあって、そのことが共感を呼ぶ所以ではないかと思います。 ともすると近年は以前にくらべて世間のロマン・ロランに対する関心が薄らいでいるように思われます。数多の大学の中でロマン・ロランの講座をもっているところがいくつあるのでしょうか。出版界でもロマン・ロランに関しては戦前および戦後の混乱の未だ治まらない時期に現在よりはるかに多くのすぐれた訳書、研究書、評論が出されていて、よくあの時代にあれだけの本が出版できたものだと感心させられます。それだけすぐれた訳者、研究者、教育者がいてそして多くの読者、ファン、共鳴者がいたからということでしょうか。 どうか本会のような研究会、読書会の輪がさらに大きく拡がっていくこと、特に若い人々、学生の方々が一人でも多くロマン・ロランに関心を寄せ作品を読み共感を得られんことを切に願っております。 |
開講座 講演会 「持続する〈ナクバ〉──反復されるホロコースト」
小森謙一郎氏
ナクバとは1948年のイスラエル建国以来、パレスチナの人々が被ってきた苦しみを指す言葉である。演者によると、2023年10月7日に始まったハマスによるイスラエルへの戦闘の前から、ほとんど報道されてこなかったが、イスラエルにより追放、占領、略奪、殺害などが今も続いている。ホロコーストの被害者だったユダヤ人のもとで、なぜアラブ人被害者が生み出され続けるのか、最新の研究に基づいて、ナクバとホロコーストのつながりが解明される。
日 時 2024年5月11日(土)14時~16時(予定) 会 場 アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール アクセス | Institut français du Japon – Kansai (institutfrancais.jp) 参加費 1,000円 会員、学生無料
講師プロフィール 小森謙一郎氏 武蔵大学人文学部ヨーロッパ文化学科教授。専攻は、ヨーロッパ思想史。
著書に『アーレント 最後の言葉』(講談社選書メチエ、2017年)、『デリダの政治経済学』(御茶の水書房、2004年)、編著に『人文学のレッスン』(共編、水声社、2022年)、訳書にバシール・バシール+アモス・ゴールドバーグ編『ホロコーストとナクバ』(水声社、2023年)、ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ『フロイトのモーセ』(岩波書店、2014年)などがある。
主催 一般財団法人 ロマン・ロラン研究所