日本におけるロマン・ロラン受容史 1
UNITE
日本におけるロマン・ロラン受容史 1
ディディエ・シッシュ
訳 シッシュ由紀子
ロマン・ロランの思想と著作は二十世紀の日本の有識者に多大な影響を与え、それがいかに多岐に亘ったかをたどることは非常に示唆に富む 2。
ロマン・ロラン受容の背景には、十九世紀終盤から二十世紀初頭にかけて顕著であった、外国文化との接触・吸収という大きなうねりがある。当時、フランスの知的文化は特別の威光を放ち、フランスを愛す知識人が活躍した。一八九九年には政治的・社会的考察雑誌「中央公論」が刊行され、「白樺」はヨーロッパの思想・芸術を紹介し、一八九五年から一九二八年の間に出版された「太陽」は、五三一号を数え、主に外国文学紹介に貢献した。
1一九一〇年代から三〇年代にかけて~黄金期
このような文脈でロマン・ロランは日本に紹介されていくが、大正時代をはさんだ一九一〇年代から二〇年代は、後に「大正デモクラシー」と呼ばれる様に、はかなくても、ある程度の民主化が見られた。
日本で、ロマン・ロランの紹介に大いに貢献するのが二十人ほどの優れた翻訳者たちだ。彼らの多くは、単に翻訳家ではなく、自らが社会的に参画する識者・作家・芸術家だった。中でも象徴的な名前を幾つか挙げてみたい 3。
まず、高村光太郎(一八八三-一九五六)。彫刻家・詩人である高村光太郎はロランの信奉者の中でも最年長で、一九〇八年にはパリに滞在している。彼は一九一一年に、日本で初めて、ロランの『今日の音楽家たち』の部分訳を発表し、一九一三年には『ジャン=クリストフ』第四巻の冒頭『流沙』を訳している。
次に、大仏次郎(一八九七~一九七三)。彼は非常に興味深い人物で、大衆文学の代表的作家であり、近代フランスの実情に詳しく、一九三〇年に『ドレフェス事件』、三五年に『ブーランジェ将軍の悲劇』、五九年には『パナマ事件』を書いている。大仏は、一九二一年に『先駆者たち』、一九二二年には『クレランボー』を訳し、軍国主義を痛烈に批判する。一九二四年には『ピエールとリュース』を訳しているが、原作の発表からあまり待たずに翻訳が出ていることがわかる。ロランの真の信奉者として、大仏は左派的・革新的な思想を隠さず、一九三三年の五月二十八日付の読売新聞紙上で、ナチスがゲッベルスの指揮で断行した焚書(ふんしょ)に抗議し、尊厳あるドイツ人に訴えた 4。
次に、片山敏彦(一八九八-一九六一)。詩人であり、ドイツ文学者であった片山は日本で最初の「ロマン・ロランの友の会」の創設に尽力し、一九二六年に『愛と死の戯れ』、一九三八年に『ベートーヴェンの生涯』を訳し、一九三二年にはロマン・ロラン自身の要請で、雑誌『ヨーロッパ』の一一二号にフランス語で『ゲーテに捧ぐ~日本からの贈り物』という題でゲーテに関する考察を寄せている。
以上、ロマン・ロラン紹介に貢献した人物として、高村・大仏・片山を挙げた。
作品に注目すると、『ジャン=クリストフ』は、一九一七-一九一八年に、国民文庫刊行会から全訳六巻が出版され、一九二〇年から一九二四年にかけて、豊島与志雄(一八九〇-一九五五)による新訳四巻が新潮社から刊行される。その後一九三五年に岩波文庫に収録され、今日も店頭に並んでいる 5。その他、一九二五年に『狼』、一九二六年に『愛と死の戯れ』(二七年に岩波文庫)、『ベートーヴェンの生涯』(一九三八)などの邦訳の発表が続く 6。
文庫本の出版で、読者は急増する。終戦前までの販売部数を見ると、『ジャン=クリストフ』は二十万四千五百部に上り、次いで『魅せられたる魂』が九万三千部、『愛と死の戯れ』が八万三千五百部、『ベートーヴェンの生涯』三万六千部、『ミレー』二万六千部、『獅子座の流星群』一万七千五百部と続く 7。
そして、前述のように、ロランの思想の浸透には知識人向けの雑誌『中央公論』や『改造』などが大いに貢献しており、『改造』を主宰した山本実彦(一八八五-一九五二)は後に、フランスでロランと面会するが、詳細については後述する。
日本におけるロラン人気は、間もなく作家自身の知るところとなり 8、一九一五年には、初めて日本人読者と書簡を交わす。相手は成瀬正一で、東京帝国大学の学生だった成瀬は四月十五日付でロランに敬意に溢れる感動的な手紙を書き 9、五月二十三日付のロランの返事には以下のようにある。「ヨーロッパの言葉や思想を学び続けなさい。でも、アジアの偉大な思想も十分に吸収されますように。我々は、この二つの世界の宝が共有されるように働かなくてはなりません。ヨーロッパとアジアはそれぞれ同じほどお互いを必要としていることを確信しています。この二つの大河は合流しなければならないのです。」10これを読むと、ロランが、一九一九年に書いた『精神の独立宣言』を日本で紹介するようにタゴールに託したことも驚きではない。その後、ロランは数々の日本人と書簡を交わし、何人かとは実際に会い、その記述が日記に残されている。一九二三年四月九日付の尾崎喜八(一八九二-一九七四)宛ての手紙には日本への大きな関心が示され、ロランが、当時のヨーロッパで通っていた誤解や先入観とは無縁だったことがわかる。彼は日本と外国の交流を歓迎しているが、イギリスのみが優先されぬよう願い、以下のように書いている。「日本がイギリスの言葉や思想のみを通してヨーロッパを知ろうとしたのは遺憾なことでした。私はイギリスを賞賛しますが、一部のエリートを除けば、およそアングロ・サクソン人は、ヨーロッパ諸国の中で、他の民族の魂を感じ友好を深めることにおいて最も劣っているのです。」彼は続けて、他人を認めないアングロ・サクソン人とは逆に、ラテン民族は国家主義的な傾向はあるとしても、人種差別的先入観を持たず、日本人とよりうまく付き合っていけるとして、日本人の本質はラテン民族に似ているという。「日本人はイギリス人やアメリカ人たちより、フランス人やイタリア人、またはスラブ人との方が気が合うのではないでしょうか。日本人の本質は繊細で神経質であり、彼らに非常に近いのです。」一九二五年十二月十六日付の尾崎宛の手紙を読むと、翌年一月二十九日に、ロマン・ロラン友の会のメンバーが集まることを知らされていたロランが、彼らへのメッセージとして、当時未発表であった『内面の旅路』の中の『周航』という章から二~三ページを抜粋して送っていることがわかる。
ロランの信奉者の中で、最も多くの書簡を交わしたのが片山敏彦だ。日本がよく知られていないことにロランは不満で、一九二五年三月十日の手紙には「一刻も早く、日本という悠久の国の新しい思想を知らしめるべきです。ヨーロッパで日本ほど知られていない大国はないでしょう。日本は賞賛されても、賞賛の対象は的外れで、偏っているのです。日本人の知性と力に驚くあまり、その内なる瑞々しさ・感情の深さ・誠実さを全く見過ごしているのです。」11ロランは更に続け、友の会が集うことを喜び、遥か遠くの信奉者とロランをつなぐもの、それは孤独であると書く。そして、日本でロランの友たちが感じている孤独感をロラン自身も感じていると言う。片山に宛てた一九二六年八月一日付 12の手紙で、ロランは彼の著作の翻訳許可を与えている。「友よ、ロマン・ロランの友の会のメンバーよ、尾崎喜八、貴方、倉田百三・高田・吉田はもちろん、貴方の友人に、いつでも、私の作品のどれでも翻訳し出版する許可を与えます。」この手紙の中で、ロランは友人であるシャルル・ヴィルドラックの日本滞在について語り、ヴィルドラックが日本の国家主義台頭を懸念していると伝えながらも「人々の最良の部分こそ最も隠されているものです」と、日本の国家・国民に関して悲観的になることを拒否している。ロランは既に来日を果たしていた友人タゴールとの対話について語り、タゴールは日本を賞賛し、日本人のことを「アジアそして世界の天性の貴族たち」14と呼んでいると伝えている。
さて、ロランに会った翻訳者としては、一九二八年九月八日に上田秋夫(一八九九-一九九五)、一九二九年七月二日には片山敏彦がロランを訪ね、日記に詳細が残されている 15。ロランは日本人とのフランス語による会話には苦労している様子だが、片山の人柄に強い印象を受け、「彼の男らしく優しい気高さ(精神の美しさ)16」という言葉で、片山の知性とヨーロッパの伝統への造詣の深さに感心している。「彼はとても好感の持てる理知的な顔をしている。率直で過度の遠慮がなく、ちょうどいい。ヨーロッパ芸術を熟知し、ヨーロッパ人以上に我々のことに通じている。」17
一九二九年十月、フランス語に傾倒する一人の青年から本が送られる。宮本正清からであった。彼についても後述するが、この本はロランの六十歳を祝って書かれたもので『ロマン・ロオラン物語・ジャン=クリストフ』という表題だった。一九二九年十月四日のロランの日記を読むと、遥か彼方から届いたある信奉者からの贈り物についてこう記している。「宮本正清から本が届く。ジャン・クリストフの抜粋を彼自身が訳したようだ。吉江喬松の序文あり。東京で一九二六年に出版。ライン河流域の人々が日本風に描かれたおかしな口絵が付いている。(六日)宮本正清は私への敬意に満ちたフランス語の長い手紙を同封していた。この手紙を八年間温め、やっと送る決心をしたという。私の著作がきっかけで、片山・高村・尾崎・上田・高田・吉田と知り合ったそうだ。彼は片山と上田と同郷らしい。」宮本の言葉として、「でも、私たちは、東京で、ジャン=クリストフの友愛の手に導かれ、永遠の光への愛の中で出会ったのです。」18と書き留めている。
宮本の綴ったエピソードはロランの作家としての自尊心を大いに喜ばせたに違いない。それは、片山がヨーロッパに立つ前に、宮本と二人で奈良の寺に行き、非公開の仏像の見学許可を求めたときのことで、「これからロマン・ロランに会いに行く」と言ったことで、寺側からすんなりと許可を得たという話だ。宮本との交流によって、ロランは未だよく知られていない国への関心を募らせ、日本の教育制度に対して、宮本が、「科学的知識を偏重し、人間性に欠け、子供の才能の開花に貢献しない」と批判していることなどを書き留めている。ロランは同時に、日本の青年たちのある傾向への驚きを隠さない。それは中国の青年たちにも通じることで、彼の著作の中でも、特に悲観的な作品(『アエルト』や『敗れし人々』)を好んで読んでいることだ。ロランは、彼らの精神的抑圧がいかに大きいかを物語ると推測している 19。一九二九年十一月十四日付けの宮本宛の返事 20にも、日本の青年たちが『敗れし人々』をこれ程好むのは抑圧感からだろうと書き、自らが希望の使者になり、彼らが悲観論に陥らぬよう望んでいる。彼は、宮本に、そして宮本を通して全ての日本の青年たちに希望を失わないようにと、続ける。「私の『敗れし人々』が若者を惹きつけるのは、かの地に、大きな悲しみと精神的抑圧があるからでしょう。私の青春時代もそうでした。私はそれに打ち勝ったのです。友よ、私と一緒に打ち勝ちましょう。魂の軍勢は無数です。」21
一九三一年十二月、ロランはヴィルヌーブにガンジーを迎えるが、これに立ち会った日本人彫刻家がいる。当時フランスにいた高田博厚(一九〇〇-一九八七)だ。彼は『ミケランジェロの生涯』の訳者でもあり、ガンジーとロランの胸像を残している。ロランは一九三二年には、英語で読んでいた倉田百三(一八九一-一九四三)の『出家とその弟子』のフランス語訳に序文を載せている。
こうしたことを見ると、ロランが自分の著作が日本で広く読まれることを強く望んでいたことは明白である。日本人と交わした書簡からは、しばしば父親のような眼差しが感じられ 22、作家の姿を浮き彫りにしている。ロランは、日本の独自性を尊重し、気遣うのと同時に、日本が、侵略と支配という欧米諸国の悪の最たるものに執着することが、この国とアジアの未来にどんな影を落とすかを漠然と危惧している。『戦時の日記』の一九一八年七月二十日には、成瀬の来訪に期してこう書いている「日本は国家マキアヴェリズムを標榜し、軍国主義国家ドイツに酷似している。日本はその最悪の教義をドイツ以上に容赦なく実行していくだろう。」23
さて、ここで、一つ重要なエピソードがある。フランス語とフランス文学に傾倒し、一九三八年から外務省の嘱託であった落合孝幸は、開戦直後のフランスにいて、一九四〇年の春、パリで雑誌「改造」の社長山本実彦に会う。そして、もう一人の日本人、高田博厚を伴って、ロランのいるヴェズレー行きを決める。高田はガンジーとロランの対面に同席した彫刻家だ。落合は、後にこの面談の席で政治の話になった時のことを書いている。
以下抜粋。
……思わず口をはさんだ。
「ソ連の指導者たちはほんとうに民衆のためを思うことで行動しているのでしょうか。どうも疑われてなりません。」
すると、ロランはコーヒーカップを受け皿において、「なぜですか」と私に向き直った。そして、今日出会ったばかりの異国の若者の云い分にもじっくり耳を傾けようとする誠意のこもったまなざしで、私を見つめた。
「なぜなら同じ理想を実現するために、ともに命をかけてたたかってきたはずなのに、革命が成功するとすぐに疑いあったり、憎み合ったり、はてはかつての同士を殺したりします。それではいわゆる政治屋が私利私欲のために互いに術策や陰謀をたくましくして争い合い、打倒し合うのと余り変りはないのではないでしょうか。」
と、私は言葉を選びながら、ぽつりぽつりと述べた。そうしているうちに、それまでに若さの余り、世の中には醜い争いが多すぎると思いつめていた気持ちが、胸一ぱいにこみ上げてくるのを覚えた。まじろぎもせず私の眼に見入っていたロランの顔が、そのとき不意に人なつこく、やさしくほほえんだ。
“Ce que c’est que la politique, monsieur.”
〔それはね、政治はどういうものかということなんですよ、きみ。〕
私の胸の奥底まで見とおしたこの的確簡潔な回答を耳にして、私はあたりがぱっと明るくなるのを感じた。日ごろロランの作品を読んでばらばらに得ていた知識が、その瞬間さっとより集って生きものになったといおうか、不意に生き生きと動き出した思いであった。その上、私は、ロランの慈父のような眼差しに、「しっかりしたまえ、負けるんじゃないよ」という無言の励ましも読み取っていた。24
若き落合は師であるロランの前で緊張した様子で、崇拝とも言える調子で彼の感動が伝わって来る。落合の記録にもあるように、この四月三十日の面談は、単なる表敬訪問ではなく、様々な重要なテーマが議論された。実は、このときのことをロラン自身が書き残している。
二〇〇六年三月、フランス国立図書館で私が閲覧したこの日の日記の内容を以下に記す。「パリから彫刻家高田が日本の著名な雑誌社社長を連れてきた。東京の月刊雑誌『改造』を主宰する山本実彦で、秘書の落合孝幸を伴って来た。」ロランは落合を山本の秘書だと勘違いしている。「山本はイタリア、イギリス、フランスなど西洋諸国を歴訪している。五十代であろう。小柄でがっしり。顔は大きくまじめ。利発で自由な判断ができることは中国に対する見解を聞くだけでわかる。彼は中国を四十回以上訪れ、蒋介石など著名な政治家や文化人の全てと会っている。彼らが知性と政治的手腕において、いかなる日本の政治家より優れていることは明らかだと言う。戦争が中国と日本の両国にもたらす結末を案じている。私はこれに意見できるほどの知識はなく、第一、両国に親愛なる友がいる。その代わり、ヨーロッパでの戦争についての彼の質問には自由に答える。特に三人の独裁者について。ヒットラーについては、これまで既に私は十分に敵意を表明し、打倒を訴えてきたが、三人の独裁者の中では一番の天才だろう。ただ、その根本はバランスに欠け、不安定。ムッソリーニは最も平凡だ。頭はいいが化粧の濃い、差し詰め喜劇役者か悲劇役者か 25。スターリンは革命の金床で四十年間打たれ抜いた鋼鉄のような男で、自ら革命を体現する。一日たりとて舵(かじ)を離したことはなく、想像を絶する不屈さで戦いと陰謀の地獄の真っ只中を生き抜いている。ゴーリキーについても長々と話す。文学・芸術・科学の権威としての彼の役目について、私たちの深い友情について。山本いわく日本の知識人たちは西洋の知識人のような地位にない。ファシズム政権下のイタリアでさえ、ムッソリーニはべネデット・クローチェに手を出せないことに彼は驚愕している。数年前に、彼はアインシュタインを日本に招き、アメリカで再会したばかりだそうだ。方程式の世界に生きる偉大な科学者が漏らす現実的な失意の言葉は、しばしば私を驚かせてきたが、アインシュタインは山本に『この戦争には何の目的もない。』と漏らしたそうだ。(ウェルズも、人類の未来は三から四の帝国主義国家間の執拗な対立に要約されるだろうと、悲観的だ。)私は彼に言った。『ヨーロッパ合衆国、もしくは、星座にならって、フランスと英国を究極の基軸とするヨーロッパ連合国家の建設が進むことを願う。』ここ数年の経緯を見ても、もはや統一なしに小国家が単独で存続する道はない。
山本は、私に日本で講演するよう勧める。私の著作もよく読まれ、ジッドやヴァレリーも読まれているらしい。スタンダールの愛読者の会もあるが、不思議なことにバルザックは根付かなかったという。山本は東京でクローデルとも面識があり、近日中にまた会うそうだ。」
以上は一九四〇年四月三十日の記録の全部である。この面談が決して儀礼的な堅苦しいものではなかったことがわかる。戦争という切迫した問題はもちろん文学の話など、話はあらゆるテーマに及び、ロランの先見の明を示す見解が見られる。例えば、今日、超国家と呼ばれる帝国主義国家間の紛争に言及し、ヨーロッパ合衆国と言う連邦型統一か、星座のような連合型統一化という表現が見られる。彼は、大戦後の冷戦構造を予知し、ヨーロッパ統一論議の争点となる統一概念の相違を認識している。
2戦時期~試練の時代
一九四〇年になると、政局の変化はロラン信奉者に数々の試練をもたらす。
軍国主義・強権主義は三〇年代から顕著になるが、日本が枢軸国に加わったことで、ロランの著作及びその読者たちは当局から警戒されることになる。ロラン信奉者たちの中にも、高村光太郎のように、ロランに背き、国家主義に傾いた者も出てくる。しかし、最も真摯で信念ある者達は、彼らの知性にも劣らない強さで、この試練に耐え抜いて行く。三国同盟の締結後もフランス文化の威光は保たれ、二つの公的機関が存続した。それは、偉大な駐日大使ポール・クローデルによって開設された東京日仏会館と京都の関西日仏学館だ。時局の悪化にもかかわらず、フランス文化と触れる機会が保たれたことは、国家権力から危険視された多くの日本人知識人にとって大きな支えであったはずだ。当時の警察の調査資料を見ると、関西日仏学館で行われる「文化運動」と「人民戦線」運動との接触が警戒される一方、数ケ国語を話す知識人たちが名指しで警戒されていたことがわかる 26。
これら知識人の多くは学者だった。宮本正清(一八九八-一九八二)について詳しく述べよう。彼を見れば、抵抗のために、ロランの言葉がいかに大きな支えになったかがわかる 27。
一八九八年に高知に生まれ、東京の学生だった宮本は、一九二七年、関西日仏学館設立のために京都に来、その後、学館の教師となる。フランス文学者として、宮本は長年のロランの読者であり、一九二九年に彼がロランの交わした書簡については前述の通りだ。
宮本正清は、四〇年代の困難な時代に大役を果たして行く。国家総動員法の時代に、『魅せられたる魂』の初の全訳に取り組むのだ。検閲は日常的で、一九四〇年十月、『魅せられたる魂』の第一巻が岩波文庫から出版され、四一年には治安維持法の強化で更に思想弾圧が強まる。それにもかかわらず、宮本はこの年、第二・三・四巻を四二年には五・六・七を出すが 28、白抜き部分など、検閲箇所がいたるところに見受けられる(当局の指示や出版側の配慮で削除されたのは、六巻では五箇所、七巻では二十三箇所)。その一例が、アンネットとマルクの会話で、「戦争がお前を捕まえにきたらどうするの?」と、問うアンネットに、「僕は『ノン』というでしょう」29と、マルクが答える場面だ。
戦時下の国家にあるまじき問答として削除されたのだ 30。
後の一九五四年の秋、『魅せられたる魂』の文庫本再版に際して、宮本はあとがきに書いた。「この翻訳は、一九四〇年から四二年にわたって、戦時中に岩波文庫として、日本で最初に刊行された。このことは多くの意味を持っていた。当時の日本を覆っていた排他的、反ヨーロッパ的な、重い、窒息的な空気の中で、日に日に深刻になって行く鎖国的な、狭量な、軍国主義と国家主義の圧迫と、酷しい、窮屈な物質上の統制の下で、ロマン・ロランの作品を出版すること自体がすでに一つの大きな抵抗であった。……」31
一九四二年八月、『魅せられたる魂』第七巻、一万三千部が印刷出版される。この年、「横浜事件」が起きる。共産主義者の疑いをかけられた六十人ほどの編集者・記者が逮捕され、拷問を受け、十分な審議もないまま有罪を宣告され、更に四人が獄死した事件だ。一方、「中央公論」や「改造」が廃刊に追い込まれる。一九一九年創刊の「改造」の主宰者こそ、一九四〇年四月にロランを訪問した山本実彦だ。ここに至って、ロランに傾倒することは密かな非合法的な行為となるが、ロランの火は灯し続けられる。一九四五年六月十五日、宮本は関西日仏学館の教師ジャン=ピエール・オーシュコルヌと共に不当に逮捕され、拷問を受ける。終戦の翌日、八月十六日に釈放された宮本は彼の味わった苦しみと取り戻した自由への歓喜を二篇の詩にしている。その一つは「焼き殺されたいとし子らへ」という題で、逮捕時に押収され、焼かれた資料をさしている 32。
3一九四五年以降~復興の時代
日本人にとって、敗戦は政治的・知的・精神的自由の獲得を意味した。敗戦に打ちひしがれながらも、再び外国に開かれたこの国で、ロランの普遍主義・平和主義のメッセージが再び注目を集め、読者の心を掴む。戦後のロラン人気の再燃の背景には、みすず書房創設者である小尾俊人の、精力的で忍耐強い仕事があった。小尾は、「ロマン・ロラン全集」の編集に取り組む。
戦後の出版界は占領軍の監視下にあり、軍事政権下で体制転覆を煽ると危険視されたロランの著作は、占領軍からも敵対視される可能性があった。
みすず書房は、忍耐強く何年もかけて翻訳家たちの努力を結集し、目的は達成される。
その陰に、ロラン自らが日本の友人に宛てた一通の手紙があった。前述の一九二六年八月一日付の手紙で、ロランは片山に宛てて、彼の著作のどれでも訳してよいと、書いていたのだ 33。「ロマン・ロラン全集」は、一九四七年から一九五四年の七年の歳月をかけて、第一期五十巻が予定され、その後、第二期を経て、一九七九年から一九八五年にかけての第三期には四十三巻にまとめられた 34。
みすず書房からの出版が、ロランの著作への反響を大いに高めたことは明らかだ。ロランの書簡・日記の全部は入っていないので、正確には「全集」ではないが、フランスでは未発表の原稿(日本人に宛てた多くの手紙など)の邦訳が収められている。これらを読むためには、ロマン・ロラン財団の資料を管理するフランス国立図書館で閲覧するか、みすず書房の邦訳に当たるかのどちらかだ。一九七五年の数字によると『ジャン=クリストフ』の延べ販売部数は五十五万四千部、『魅せられたる魂』は六十二万七千九百部であり、反響の大きさを十分物語っている 35。
戦後のロランの影響は文学界に留まらず、音楽界・演劇界・映画界にも及ぶ。一九五〇年『ピエールとリュース』を今井正監督が映画化した『また逢う日まで』が大ヒットしている。
このように、戦後の復興期はロラン研究にとっても再生(ルネッサンス)の時代となる。一九四九年には「日本・ロマン・ロランの友の会」が創立され、参画した著名な知識人や学者の中にはラブレーの研究でも知られる渡辺一夫(一九〇一-一九七五)がいる。後のノーベル賞作家大江健三郎も彼の教え子だった。渡辺は一九四八年に、「ロマン・ロランを偲びて」という文章を書き、戦争に至った経緯を振り返りながら、ロランの志を熟考し、「かつての愚かさを繰り返さぬために」と、訴えている 36。
先に述べたように、京都がロラン研究の拠点になったのは、宮本正清の功績が大きかったからに他ならない。検閲や投獄という戦時中の試練を耐え抜いた後、宮本は、関西日仏学館に復職し、その後大阪市立大学教授になる。一九五〇年には大学教授としてフランスへ招聘され、研究の傍ら、アルバン・ミッシェル社との交渉に当たった。『魅せられたる魂』の他に、『コラ・ブルニョン』などを訳した彼は、一九八二年十一月十六日に亡くなるまで、ロマン・ロランの思想の普及に努め、一九七一年、収集したロラン関係の資料が分散しないように、京都に財団法人「ロマン・ロラン研究所」を設立した。
☆ ☆ ☆
「ロマン・ロラン派」とも呼べる日本の知識人の典型が宮本正清であるとしても、幸い彼は一人ではない。日本でのロマン・ロランの存在の大きさが証明するのは、いかなる状況でも、自由で断固とした勇敢な人たちがこの国にいたと言う事実だろう。彼らは、その知性にふさわしい強さを持っていた。ロランが作家として幸運だったのは、時代に翻弄されながらも、試練に立ち向かい、信念を行動に移せる信奉者たちに恵まれたことだろう。今日の状況は、もちろん三十年前とは変わった。しかし、時として、彼の影響を再認識する機会はある。最近では、二〇〇六年十二月に、宮本正清の邦訳をもとに三味線奏者今藤政太郎の作曲・演出、竹田真砂子脚色、吉行和子の朗読で、『ピエールとリュース』が東京で上演された。今藤は学生時代にこの作品を読み感銘を受けていたという。「抵抗」の作家ロマン・ロランの姿は、日本の今後の時勢にかかわらず、永遠に生き続けるだろう。
1 本稿は、l’Association Romain Rolland(ロマン・ロラン協会)主催で、二〇〇六年三月十日にパリ高等師範学校で行われた講演”Presence de Romain Rolland au Japon”を短縮し、加筆・訂正したものである。(講演内容は、同タイトルでEtudes Rollandiennes Numero 16「ロラン研究第十六号」として同協会から二〇〇六年十月に発行。)
2 前記講演に先立ち、みすず書房創設者である小尾俊人氏より、ロマン・ロラン受容史を総括する大量の手書き資料を戴き、貴重な原典となった。脚中では「小尾手書き資料」と記す。また、フランス国立図書館のプレヴォ女史には、ロマン・ロラン財団所有の未発表書簡や日記の閲覧のため協力を戴いた。(財)ロマン・ロラン研究所からは、宮本ヱイ子夫人のご厚意で、宮本正清先生の蔵書を拝借し、機関誌「ユニテ」の全号を頂戴するなど、情報収集のために多大なご支援を戴いた。全ての方々に感謝し御礼申し上げる。
3 小尾手書き資料
4 ユニテ二十三号(一九九六年三月)小尾俊人「ロマン・ロランと日本人たち(2)」pp.32-33
5 小尾手書き資料
6 ユニテ二十八号(二〇〇一年四月)小尾俊人「ロマン・ロラン全集の出発の頃」(参考資料ロマン・ロラン邦訳出版年表pp.31-33)
7 ユニテ十七号(一九九〇年三月)小尾俊人「日本におけるロマン・ロラン受容史1」p.16
8 Les Voix, Kyoto 51号(一九九〇年夏)Marie-Laure Prevost “Rencontres Japonaises”(マリー=ロール・プレヴォー「日本人との出会い」)p.16
9 Journal des annees de guerre 1914-1919, Albin Michel, Paris, 1952, p.369(『戦時の日記一九一四-一九一九』p.369でこの手紙について記述)
10 同上p.370
11 一九二五年三月十日付、片山宛の手紙
12 ロランは手紙を送る前にタイプコピーさせていた。フランス国立図書館に残された資料にはタイプミスか八月九日とある。
13 フランス国立図書館、ロマン・ロラン財団所有資料中一九二六年八月九日付の手紙
14 同上
15 フランス国立図書館ロマン・ロラン財団Journal一九二八年九月八日
16 同上 一九二九年七月二日
17 同上
18 同上 一九二九年十月四日
19 同上
20 フランス国立図書館ロマン・ロラン財団一九二九年十一月十四日付け宮本宛の手紙
宮本による邦訳は『ロマン・ロラン全集』三六、P.473(一九七九、みすず書房)
21 同上
22 例えば、一九三〇年二月四日付の片山宛の手紙は愛情のこもった語りで綴られ、一九三〇年五月八日の上田宛の手紙では自ら「父親」という言葉を使っている。Journal des annees de guerre『戦時の日記一九一四-一九一九』には”petit Naruse”(成瀬君)という表現がある。
23 Journal des annees de guerre p.1538(『戦時の日記一九一四-一九一九』p.1538)
24 ユニテ二十三号(一九九六年三月)落合孝幸「ロマン・ロランの面影」pp.48-49
25 ナポレオンを指して当時のローマ教皇が用いた表現
26 ユニテ三十二号(二〇〇五年四月)園部逸夫「加古祐二郎と瀧川事件など」p.9
27 宮本正清の生涯については、ユニテ十六・特集宮本正清追悼号(一九八八年十一月)に詳しい。巻頭に略年譜。
28 ユニテ二十八号(二〇〇一年四月)小尾俊人「ロマン・ロラン全集の出発の頃」(参考資料ロマン・ロラン邦訳出版年表pp.31-33)
29 L’me enchantee, Albin Michel, Paris, 1951(初版一九三四〕p.723
30 ユニテ二十号記念特集(一九九三年三月)宮本正清没後十年記念講演小尾俊人「ふしぎな静けさ」pp.54-55
31 『魅せられたる魂(一)』宮本正清訳(岩波文庫 一九八九)p.476
32 ユニテ十六号(一九八八年十一月)pp.2-3
33 戦後の出版諸事情についてはユニテ二十八号(二〇〇一年四月)小尾俊人「ロマン・ロラン全集の出発の頃」に詳しい。pp.15-18
34 小尾手書き資料
35 ユニテ十七号(一九九〇年三月)小尾俊人「日本におけるロマン・ロラン受容史1」p.17
36 ユニテ二十三号(一九九六年三月)小尾俊人「ロマン・ロランと日本人たち(2)」pp.36-37
(甲南大学助教授・仏文学)