魅せられたる魂
WORKS EXCERPT
“婚約”
「わたしあなたを愛していますわ、ロジェ。でもわたし真実でありたいんですの。わたしは子供の時分からよくひとりで、そしてずいぶん自由にくらしてきました。父はわたしに大きな独立性をあたえてくれました、でもわたしはそれを濫用はいたしませんでした。というのはそれはわたしにはまったく自然なものに思われたし、また健全なものだったからです。そんなわけで心の習慣ができてしまったのですから、今となってはそれなしにすますことはできません。わたし自分で、同じ階級のたいていの娘さんたちとは少し違っていると考えています。でもわたしが感じることはほかの娘さんたちも感じてると思いますわ。ただわたしはそれを思いきって言うのです、そしてわたしはそれを比較的はっきりと自覚しているのですわ。――あなたはわたしの生活をあなたの生活に結びつけるように要求なさるのですね。それはわたしも願っていることです。わたしたちの誰にとっても、いとしい伴侶をみつけることはいちばん深い願いです。そしてわたしにはあなたがその伴侶になれると思われますわ、ロジェ……もし……もしあなたがお望みになるなら……」
「もしも僕が望むならばだって!冗談じゃないですよ!僕はただそればかり望んでいるんです!……」
「あなたがほんとう(・・・・)に(・)わたしの伴侶になることを望んでいらっしゃるならというのですわ。それは冗談じゃありません。考えてみてください!……わたしたちの生活を結びつけるということは、どっちかを棄てるということではありません……あなたはわたしに何をくださいますの?……あなたはそれに気づかれないのですわ、なぜかというと、世の中は長いあいだそうした不平等に慣れているのですから。でもその不平等はわたしにとっては新しいことです……あなたはあなたの愛情だけをもってわたしのところにいらっしゃるのではありません。お家のかたや、お友だちや、お顧客(とくい)やご両親や、計画や、一定の将来の方針や、政党やその主張や、ご家庭やその伝統――そうしたあなたにぞくする一つの世界があります。わたしも一つの世界、あなたという一つの世界をもっていらっしゃるのですわ。ところでわたしは――わたしにも一つの世界があります。わたしのも一つの世界ですが――そのわたしにあなたはおっしゃるのですね、『おまえの世界はうっちゃっておきなさい!それは棄てなさい、そして僕の方に入りなさい!』と。――わたしあなたのところにまいる用意はしています、でも、ロジェ、全体のわたしとしてまいります。わたしの全体を受けいれてくだすって?」
「僕はすべてがほしいんです。たった今、僕にすべてをくれるわけにはいかないと言ったのはあなたですよ」
「あなたはわたしをおわかりにならないのですわ。わたしは、『わたしを自由なものとして受けいれてくださいますか?わたしのすべてを受けいれてくださいますか?』と言ったのです」
「自由だって?」とロジェは用心深く答えた、「すべての人は自由です、フランスでは八十九年以来……」
(アンネットは微笑(わら)った『また十八番(おはこ)が……』と。)
「――……それはとにかく、たがいによく理解しなければならないんです。結婚するからには、あなたはぜんぜん自由ではないのは明らかですね。その行為によって、あなたは義務を負うのです」
「わたしはあまりその言葉を好きませんの」とアンネットは言った、「しかしわたしはそれをおそれはしません。わたしは愛する者と苦労や事業をともにし、共同の生活の義務をよろこんで、自由に果たします。そしてそれがほねがおれればおれるほど、それは愛のたすけによって、わたしには愛(いと)しいいものになると思います。しかし、そのためにわたしはわたし自身の生活の義務を棄てようとは思いません」
「ほかにどんな義務があるんですね?あなたが言われたことや、僕が知ってると思うことからおして、あなたの生活は、ねえ、アンネット、今までじつに平穏で、じつに地味だったあなたの生活は、たいした要求などもっていなかったように思われるんです。いったい何を要求されるのですか?あなたの研究のことを言われるのですか?それを続けてゆきたいんですか?そういう種類の活動は、正直に言うと、婦人にとってはどうかと僕には思われます。とくに天分をもった人ででもないかぎり。それはじゃまです、家庭では……しかし僕はあなたがそうした天の賜物(たまもの)のために苦しんでいるとは思わないんです。あなたはあまりにも人間的であり、あまりに均衡(つりあい)がとれているので」
「いいえ、わたしはなにも特殊の天職のことを言うのではありませんわ。それだったら単純でしょう。それに従わなければいけないでしょうから……わたしの生命の要求、必要(あなたの言葉でいえば)はそうたやすく定義を下すことができませんの、それはそれほどはっきりしていないし、もっとずっと広いものですから。それはすべての生きた魂がかならずもつ権利、変化する権利のことです」
ロジェは叫んだ。
「変化する!愛をかえるのですか?」
「たとえ、ずっと、ただ一つの愛に忠実でいても、――わたしもそれを望むのですが――魂は変化する権利をもっております……ええ、わかっていますわ、ロジェ、あなたは『変わる』という言葉に驚いていらっしゃるのですわ……あたしでも、それは心配になります……過ぎてゆく時が楽しい時であれば、わたしはもう動きたくありません……永久にとどまっていられないことを嘆息しますわ!……でも、そうしてはなりませんわ、ロジェ、それに第一、それはできないことですわ。人は一つのところにとどまってはいません。人は生きています、進みます、押しやられます、進まなければ、進まなければなりません!それは何も愛を傷つけるのではありません。人はそれをいっしょにたずさえて進みます。けれど、愛がわたしたちを引き止めて、ただ一つの思想の動きのない甘さのなかにわたしたちが愛といっしょに閉じこめられていることを望んではなりません。美しい愛は一生涯つづくかもしれません。しかしそれは生涯をすっかりみたすことはありません。考えてごらんなさい、ね、ロジェ、あなたを愛しながらも、あなたの活動や思想の範囲内では窮屈に感じる日がくるかもしれませんわ。(もう今から感じますわ)わたし、あなたがお選びになるものの価値をとやかく言おうとは夢にも思いません。でもそれがわたしに押しつけられるのは正しいでしょうか?もしわたしに空気が足りないならば、窓をあける――そして窓ばかりでなく扉も少しあける自由を――(いえ、わたしたいして多くは求めませんわ)わたしに許してくださるのが公平だとお思いにならないこと?わたしがちょっとした活動の分野や、知的関心や、わたしの友だちなどをもっていて、いつもおなじ地上の一点に、同じ地平のうちに閉じこもっていないで、それを拡げようと努めたり、転地したり、移住したりすることが……(もしそれが必要ならというのですわ……今のところでははっきりわからないのですけれど。でもとにかく、わたしはそれが自由にできることを、自分に望むことができることを、自由に呼吸することができるのを、自由に……自由であることの自由――たとえ一度も自分の自由を行使することがないにしても――を感じる必要があります)ごめんなさいね、ロジェ、たぶんあなたはこうした要求をばかばかしい子供らしいものとお思いになるでしょう。しかしそうじゃないのよ、ほんとに、それはわたしの存在のいちばん深いものですわ、わたしを生かしている呼吸です。もしそれをわたしからとりのけてしまったら、わたしは生きられないでしょう……愛によってわたしはすべてをします……しかし束縛はわたしを殺します。そして束縛されると思うとわたしは反逆者になるでしょう……いいえ、二人の人の結合はおたがいの束縛になってはなりません。それは二重に花をひらくことでなければなりません。わたしは、めいめいが、相手の自由な発達をねたむかわりに、喜んでそれをたすけたいものだと思いますの。そうなすって、ロジェ?わたしを十分に愛することができて、わたしを自由なものとして、あなたから自由なものとして愛してくださるほど?」
(彼女は考えていた「そうすればわたしはいっそうあなたのものになるでしょうに!」)
ロジェは、心配げに、神経質に、少し不興げに、彼女の言うことを聞いていた。どんな男でもそうだったにちがいない。アンネットももっと上手にできたはずであった。率直に言いたい要求と嘘を言うまいという懸念(けねん)から、彼女は自分の思考のうちのいちばん気を悪くさせそうな点をいつも誇張するようなことになった。しかしロジェの愛よりも強い愛だったら、あるいはそれを誤解せずにすんだかもしれない。自尊心を傷つけられたロジェは、二つの気持ちの間で迷っていた、こうした女の気まぐれを本気にとるまいという考えと、こうした道徳的反抗に当惑したという感じで……彼はそこに自分の心情への切実な哀訴のあることに気づかなかった。そこに自分の所有権にたいする一種の漠然とした威嚇と侵害をみてとったにすぎなかった。もし彼が女を扱うことにもう少し術策(うで)があったら、自分が内心おだやかでないことなど隠して、アンネットの望むがままになんでも約束したことであろう。「恋人の約束はあてにならぬこと風の如し!なんでけちけちすることがあろう!……」しかしロジェは欠点もあったかわりに、美徳もあった。彼は世間でいう「いい青年」で、女というものを知るにはあまりに自分の自我でいっぱいであった。女にかけてはあまり心得がなかった。彼は自分のくやしさをかくすだけの手ぎわがなかった。アンネットは、彼が鷹揚(おうよう)な言葉をかけてくれるのを待っているとき、彼は彼女の言うことを聞きながら自分のことばかり考えていたのだということを見て失望した。彼は言った。
「アンネット、ほんとうを言うと、あなたが僕に何を求めているかよくわからないんです。あなたの話では、僕たちの結婚はまるで牢獄のようで、あなたはそれから脱走することしか考えていないように思われるのです。僕の家の窓には格子(こうし)はついていないんです、またゆったりできるだけの広さがあります。しかし人は戸口をすっかり開け放して暮らすわけにはゆかないのです。それに僕の家は住まうようにできているんです。あなたの言い分だと、家を出たり、別の自分の生活だとか、自分の交際とか、友だちとかをもったり、それから、僕が勘ちがいをしていないのだったら、かってに家を出て、なんだか知らないが、とにかく家には見つからないものをさがしに行って、帰りたくなるまでうろつくことができるといったことなんですね……アンネット、それはまじめじゃないんです!そんなことを考えたのじゃないでしょう!どんな男だって、自分にとってはじつに屈辱的な、妻にとってはじつにいかがわしい立場を妻に許すことはできないでしょう」
こうした意見にはおそらく良識(ポンサンス)がふくまれていないわけではなかったであろう。しかし時としては、心情(こころ)の直観を伴わないかちかち(・・・・)の良識(ポンサンス)というものは一つの無意味(ノンサンス)である。――アンネットは少しむっとして、心の動揺をかくす冷然とした誇りをもって言った。
「ロジェ、愛する女(ひと)に信頼をもたなければなりませんわ。その女(ひと)と結婚すれば、その女があなたの名誉をあなたと同じように心にかけないだろうと考えるような侮辱をしてはなりませんわ。わたしのような女が、あなたの恥になるようないかがわしいことをするとお思いになって?あなたにとって恥なことはすべてその女のためにも恥ですわ。そしてその女は自分が自由であればあるほど、自分にゆだねられたあなた自身の一部分を大切にまもる気になります。あなたはわたしをもっと重んじてくださらなければなりません。あなたはわたしを信頼することができませんの?」
“千九百十八年の二十歳”
自然のさまざまな陥穽(おとしあな)や、社会が青春を毒するために(中高等(リ)学校(セ)や軍隊をいう)懲役囚の腰掛けに釘づけにして作りあげたあらゆるものがあるにもかかわらず、二十歳の騒がしさというものはなかなか見事なものだ!
しかし一九一八年の二十歳は普通の人生の尺度に合ってはいなかった。十四の値うちにもなり、八十にもなった。あらゆる年齢の寄せ集め、つぎはぎだらけだった。身につけるには大きすぎると同時にまた不十分でもあった。いちど動くと、もう縫い目が破れた。穴から、露(あらわ)な肉と欲望が見えた……
前の人々、彼らを植えつけた人々にも自分たちの種子の見分けがつかなかった。父親をなくしたこれらの息子たちにとっては、前の人々は外国人のように見えた。彼らにたいしてほとんど憎しみに近い気持ちをいだき、軽蔑していた。彼ら同士のあいだですら、一致する方法はほとんど何もなかった!おのおのが違った判じ物(パズル)だった……もし人生が遊戯だったら!……多くの者はそれを信じさせようとしていた、自分もそれを信じるために……しかし、この場合には、それが怖(おそ)るべき遊戯、狂人の遊戯であることを彼らはよく知っていた……いっさいが破壊された、そして廃墟の町に吹く風にそこから死体置き場の悪臭を発散させた。どこに世界を再建するのか?どの石材を用い、どの土地に、どんな要領で?彼らは何も知らなかった、煙をたてているこの混沌の中に何もみとめなかった。ただ不足しないものとては、腕だけだった。ところが二十歳の腕にとっては、彼らの分け前として、彼らの青春――(じつに早く過ぎ去り、またひどく脅かされている)――のために、指導者もなしに、疲労のはげしい土工の仕事を身に強(し)いるのは辛(つら)いことである。ぐらついている土地の上にまだ最初の壁も築き上がらないうちに、はたしてまた地震がきてそれを崩す憂いがないということを、彼らはよく知っていたどろうか?犯罪と愚劣の条約の足場の上に建てられた世界が長持ちすることを、誰が信じえたであろうか?いっさいが揺らいでいた。何一つ確かでなかった、人生には明日がなかった。明日、深淵がまた口をあけるかもしれなかった、戦争、外部の戦争と内部の戦い……今日をとらえているだけだった。それに十本の指、二十本の――足と手の――指でつかまっていなければもうだめだ。だがどこでそれを捕らえるのか、その今日を?そのどこに爪を立てるのか?それを抱きしめることはできない、それは形がなく、巨大で、すべり、ねばねばしている。この回転する塊に近づくと、投石器(フロンド)にかかったように外に投げ出されるか――それとも巻きこまれて、底に沈んでしまう。
ところが、やっきになり、外にも、内にも陥りたくない、それがマルクであり、二十歳の年では――(彼は二十歳にはなっていない、やっと十九歳だ)――その今日のどてっ(・・・)腹(・)をつかむ、そしてその中にはいってしまう……おまえを自分のものにする……あとで、くたばるのだ、昆虫の雄どものように!……
しかし痙攣(けいれん)する手の熱の中に、じつにひどい疲労だ!若い青年の肩にとっては、じつに途方もない重荷だ!ああ!なんたる過度のほねおりだろう!
まだしあわせなのは、限られた、単線の生活しかもたない、ただひとつの要求をみたせばよい人々だ!ところがマルクには四つも五つもの飢えた要求があって、彼の臓腑(はらわた)を蝕(むしば)んでいた。彼は知る(・・)必要があった、取る(・・)必要があった、享楽(・・)する必要があった、行動(・・)する必要があった、在る(・・)必要があった……しかも彼がその皮膚の陰にかくしているこれらの小狐どもは、スパルタ的なこの子供と同様に、彼に噛みつきながら、彼ら同士も噛み合っていた。彼らはともどもに腹を満たすということはできなかった。
いちばん急を要するのは、享楽(・・)することなのか、それとも知る(・・)ことなのか?…知る(・・)ことだ、まず!リヴィエール少年は、見ないうちに、知らないうちに人生を立ち去ると思うと堪えられなかった。それは彼には、あらゆる想像をたくましくした地獄よりも悪い絶望の夜の中を、今後ずっと永遠にさまようように思われた。(なぜなら、一度生きたあとでは、何も信じないといってもだめだ。その無というのが、二十歳の心にとっては、永遠的なもののうちでもっとも執念ぶかいものだからである。)
どんなふうにして知るか?また何を知るか?いっさいわからない。――それにまず、何から始めるのか!……いっさいが疑問に付せられる、しかもいっさいが同時に襲ってくる。戦争の数年間の教育は、信じられないほどの欠陥を残した。そしてそれは永久に埋められはしないであろう。精神(こころ)はよそを放浪(うろつ)いていた。肉体もだ。マルクは高校の腰掛けよりも街頭にいるほうがずっと多かった。やっと彼がその痩(や)せ腰(ごし)を据える気になっても、この痩せた仔狼の敏(さと)いきつい目は、奇怪な光をおびて、陰気な壁を通して、大学の老骸骨どもとは毛色のちがった獲物をつけねらっていた。まれには、ある教授の口調とか一語の衝撃が生の一断片の温かい影を投じた。すると、彼はそれに飛びついた。ところが彼にはこの巨大な「実在」の断片の正当な位置を見定めることができなかった。その論述は、不注意な彼が聞きのがした前半が不足していた。彼は手がかりをなくした。するとそのあとは、尻全体が、穴の中に落ちこんでしまうのだった。どんな種類の知識でも彼の頭にはいった知識の平面球形図をつくったとしたら、アフリカの古地図のように、空虚なところが詰まったところよりも多く、大きな河がまるで猫の口にはいった蜥蝪(とかげ)の尻尾のように筒切りにされているのを感じるだろう。それは消えてなくなり、想像がそれに取って代わり」、あちこちにとてつもない都会や山が、ぽこぽこと生え出してくるといった工合だった。幾世紀全体の歴史、定理の連続、学校教育の狭い領域の数州のほとんど全部があった。Alma Mater(養母、ここでは大学を指す)の教育は、びくびくしながらその哺乳児どもを、金ぴかの、色あせた、虫の食った若干の古ぼけた住居(アパート)の中に――(しかもそれを世界でいちばん立派なものとうぬぼれている!)――にとじこめるのである。その領域の幾里ものあいだ精神の道路が途切れて、マルクの頭脳には跡形もとどめていなかった。彼はそれでもやはり卒業試験を、ほかの大半の怠け者どもといっしょにうけた。――その連中は彼以上にはわかってもいないし、彼のように、傲慢(ごうまん)な理知の輝きを眼にもっていなかった。そのころ人々は勇士の子弟(実際はそうでなくても、そうなることができたはずの人々!……)にたいして寛大だった。ところが、マルクはそうした恩恵をあたえてくれた人々に対して露ほどの寛容も持ち合わせなかった。良馬は、鞭(むち)を加えることを怠り、労(いたわ)ってくれる愚かな騎手にけっして容赦をしない。数年前からの経験は、まえの時代を指導していたもの、すなわち人と書物の権威をなくしてしまった。彼らが――(わずかにしかも不十分に)――見たもの、読んだものは、現代の調子に合うように調律されてはいなかった。あらゆる本職の嘘つきども、だまされた瞞着者どもがかくしていた戦争や平和の実状を、青年たちはなにほども知ってはいなかったが、それでも本能とまだ真新しい感覚を備えていて、先生たちが知性を国家のご用にささげるご奉公ぶりや、老い朽ちた美辞(レト)麗句(リック)を嗅(か)ぎ分けていた。たとえ、どこかに、フランス国内かそれとも国外に、自由な真実の力が保持されていたとしても、この若者たちはそれについては何も知らなかった。それを彼らに信用させないようにちゃんと手配がしてあった。それに彼らはそれらの誤った判決を再審しようという気は少しもなかった。つまり彼らの信頼が中毒していた。彼らは自分たち以前の半世紀の思想のいっさい(しかも、それどころか、あらゆる時代の!)を『屁だ!……言葉でふくれた袋だ……』といった軽蔑的な名称の下に一束にしていた。彼らの若い袋も、やっぱり別の言葉でふくれるにすぎないとは気がつかなかった。つまり人間の知性の九分通りはそれなのだ、もしそれがからっぽでいたくないとすれば。そして空虚は知性を狂わせる。なるほど、自然は空虚をおそれる。
『自分は少しも知らない……』
ということはたまらないのだ。
知らなければならない。それとも死ぬかだ。
小さな魚
彼は月の世界からもどってきたのだった。彼がそこで何を見たのか誰も知らない。しかしアンネットは彼がそこでへんてこなものに出くわしたのではないかと疑っている。彼女は自分が何に出くわしたかを思い出してみれば十分だ。彼女は子供の瞳の中にその反映をしらべる。
彼らはたがいに観察する。彼らはおたがいのことはたいして知らない。彼らは時代的に、そんなにもへだてられているのだ!しかし彼らは同じ種類の二匹の獣のように、優しく嗅(か)ぎ合う。その鼻は皮膚の上に同じにおいを、同じ血潮の夢のよいにおいを嗅ぎつける……ジョルジュといっしょに十分に駈け、戯(たわむ)れ、争い、叫んだ後で、ヴァニアはアンネットの足元にきてすわり、頬を祖母さんの腿(もも)にもたせ、口はきかずにながめていると、血の騒ぎが鎮まるのだった。アンネットの手はこの親しい小動物の顔を愛撫する。
それから、不意に、小動物は考えにうかんだことを口にする。
「マニ―」(彼はママンという言葉とアンネットという名を結びつけてマニ―と呼んでいた)「あんたはずいぶん前から生きてるんだね!」
彼はたずねているのではない、断定している。それでもアンネットは答える。
「もう忘れたのよ。遠いとか近いとかいっても――あたしが今いるところからだと――同じことですよ。あんたもここまできたら、わかるでしょう」
しかし彼は聴いてはいない、彼は自分の考えを追うて行く。
「マニ―、あなたがずっと前から死んでないのはどうしてなの?」
「あんたはあたしが生きすぎたと思うの?」
「ううん! ……でもパパは死んでるでしょう…」
「彼はあたしより後まで残るようにできてたのに、人に殺されたの」
「じゃ、あんたは?」
「それは、みんながそうされるわけじゃないの。静かに生きている人がたくさんいるの」
「うむ……他の人たちは……でも僕たちはちがうね!」
「誰なの、僕たちって?」
「僕たちさ」
(彼はアンネットの膝に顎(あご)をのせていた、そして黒つぐみが木の幹にするように、顎を膝に突っこむ)。
「あんたはあんた(・・・)と言いたいところでしょう?あんたは自分がどうなるか知ってるの?」
「ああ、僕はね」と彼は落ちついて言った。「僕は殺されるの、パパと同じように」
「まあなんてことを考えるの!何もそんなわけは……」
「ううん、あるんだよ。僕革命をやりに行くんだから」
「どこへさ?フランスでなの?」
「ううん、フランスじゃないさ。フランス人は年をとりすぎてるんだ。アメリカさ」
「まさかね?あたしたちが子供のころには、アメリカは冒険の国だったのに、あんたはちがったものを探そうとしているのね? でどこなの、坊や? どのアメリカなの? そりゃ広いのよ。北なの、南なの?」
「どっちだっていいさ。革命をね、そうでしょう? 世界じゅうに起きなきゃならないでしょう」
「おしまいがフランスというわけね、いっとうおしまいに?かわいそうなお婆さんのフランス! ……まったく気違いだわ! ……あんたのママがあんたを赤くぬったの?」
「ああ、あんたも!」
「あたしが? あたしが赤いの?」
「あんたは赤いの、心の中は」
「あんたは白鼬(いたち)のような眼をしているのね!どうしてあんた勝手に中をのぞいたりするの?」
「僕は勝手にのぞくのさ。おもしろいんだもの」
「まあ!あたしがおもしろいの? あたしたちがおもしろいの?あんたは生活をおもしろいと思うの?」
「ああ!とてもこっけいね!」
「じゃいったいどうして死ぬなんてことを口にするの?」
「いや、死ぬんじゃないの。殺されるの」
「同じことだわ」
「いや。わかってるくせに!」
「あたしには少しもわからないわ」
「わかってるさ。死ぬのは、待ってる時のことで、それはやりきれないんだ。殺されるのはおもしろいことなんだ」
「勝負は真剣なのね」
「真剣であればあるほどおもしろいんだ」
「子鯉(こごい)が親鯉に教えるというわけね。でもあんたの言うのはほんとうだわね」
「あんたは鯉とはちがうんだよ、鱒(ます)なんだ」
「どうして?」
「鱒は谷川をさかのぼるってほんとう?」
「ほんとうです」
「堰(せき)があったら、それを飛びこえるんだって?」
「そうだってね」
「あんたは飛びこえたんでしょう?」
「あら! まあ、そうね!」
「あんたが飛んだ時に、僕はあんたのお腹(なか)にいたでしょう」
(誕生の秘密は彼にとっては存在しない)。
「いました」
「じゃ、あんたが通ってきた道を、僕はもう一度通らなくってもいいでしょう」
「それもほんとうね。跛行(びっこ)馬さん、あたしはあんたに大分道をはぶいてあげたのよ」
「ああ、でもあんたが死んだら、僕はつづけて行くんだよ」
「あんたはつづけるのさ。あたしにかわって。飛び越えなさい、小鱒!めいめいに番がきます!」
彼女は笑っていた。しかし、心の底では、彼女は感激と、誇りと混乱をおぼえた。彼女は死なないわけだ。彼女のマルクだってそうだ。彼らはつづけていたわけだ