ペギーの光
WORKS EXCERPT
《真実》、《名誉》、恩寵の賜物であり、神の娘である《希望》、三つの対神徳、――それに、神の象りであり、神と同質なる《自由》――これらこそ、ペギーのまなざしを満たした大いなる光であった。フランスの空に、彼がふたたびこの光を輝かせてくれればよいのだが!暗い空、よごれたこの空、今日の、重くたれこめた雲たちがとざしているこの空――フランスの歴史のよどみ切った暮方に。われわれはけっして、奇跡の杖の一撃がすべてを変えてしまうと信じている人たちの仲間ではない。われわれはつぎのように信じている。いま演じられている幕の閉幕がどんなものであろうと、その悲劇につづいて、ほとんどすぐにふたたび幕があがるであろう、そして、世界の動乱の新時代のなかで、老いて失墜した、西欧のわが小さなギリシャを脅かしている最悪のものは、まずもってその内部にあり、次に外部にあるのだ、と。明日この地上に打ち寄せ、われわれの小さな土地がそれに呑み込まれてしまうかも知れぬ巨大な諸力の攻撃を支えるためには、フランスの血の最良のものが、活力をもつ厳正な一派のなかに結集し、そこにフランスを築きあげた雄々しい諸徳の灯がふたたびともされねばならない。そのような諸徳なしには、フランスは滅び去るであろう。いかなる先達にもまして、ペギーとその垂範、その偉大なる作品において、フランスはそれらを学ぶことができるであろう。けだし、その作品から、あたかも焔の舌のように、呼び起こされた大地の神々、ロワール河、セーヌ河中之島(シテ)という河舟、フランスの国土のその教区の、その歴史の、数多い英雄たち、聖人たち、半神たちのすべて、その先頭に、聖ルイ、聖ジャンヌ、聖ポリュークト、さらには「人のなかの人、聖人のなかの聖人、第一の、ただし、われわれのあいだで、われわれのうちで第一の聖人」、十字架のひと〔イエズス・キリスト〕が立ち現れてくるのだ。……よくおわかりと思うが、フランスの救済だけが問題になっているのではなく、世界中の、救われることをのぞんでいるすべての人たちが問題になっているのだ。将来のサラミスの海戦においては、かつて、アイアキダイ〔アイアコスの子孫たち、テラモーン、アキレウス、ペレウスなど〕、アイアス、テセウス、という双生の民族の英雄たち、半神たちがギリシャ軍の戦列に立ってたたかったように、吟唱詩人たるペギーと、彼の叙事詩の供廻りのすべてがたたかうのがみられるであろう。周知のように、ペギーは、ギリシャのオリュンポスの神々のずっとうえに、彼の兄弟なる英雄たちを置いた。そして彼は、『クリオ』のもっとも美しいページのなかで、つぎのように彼らを讃えている。
「……彼らは、偉大になった人間たち、精神の高揚した人間たちである。……彼らにとって幸福なことに、われわれにとって幸福なことに、……彼らはまったく神々ではない。……まったく不死ではない。……彼らがこんなにも偉大なのはこのためである。彼らは人間の運命を、人間の死を分かちもっている。それゆえに彼らは偉大なのだ。……神々は最後の死というかの栄冠を欠いている。悲惨というかの祝福を欠いている。……さらに、これらの神=人たちには、おそらくは世で一番偉大でうるわしいもの……花のうちに刈り取られること、未完のまま滅びること、戦さの庭に若くして死ぬことが欠けている。すなわち、アキレウスの運命が欠けている。選ばれた運命であるアキレウスの運命が欠けているだけではない。いく千もの他の者たちの運命が、数えきれない死者たちの運命が、これらすべての若者たちの運命が欠けているのだ……」
「……熟しきらない果実が枝を離れるということ、熟しきらない運命というもの、おのれの一生の宿命を全うしていない者が奪い去られるということ、これはいかばかり美しいことであろう……」
「折しもテラモーンの子アイアースは、アンテミオーンの息子で血気盛んの若武者のシモエイシオスを討ち取ったが、……彼はその懐かしい両親にも養育の恩を返さなかった。僅かほどしか彼の寿命は、意気旺んなアイアースの槍に殪され、もたなかったので。」〔『イーリアス』第四書、四七三行以下〕
「短い一生、切り上げられた時間、これこそまさに神々の偉大さに欠けているものだ。戦さの庭に未完のまま仆れること……これこそ神々に欠けているものだ……。――ホメロスにおいて、死ぬということは、死すべき存在としての宿命を全うすることである。……それは、ある意味において、自己を完成させることであり、一種の充足である。神々に欠けているのは、あきらかにこの充足である。神々は充足していない、が人間は充足している。……アンチゴネー、若きアンチゴネーは、ただ一日のうちに、おのれの宿命を充足させた……」
これらの戦慄的な行文を読みかえすとき、私は、若きシモイジオス――われらの老ペギーを、「彼が未完のまま仆れた戦いの庭」のほうへ押しやった、飢えたような予見に慄然とする。彼は戦争の深淵を前にしての眩暈にとらえられてしまい、やがて、《おれの宿命を全うする》ために、それに落ち込もうとしていたのだ――いや、落ち込むことをのぞんで(ヽヽヽヽ)いた(ヽヽ)の(ヽ)だ(ヽ)。
彼はそれを全うした。だから嘆くことはやめよう!彼はわれわれの悲嘆などいやがったことだろう。
しかしながら、フランスおよび世界の若い人たちのために、この死の栄光をたちこえて、この《アピア街道》――墓に縁どられた道――の魅力よりももっと不吉でない魅力をもつ目標を、彼らの情熱に対してさし示すことこそわれわれの義務である。ペギーに忠実なるわれわれは、ペギーからペギーへと訴える。すなわち、人生に疲れ、それを犠牲にすることに陶酔していた1914年の英雄から、1910年の『愛徳の神秘劇』の末尾の栄光に輝く勝利者、《おのれのよき兵士たち》を、死へではなく生へ、――この地上を、《全人類のための天国のはじまり、天国の門の入り口》となすであろうところの、勤勉で豊かな平和へと誘う勝利者へとわれわれは訴える。
「そして、戦いの長(おさ)は務めを果たしおえ……
りっぱな部下たちを率いて家にもどり……
年ごと耕作と取り入れとにいそしみ……
日々のパンと大いなる日のパンとをつくるように。
………………‥……
全人類が、おなじ心臓によって鼓動するように……
全人類が、ただ一つの心臓として鼓動するように。」
1943年11月