家系の樹
WORKS EXCERPT
家系の樹 家庭 父 「内面の旅路」
私が祖先の系譜をさかのぼり得るかぎりにおいては、両方の家系の記録の中に、尊敬すべき人々を私は見出す。彼らは田舎の道を、照る日にも降る日にもゆっくりと歩き、急き込みもせず不平もこぼさずそれぞれの重荷を荷い、自分の運命と宇宙の秩序とに順応し、背は屈んでも両脚は強く、そして、生にも死にも、愁いにも安息にも逆らわず、七十歳のあるいは八十歳の歳の坂を良く越したのちにはじめて生の重荷を投げ出したのである。彼らのすべてに相通じている一つの特徴は、気ごころのいい親しみ深さである。とりわけそれは父かたのロラン家の楽天主義と率直さの中にいちじるしく目立っている。
それの最適例は私の父である。現在八十歳で、明るい性質の、元気な老人である私の父は、フランスの四つの異なる政体と二つの戦争と二つの《革命》との中を生きて来て、慶事は少なく、困難は多かった一生を経験し、友人たちはすでに亡く、また数年来は耳が遠くなっているが、それにもかかわらず、私が書いたあのコラ・ブルニョン親方みたいな満足の精神と、人生への幸福な順応力とを持ちつづけることができた。―「気の良い男がまだ生きている……」立派な消化力とじつに堅固な肺とを持ち、丈夫で元気な彼は毎朝六時に起床する。八時に散歩に出かける。そしてその時間の規則正しさヴィルヌーヴとテリテとのあいだの沿道で有名なものになっている。彼が通るのを見て人々は時計を合わせる。彼は、いつでも、黒くなっているパイプで煙草を喫いながら自分の庭園に水をそそぐ。ひびきのいい明るい声で、なんのわだかまりもなく動物たちや人々に呼び掛ける。そしてその声は路の遠くまで聞こえるし、壁越しにも聞こえる。それから、彼は楽しみを変えるために、一階の窓際の自分の肘掛椅子にらくらくと腰をかけて、膝に黒白の毛の猫をのせて、何時間も読書する。そして父は私を見ないけれど、私は庭から父を見ることができる―これは、白いあごひげの老ハンス・ザックスというべき姿だ。その青い眼は、彼自身の思想が共感している本を見つめて笑っている。何が彼をこんなに嬉々とさせているのだろうか?彼は生涯、自分の好まない、仕甲斐のない仕事をして過ごした。小都市または村の仕事に適し、健康な自由な独立的な、開かれている空気の中での生活に適していた彼は、家庭生活と自由と自分の郷里の友人たちを断念してパリに移り、退屈なオフィスの生活を四十年つづけた。それは一室に閉じ込められている単調な、機械的な、そして他人のために働いている生活だった。そのために彼の田舎生まれの体質は悩んだ。自分の健康を慮って、彼はパリで仕事に出る道、帰る道を一日二、三時間ずつ徒歩で歩いた。数年間頭痛に悩まされたが、とうとう頭に腫物ができて手術を受けなければならなかった。どんな意味でも事務家でない彼は、愛国的な、あるいは情熱的な諸理由にみちびかれる投資をした結果、小さな蓄えの全部を次第次第に失って行った。たぶん一年間に二週間ほどの休暇を得ることがせいぜいであった。しかし毎年、私の母と私たち子供らとが田舎で二か月過ごすことができるために債券を父は売った。父が六十六歳、私が三十六歳だった1902年に、私は離婚した直後であり、貧しく、病身で、そして年収僅かに千五百フランを得ていたが、或る日、父はサン・シュルピース聖堂の広場を横切っていたとき、二フランの祝儀をもらえるために、或る結婚式に参列することを承知したのだった。……(私のことを―直接に父からではなしに―数年後に知った。それは、ベートーヴェンの言ったように、私が運命の喉元をつかんでを嵌めたときだった。私がそのことを聞き知ったとき、紅らみが私の額にまで登ってきた。恥かしさの紅らみ―そして誇らしさの紅らみ。なぜなら、私たちはそんなにも敗北に瀕していた。そして私たちは打ち勝っていた。)
苦労の多い父の生活が家庭生活の幸福によって償われているようだったらまだしも好かったのに!しかし事実はそうではなかった。父と母とは性質があまりにも違っていた。そして私たち子どもらは、自分たちの心の最善の愛情を母にささげた。現在でさえも私が父に自分の考えを打ち明けることは非常に稀である。父と私との思想のあいだには殆どどんな共通性もない。そして私が1914年から18年までの戦争中に支持した思想のことごとくは父の確信と対立していた……
しかも父は幸福である。彼は彼の陽気さと碧い眼の笑いとを失ったことがない。飛び跳ねる大きな犬が持っているような生来の無頓着さ…父の声もまた嬉しそうに爆発しながら飛び跳ねる……それから、話しながら、手で相手の腕や肩をつかむあのやり方……愛情のこもっているあのみごとなユーモア―それはあらゆる方向へみなぎり出る。右へも左へも、出会いのままに、撰り好みせず、誰とでもかまわずそのユーモアを分かち合いたい要求にしたがって!―それは生の衝動的な放射であり、父のパイプから出る煙ののように流れ広がる。そしてこの要求は非常に強いので、彼はそれを彼の精神のあらゆる判断の上にも及ぼすのである。私は思う―人が父を一つの室の中に最悪の一人の敵といっしょに幽閉するとすれば、五分の後にはこの二人の大きな笑い声を人は聞くだろう。父の快活さが相手に感染するから。ガンベッタの時代の共和主義的愛国家であり、自分の考えを取って動かないこの老人は、二十年間毎年の夏に、森林地帯のスイスの同じ田舎に行くことをわしにしていたが、その土地では父は、皆がドイツ語を話す人々の中での唯一のフランス人であり、そして彼はドイツ語の一つの単語をも覚えようとはしなかったが、父は覚える気がないとともに、またドイツ語を覚えることを侮蔑しているのでもなかった。しかも彼は自分の言いたいことを皆にわからせ、皆から愛されることに成功した。
―デルレード派であり、国家主義者であり、国威論者であるフランス人、新聞記事の出鱈目の全部を無批判に鵜呑みする父は、息子の私の思想が彼にとって異端だからと言って、そのために私への愛を減らすことはなかった。そして―確かに私は信じている、(神よ、父を赦したまえ!)父は、自分の思想から言えば異端である私の思想について、心の底では誇りを感じていたことを。戦争中に、父が私に再会しようとする目的でしたスイスへの小旅行の途中、散歩の路で父は数人の敵国人たちに出くわした。父の国家主義は、それらの人々の国をたたきつぶすことを望んでいるのだった。ところがその人々の中の数人は父の友人になり、その友誼が今につづいている。父は彼らに向かって自分の立場の考えをちっとも隠しだてはしなかった。しかし父は笑い声をひびかしていた。そこで彼らも笑い声を聞かせたのである。父の心情の親切がその熱を放射した。そして彼自身が点じた熱が彼にもどって来た。彼が話し始めるや否や、敵対する二陣営・両民族はもはや存在しなかった。ただ人間種族があり、それは二本足の種族であり、その種族の本来の面目は、笑うこと、社会精神、共に分かち合うことの喜び、人生の歓喜と悲しみと体験と涙とむだばなしとの共同の蓄えを分け合うことである……そしてドイツを取って食おうという人間が、ドイツ人およびその連合国人たちと食卓を共にして健啖のほどを示した。そして彼らは彼に信頼の情を寄せた。彼らの方ではまた彼らに、老公証人らしい、そして愛情のこもっている助言を与えた。
二十世紀以来霰と雨とに打たれてきたこのゴール民族のの精髄を、この父ほどよく私に感じさせるものは誰もなかった。1917年にパリの空からドイツの爆弾がプチ・リュクサンブール、エコール・デミーヌ、ラベ・ド・レベ通りなど、私たちのロブセルヴァトワール大通りの家から百メートルの辺りに落ちたときに、わが父コラは親しい数人の隣人たちといっしょに地下室に避難したが、そこで彼があんまり陽気にしゃべりやめないので、私の妹が父に向かって笑いながらこう言ったほどであった―
「パパ、さあ黙ってください!爆弾の音が聞こえませんから!……」
大殺戮のあった翌日に、殺戮されたこの種族が早やけろりとそれを忘れているらしく見えることを私は意外とは思わない。それはこの種族の欠点でもあるし強みでもある。この種族はその血を到るところで惜しみなく流した。そして、ゴール人らの泡立つ葡萄腫は、樽の割れ目から歳々逃げて行く。しかし葡萄の樹は丈夫である。葡萄作りもまたそうである。そして―今にして私は信じるのだが―荒廃した地球上にこの種族の人間が十人しか残っていないという場合でも、この十人の父なるノアだけで再びこの種族を地上に再興することだろう。
母
笑いよ、今は黙れ!コラ・ブルニョン的な私の祖父と彼らのあざやかな上機嫌についての、笑いを誘う思い出たちよ、さあ沈黙せよ。私は今、寺院の入口にいる。私の心は敬念と悲しみと愛とに充ちて、魂の聖所へ跪きに行こうとする。その魂は、生きとし生ける者のうち私には最も親愛なものであった。彼女は私を愛し、そして私のゆえに苦しんだ。私の愛したどのよりもいっそう多く彼女は苦しんだ。すなわちその人とは私の母である。過去の大オルガンのどよめきを私が聴く聖なる場所の色玻璃窓の明暗の中で、私は衣服の皺ばみに額をもたせかけて彼女の優しい両腕に抱かれながら、小声で語ろうとしているのだ―私にとって母が何であったかを。
ただ小声でのみ、そして殆ど躊躇しながら、永い沈黙の切れ目を持って、言葉では決して言い切れない言葉を、きれぎれの文句を語ろうとしているのだ。……なぜなら母は、自分の心ばえが人目にさらされるのを厭がっただろうから。母は自分の心を、愛する人々のため取って置くために他人の目には隠していた。その上、母は自分の心のいちばん奥のものを神のためにしまっていた。母の心に最も近かった私にさえ、心の底の或るきらめきを、折りに触れて垣間見せるだけだった。私は母のその気もちを決して裏切ったことはない。しかしもしも私が母についてまったく沈黙し通すとすれば、それはまた母を裏切ることになるだろう。私が何であるにせよ、またどう成るにせよ、未来の思想の中で、私が有るところのそのもので母もあらねばならない。母が私を作った。それは私を産んだ日だけでなく、彼女の死ぬ日まで、母は私を産みつづけた。なぜなら母は、私の思想のことごとくを生きたのではないにせよ、私の感じた感動のことごとくを感じて生きたから。私の感動のすべてが母にも分け持たれた。私の感動を母にも伝えたいと私が要求するまでもなく、私の感動は母の心に共鳴を起こした。―私のすべての歓喜、私のすべての苦悩が―とりわけ私のすべての苦悩が。そして母の死後さえ、私たちは(母と私とは)それを分かち合っている。
“神を信じること”への懐疑
私が神を失って沈みつつあったあの青春の時期にした私のが行った第一の行為は、[それまでの]自分の宗教と手を切ることであった。これが私の最も宗教的な行為であった。自分自身への敬意のために、また、隠れている神への尊敬から、私は見せかけをしたくなかった。信じているらしい風をよそおい、外観だけを粉飾し、日常の信者の勤めをつづけることは私には耐えなかった。神よ!私はあなたとの関わりを、嘘いつわりのないものにしたいのです!私はもうあなたのミサには参りません。血を流していられるあなたの殉難の像の前に、魂の抜けている肉体をひざまずかせ、心のこもらぬ祈りを口先だけで称えるにしては、ミサの意義は私にとってあまりにも厳粛なものです。わたしはあなたを信じておりません。
「信じていないことも、やはり信じていることなのだ!私たちがお互いに対戦の状態にいるのではないなら、お前は私を否定することにはちっともなるまい……」
私がカトリシスムから離脱したことは私の母の心をいたく悲しませた。信徒でない父が腹を立てた。父は、宗教は子供たちのためには良いものだと考えている人々の一人であった。《教会》は無関心な態度で、私はその囲いの中に引き留めようとする少しの努力もしなかった。教会は私が再びもどって来てそれを見出すまでいつまでも待つわけであった。
母と私との魂を共につないでいたこの絆が私たちのあいだで切れた瞬間、私の母にとってしあわせなことは、生きている者らの群れを未知の彼岸に向かって運ぶ旋風の中で、母と私とは、私の生涯の《善き女神・音楽》の不思議な力の影響の環の中で互いに手を取り合っていた。これらの年年に音楽は私のまことの宗教的礼拝であった。毎日おこわれる、母と私との共同の礼拝であった。それは常にそうであることをやめなかった。―しかし音楽に対するあの頃の私の崇拝は、初めておずおずと最愛な者の体からその蔽いを取りのける若い愛のうぶな酔い心地であった。私はピアノのキーの上で、熱い指をもって彼女を愛撫した。毎日、学校の午前と午後との授業の時間の間に。それから夕食の後に。それらは神聖な時間であった……
夜がくる。夜が、昼間のいろいろな気苦労を再び包み隠す。大都会の不純な口を閉じさせようとする。ひっそりとした私の家の前の通りからは、大都会という怪物の不愉快な雑音はもう聴こえない。「夢」という神が目を覚ます。昼間じゅうこの神は、翼を畳んで、人目につかないように用心していた。なぜなら、人に気づかれると笑われるのだということをこの神はよく知っている。そして嘲笑は、卑しい手の平手打ちと同様に、この神を萎れさせる。私たちは家の者たちだけで共にいる。他人のことをとやかく気にしない、機嫌のいい父は隣の室でパイプを吹かしながらギュスターヴ・エマールの小説を読んでいる。ありがたいことに、父はちっとも音楽的ではないので、私がピアノをひいていても、その音を耳に入れもしない。別の隣室で、母は私のひくピアノを聴いている。そして、母は嘲笑しない。私の「夢の神」を母は笑おうなどとは思わない。この「夢の神」は、初めはおずおずと歌い出し、やがて少しずつ大胆になり、まもなく力いっぱいの音をたてる。この「神」への愛に心を奪われている少年の、まだぎこちない、夢中な音である。母は嘲笑しない。なぜなら、この夢は母自身の夢であり、この歌は母自身の歌である。タウリス島の祭壇にまで、嵐が、二人の難破者たちを搬んだときのイフィゲニアのように、母と私とは、共に魂のふるさとの言葉を音楽の中に感じていた……
その後、音楽批評の文章を読んだり、またみずから音楽の専門家だと称している。いわゆる「有名な人々」の語る音楽を聴くときに、私は或る皮肉な憐れみの情を感じる。この人々はいったい何について話しているのか?古代のいろいろな宗教の魔力のある典籍を根掘り葉掘り調べ上げながら、しかも文字の表層以外は何も見えないような考証学者たちユダヤ教会の法士たちに彼らは似ている。―貴い宝のかたわらを、それが宝だとも気づかずに通り過ぎる気の毒な人々……貴い宝の金羊皮!われらの祖先であるアルゴー号の乗組員らは、魂の夜の中で、彼らの勇気ある手によって《混沌》という《竜》を、言葉と、秩序ある美しい響きとの網に捕獲することによって、金羊皮を手にいれた……
母の生涯の最後の時にいたるまで、母と私とが、聖体拝受をしたのは、音楽のいろいろな形における、ヘスペリードの、不思議な園の果実によってであった。そして私が、旧教会の信者としての日常のしきたり―母自身が生涯まもり通したそのしきたりを捨てたことは母を残念がらせたとはいえ、母はそれについてはもはや私に言わなかった。なぜなら、母が私には告げずに理解していたことは、―(母が他の人々にはそれを話したことを、後に私は知った。)―「神」に反抗しているこの小さな音楽家は「神」に奉仕しているということであった。そして、燃えていく蝋燭の、ふるえる円光の中に、ピアノの上に身をかがめている私と、室をへだてて、暗がりの中たいそう疲れて、身うごきもせずにすわっている母と、この二人の人間は、故国を遠く離れている二人の者が昼間の疲労の後に夕方になって共にすわり、その中の一人が声を出して「聖書」を読むのを他の一人が聴き入っているというような有様であった。
互いに愛し合っている二人の人間が、また特に二人ともあまり感じやすい人間であるばあいには、その愛情にもかかわらずまぬがれがたい感情の摩擦や傷つきはあったとはいえ、息子と母とのあいだに、こんなふうにして、魂の、宗教的友情が保たれた。
たいそう親密なこんな日常の魂の交わりは、エコール・ノルマル大学時代における私の三年間の寮生活によっても妨げはしなかった。ユルム街のあの学校は私の家庭から近かった。そして、母と私とは、同じ屋根の下でドアを接して暮らしたとき以上に親しい消息を、毎日たがいに伝え合った。
真の別離は、私が〔エコール・ノルマン卒業後、母校の留学生としてイタリーの〕ローマへ出発した時に始まった。これは母としてみれば、共に住み馴れた自分の小さな伴侶を取り上げられることだった。この小さな伴侶にとってもまたそれはつらいことであった。しかし、それは母のつらさには比べられはしなかった。新奇なものへの憧れが、それまでのものへの愛惜よりも大きかった。クリストフがドイツから逃げ出す前日のように、あの時の私は、母に別離の悲しみを味わせることのために悲しんだ。―(私が『ジャン・クリストフ』の中で描いたあの告別に先だつ数日のことや、また、母が泣きながら息子に向かって、どうか行かないでくれ、と頼む夜のことやは、あまりにも忠実に私自身の事実を物語ってあるのである。)しかし息子は出発しないわけには行かず、母を苦しまさないわけには行かなかった。生きることの聖なる義務は、子が親に対する義務よりもいっそう不可抗的でたぶんいっそう神聖である。私はこれらの二つの義務を、かわるがわる一方の義務の犠牲にして来た。そして、私は自分が生きて来た道筋を振り返って判断するとき、―私の愛情にもかかわらず―自分が誤っていたとむしろ私に思われるばあいは私が第一の義務を、すなわち、生きることの聖なる義務を他の義務のゆえに犠牲にして来たばあいなのである。人は自分の愛する人々へのその愛のためさえ、たとい、その人々に逆らうことになっても、人が在らねばならぬ全部であらねばならない。―「ねばならぬ。」支払うべき一つの負い目(義務)を支払うこと―それが人間の「運命」である。
私は出発した。そして、私の出発を少しも望まなかった母は、私の出発を正当なことだと理解したから、この出発を望んだ。
私のローマ留学時代の終わったのちは、私の結婚によって、母にとっての新しい隔離がきた。たしかに、彼女の新しい娘は〔嫁〕は彼女にとって、自分の本来の子供たち同然に親愛な者であった。そして、後に私が妻と別れたときにも、この妻に対して私の母は、私自身よりももっと寛容な愛を持ちつづけていたのだということはおそらく事実である。なぜなら、母が誰かにひとたび好意を持つようになったとなると、もうその好意から離れるすべを知らなかった。そして、母は苦しみを多く味わうにつれて、その心がますます愛情ぶかくなった。母の心は試練に襲われるたびごとに博くなり、他人に要求することが少なくなった。
結婚生活を破棄した息子は母のもとにもどった。いうまでもなく、とりわけ息子の心痛が母の元にもどって来たというわけであった。それが母の持つ分け前である。母は、息子の心痛を分け持つ権利を持っている。そして、母親が善い母親であるなら、彼女は、これを最もいい分け前だと考える。私はなんと多くの自分の悲しみを、母の魂へそそぎ込んだことか!そして、母はそれを貪り飲み、私は自分の悲しみの重荷を下ろしたのであった。年齢の進みが母と私とをいっそう近づけるにつれて―(なぜなら、生涯の半ばを過ぎると、年とるにつれて、親子の年齢のへだたりは減るのだから)―母もまたじっさい、彼女の心配ごとを私にうち明けるようになった。そして、同じ心配を二人で共に悩むというその事実だけによってもお互いの心がなぐさめられた。病気と、生活の不如意と、そして「広場の市」の窒息的空気とに対して戦ったあのきびしかった十年間は、豊かな充実の時期でもあった。あの十年間に『クリストフ』という大河と、それの大きい支流である『ベートーヴェンの生涯』と『ミケランジェロの生涯』とが作られた。自由な創造の力が、母の愛の心に支持されながらはたらいた。私の書くものは、どれも皆、世に出るに先だって、私の母と妹を最初の読者とした。そして、よろめきながら河を渉った無分別な旅人を―『クリストフの姿』を―母が常にしとした、または理解した。とは私は言うまい。―(私の妹は、私の思想の底を、母よりももっと深く観抜いていた。)―しかし、母は終わりまでクリストフの旅路に同伴した。たしかにその理由は、この作品が私であり、そして母は私を信頼していたからである。
家族の者同士が互いにへつらうような家庭の中に私が生きていたと考えられてはならない。決してそんなことはなかった!或る家庭に見られるような、家の中での仲間ぼめは全然私の家のではなかった。私の家庭の者たちは、互いに最もきびしく批判した。私たちの愛している者たちの欠点や弱点やについて私たちの情愛が批判の目をくらますことはなかったし、愚劣だとさえ批判すべきものはそう批判したし、またそれらを口に出して言うことも互いに禁じはしなかった。(母も私も妹も、互いにそんなやり方において容赦がなかった。)互いの心をきずつけることを恐れなかったわけではないにしても、少なくとも、心に受けた傷が身のためになるまいと考えて恐れることは少しもなしに、われわれはそんなふうにふるまうことができたのである。なぜなら、われわれは互いに相手を大丈夫だと信じていたし、互いに理解していたのだから。自分が自分をちゃんと判断しているなら、他人に恨みをふくむことがどうしてあろうか?
クリストフが私たちを案内した長い航海のあいだに、私たちが大きな船の上で会話を交わしたとき、私たち―母と私と―は共に一つならず発見をした。クリストフに耳を傾けながら、母は自分の息子を探求した。そして私のほうでは、子供の私にとって堅固な鎧のように思われた。私の母の清教徒的厳格さの下に、今や一つの自由な精神を認めたが、それは、みずから自由だと思い込んでいる多くの人々の精神よりもいっそう自由なものであった。私は、偏見のない心を母に認めた。この心は、世間の偽善によって非難されているような感情でも、その感情が信実なものであれば、それに対して開かれており、またこの心は、人間の心情のいろいろの弱点と、そんな弱点の権利とを理解することを心得ていた。彼女は一人ならず若い婦人たちから深く慕われていたが、この人々は、年齢・国籍・民族・宗教・考え方から言うと万事私の母とは違っているように見える人々であったのに、母の心情の若々しさが、一人の年長の姉らしい寛容な眼ざしによってあの人々の心に沁み込んでいった。そして母がすでに亡い現在において、母への思い出が、今もあの人々を見守りつづけていることを私は知っている。私は、自分の金髪が白髪に変わって以後は、息子としてではなく友として、人生のいろいろの神秘や悩みを母と静かに話し合うことを、自分の奇妙な異常な楽しみとして持ったのである。私たちは互いに伴侶であった。そして二人のうち私のほうが年長の道づれであった。