ジャン・クリストフ 広場の市 “ジャンヌ・ダルク”的
WORKS EXCERPT
ある夕方、彼はサン・ミシェル橋の脇の欄干にひじをついて水面をながめたり、川端の手すりの上に店をひろげている古本屋の小さな箱から本を一冊取り上げて何気なくページをめくってみたりしていた。偶然にミシュレーの著書の一冊を手に取って開けたが、それはページがはずれたりちぎれたりしている本だった。この歴史家の書いたものをクリストフはすでにそれまでに少しばかり読んだことはあったが、この人のフランス流の大言壮語と、言葉に陶酔する癖と、感激調とがどうもあんまり気に入らなかった。しかしその夕方には、読み出した最初の数行によって早くも心をつかまれた。それはジャンヌ・ダルクの裁判の終結の箇所であった。クリストフはシラーの戯曲によってオルレアンの少女を知っていた。とはいえそのときまで彼女はクリストフにとっては、一人の偉大な詩人が空想によって生かしている小説じみたひとりの女主人公にすぎなかった。いま初めて突如と彼女のほんとうの現実が彼にわかってき、その現実が彼の心をつかんだ。崇高な物語の悲痛さに心を打たれながら彼は読みに読んだ。そしてジャンヌがその晩自分の死ぬことを知って恐怖のために気絶するところまで読み進んだとき、彼の両手はぶるぶるとふるえだし、涙にむせんで、もう読みつづけられなくなった。病気のために気が弱くなっていた。おかしなほど感じやすくなっていて、それが自分で腹だたしかった。――すっかり読んでしまおうと思ったとき、もう時刻がおそかったので古本屋は店をしめた。彼はその本を買おうときめた。ポケットのなかをさぐった。残っているお金は六スーだった。この程度に金がなくなることは珍しいことではなかった。そのことについては別にくよくよしなかった。彼は晩の食料を買ったところであった。そして明日になったらヘヒトのところで楽譜の清書の報酬としていくらかの金が得られるはずであった。だが明日まで待つというのがどうにも待ちどおしくてやりきれなかった! 残っていた少しの金でたったいま食料を買うことをしなければよかったのに! ああ! ポケットに入れているパンとソーセージとを本の代金として古本屋に取ってもらうことができたらどんなにいいか!
次の朝早くへヒトのところに行き金を受け取ろうと思って出かけた。しかし橋の近くを通り、その橋の名が戦闘の大天使〔サン・ミッシェル〕――ジャンヌの「天国のおける兄」――の名であると気づいたとき、彼はどうしてもそこで足をとめないではいられなくなった。彼はあのだいじな本が古本屋の箱のなかにあるのをふたたび見た。彼はそれをすっかり読んでしまった。そのために二時間近くかかった。ヘヒトとの面会時間におくれてしまった。そこで、そのあとへヒトに会うためにほとんど一日をとうとうむだにつぶしてしまった。結局新しい仕事を引き受けることができて、その報酬を支払われた。すぐさまあの本を買いにかけつけた。他の人に買われてしまいはしなかったかと心配でたまらなかった。たとい買われてしまったところで大した不幸ではないことは事実だった。同じ本の別のものを買うことはむつかしいことではなかったから。しかしクリストフにはこの本が手に入りにくい本か、そうでないかがわからないのだった。それに彼がほしいのは、彼が古本屋で見たまさにその書冊であった。書物を愛する人々はたいていみな拝仏教徒である。夢の泉がそのなかから湧き出たその本のページは、よしんばよごれたり班点がついたりしても彼らにとっては神聖なものである。
クリストフは家に帰って夜の静寂のなかで「ジャンヌの受難の福音書」をもう一度読んだ。そしてそのときはもう、わきにいる人々に気がねして自分の感動をおさえていなくてもよかった。
気の毒な羊飼いの少女にたいする愛と憐れみと限りない悲しさとが、クリストフの心をいっぱいに充たした。この羊飼いの少女は農婦の着る粗い布地の赤い服を着て、背丈が高くて、内気で、やわらかな声で話し、聖堂の鐘の音を聞くと夢みここちになり――(彼女もクリストフと同じように鐘の音が好きだった)――その美しい微笑にはこまやかな心ばえと親切心とがいっぱいにこもっており、いつでも涙がこぼれやすかった――愛の涙、憐れみの涙、気弱さの涙が。なぜならジャンヌは、ひじょうに雄々しいと同時に全く女らしかった。一団の群盗の荒っぽい意思を統率して、彼女の不屈の心と、女らしいやさしさと、柔和で強い恒常心とをもって、数ヶ月ものあいだ、独力で、しかもみんなに裏切られながら、僧侶たちと判官たちとの後押しする威嚇と偽善的策謀とを頓挫させたが、あの僧侶たちや判官たちは、血走っている眼の狼や狐みたいに彼女のまわりを取りかこんでいたのである。
クリストフをもっとも感動させたのは、彼女の親切心と、情ぶかさとであった。――彼女は戦いにうち勝った後で泣き、死んだ敵たちを悼んで泣き、彼女をののしり嘲った人々のため泣き、彼らが負傷したときにはその人々に慰めの言葉を言い、彼らが死んでいくときには看取りして力添えをし、彼女を見捨ててしまった人々をうらまず、彼女を焼き殺す火刑台の火が燃え立ったときにさえも、彼女の考えは自分のことではなくて彼女にせつに勧告した修道僧のこと――彼女が無理やりに自分の前から立ち去らせたその修道僧のことであった。彼女は「もっとも苛烈な戦闘をしながら柔和であり、悪意のある人々のただなかで善意を保ち、戦争そのもののなかで平和的であった。戦争という悪魔の勝利の状態へ彼女は神の霊を持ち込んだ。」
そしてクリストフは自分自身の心のなかに還ってこう考えた――
「私は神の霊を十分に持ちこまなかった」と。
彼はジャンヌの福音記者としてのミシュレーのみごとな言葉を再読した――
「人々の不正義と運命の苛酷さとのなかで善意をもつこと、どんなことがあっても善意的であること……おびただしい冷酷な言い争いのなかで柔和と心づくしとをけっしてなくさず、この内心の至宝にはどんな経験の指をもふれさせずに経験を通過していくこと……」
そしてクリストフは次の言葉をくりかえした――
「私はまちがったことをしていた。私は善意的でないことがあった。善意が私にたりなかった。私はあまりに無慈悲であった。――赦してくれたまえ。私が敵対して戦った君たちよ。私が君たちの敵であるとは信じないでくれたまえ! 私は君たちにもよいことをしたいと思っていたのだ……しかし君たちが悪いことをしようとすればそれを妨げなければならないのだ……」
そして彼は聖人ではなかったから、彼らのことを思い出すとまたしても憎しみが心にめざめるのはやむをえないことだった。彼らに彼がもっとも赦しかねるのは次のことのためであった。――彼らをながめ、彼らを通じてフランスという国をながめていると、純潔と雄々しい詩心とのこんな花がこんな国土にこのさき咲き出ることがあろうとはとても思えなくなる、そのことのためだった。しかも、あんな花が咲き出たことは現実上の事実だったのだ。そんな花がもう二度と咲かないだろうとは誰が言えようか? 現在のフランスがシャルル七世の時代のフランス――不面目な国、そのなかからジャンヌ・ダルクが立ち現れた、あの当時のフランスより劣っているはずはありえなかった。あのとき聖殿は荒れ、けがされ、なかば廃墟になっていた。それにもかかわらず、その場所で神が語ったのであった。
クリストフはフランスへの愛のために探し求めた――彼が愛さずにはいられないような一人のフランス人を。
家の中
この意味においてきわめていちじるしい実例は、クリストフとオリヴィエとが住んでいたアパートであった。これは、人の世の一縮図であり、正直で勤労的な一つの小さなフランスそのものであったが、それを作り上げていながらたがいに相違しているいろいろの要素を、相互に結合させている何ものもないのであった。古ぼけてぐらぐらする六階の建物であった。それは一方へ傾いていた。板張りの床は木材がはじけて割れる音を立て、天井は虫に食われていた。クリストフとオリヴェエとが住んでいる屋根裏部屋へは雨漏りがした。屋根をなんとか雨漏りがしない程度に修繕するために職人を呼ぶことにしないではいられなくなった。それらの職人がクリストフの頭の上で働いたりだべったりするのを彼は聞いた。その職人のうちの一人がクリストフをとくべつおもしろがらせ、またうるさがらせた。その男はひとりごとを言ったり、笑い声を立てたり、歌ったり、愚にもつかないことをしゃべったり、ばかげた節を口笛で吹き鳴らしたり、自分自身と会話をしてみたりすることを片ときもやめず、同時に仕事の手を休めなかった。彼は自分がすることを一つ一つ前ぶれしておかないでは何一つできなかった――
「おれはこれからまた一つ釘を打つぞ。おれの道具はどこへ行ったかな? おれは一つ釘を打つ。二つ打つ。鎚でもう一つたたくんだ! さあ、婆さん、もうそれでできあがりだよ……」
クリストフがピアノをひいていたときその男は一瞬間だまりこんで聞き耳を立てたが、それから今度は前より大きい音で口笛を鳴らしだした。ピアノの音に釣りこまれると、屋根を鎚でつよくたたいて拍子をとった。やりきれなくなったクリストフはとうとう椅子の上に上がって、屋根裏部屋の天窓から首を突き出して、うるさい男をどなりつけようとした。しかしその男が口にいっぱいくわえている釘のために頬をふくらまして屋根のてっぺんにまたがって、いかにも人の好さそうな陽気な顔つきをしているのを見るや、大声で笑いだしてしまった。するとその男も同様に大きな声をだして笑いはじめた。クリストフは腹を立てていたことはすっかり忘れてしまってしゃべりだした。自分がなぜ窓から首を出すにいたったかの理由を彼が思い出したのはもっと後のことだった。「ああ、そうだったっけ!」とクリストフは言った。――「ぼくはあなたに聞きたかったんですよ、ぼくがピアノをひくことがあなたにはうるさくないか、どうかを」
相手の職人は、うるさくないと確答した。しかし彼はクリストフに、もっと速い調子の曲をひいてくれと頼んだ。その理由は、クリストフがひいていた調子に合わせていると仕事がはかどらないというのだった。二人は善い友だちどうしになって別れた。この十五分間に二人が取り交わした言葉数は、クリストフが同じ建物に住んでいるすべての人々に半年のあいだに言った言葉数より多かった。
どの階にも二つの住居があり、そのうちの一つは三部屋をもち、他の一つは二部屋しかもたなかった。女中部屋は全くなかった。二つの住居を併せて借りている、一階と二階との借家人以外は、どの住居も女中なしの世帯だった。
六階のクリストフとオリヴィエとは同階の隣人としてコルネイユ神父をもっていた。この人は四十歳くらいの司祭で、がっしりとした体格、自由な精神と博識とのもちぬしであり、以前はある大きな神学校の聖書解釈の教授であったが、彼の近代主義的な精神のためにローマから近ごろを議決されたのであった。その譴責を、彼はだまって受け取った。結局のところ承服しなかったが、しかし少しも争おうとはしなかった。彼の説を公表する気なら発表の方法を提供しようとの申し出をことわり、さわがしい評判になることを避け、そして世間からさわがれるよりもむしろ自分の説が抹殺されることのほうを選んだ。こんな諦めのいい反逆者のというものがクリストフにはどうも合点がいかなかった。彼はその人と話し合ってみようとした。しかし司祭の態度ははなはだではあるがいつまでも冷やかだった。彼自身もっとも関心の深いことについては少しも話さず、生活の周りに壁を築いてそのなかへ閉じこもることに自分の尊厳を感じていた。
クリストフとオリヴィエとの住居と同じような住居にすんでいる下の階の人々のなかにエリー・エルスベルジェの一家族があった。技師である主人と、その妻と、そして七歳から十歳ぐらいの女の子が二人いた。上品で感じのいい人々だが、彼らは家のなかに引きこもって暮らしていた。それは主として彼らの不自由がちな身分を恥ずかしがってのためだった。それを恥ずかしがるわけはありはしないのに恥ずかしがっているのである。家政の面倒をいそいそと自分でやっている若い妻は、そのために世間にたいしては気おくれを感じがちになっていた。彼女は自分の世帯疲れを人から知られないのだったら、さらに二倍の疲れにも甘んじたであろう。これもまたクリストフにはどうしてもわかりにくい心理だった。彼らはフランス東部出身のプロテスタントの家庭の人々だった。この夫婦は数年前にドレフェス事件の熱狂的な思想の嵐に心をつかまれた。彼らはあの裁判の経過に熱中して、その熱心の度がほとんど狂乱にまで高まったが、これは七年間あの神聖なヒステリーの激しい嵐に吹かれた無数のフランス人のばあいとおなじだった。彼らはあのドレフェス事件のために彼らの安息を、彼らの身分や地位を、彼らの関係を犠牲にして省みなかった。彼らはそのためにだいじな友情も葬り、ほとんど健康をだいなしにさえした。数ヶ月間眠りをも食事をも取らず、一つの考えにかれている人間の頑固さをもって、同じ論拠をくりかえし巻きかえし述べたてた。議論によってたがいの興奮が高まっていった。自分がおかしなものに見えることを恥じたり恐れたりする彼らであるにもかかわらず、彼らは示威運動に参加し、集会において演説した。そんな場所から帰宅したとき、彼らの頭脳は熱し、彼らの心情は痛んでいた。そして夜には彼らはともに涙をながして泣いた。たたかいのために彼らは熱意熱情をあまりに多く費やしたので、いよいよ彼らの主張が勝利を得たときには、それを喜ぶだけの気力がもう彼らには残っていなかった。あらゆる力を投げ出してしまったために、その後は自分の生活にすっかりくたびれを感じていた。希望の性質がひじょうにけだかいものであり、献身の情熱がひどく純粋なものであったために、いざ現実上の勝利が来てみれば、その勝利は、彼らが夢み望んでいたものにくらべるとがっかりさせる性質のものだった。ただ一つの真理だけが心の全部を占めていたひたむきな魂の人々にとって、政治的な取引や、彼らが英雄視していた人々の妥協的なやり口はにがにがしい幻滅を感じさせるものだった。自分たちと同じようにひたすら正義のための熱意にうごかされているものとばかり彼らが信じていた人々、彼らのたたかいのであった人々が、ひとたび敵が敗退するやいなや、利権に飛びつき権力を独占し、栄誉と地位をかっぱらい、正義をふみにじるありさまを彼らは見た。ただ少数の人々だけが彼らの信念にたいする忠誠を捨てず、貧しい孤独の状態のなかにとどまり、どの政党からも拒絶されながら、彼らのほうでもあらゆる政党を拒絶して、世に知られない立場におり、また彼らどうしたがいに離れ離れに生きており、その心が悲哀と神経衰弱とにかみくだかれ、もはや何にも期待せず、人間たちにたいする嫌悪を感じ、生活のための疲労に打ちのめされていた。技師とその妻とはこんな種類の敗北者たちであった。
彼らは住居のなかで音もたてずひっそりと暮らしていた。隣人たちの生活を邪魔しないように病的なほどの気兼ねをもっており、それだけにまた自分たちの生活が隣人たちに邪魔されると彼らの苦痛は大きかったのだが、彼らはそれについて愚痴をこぼさないことを誇りとしていた。クリストフは二人の小さな娘を憐れに思った。彼女らははしゃぎたい元気や、大きな声を出したい気分や、はねまわって笑いたい気もちをいつでも抑えつけられていた。クリストフはこの二人の子らを大好きだった。そして階段の上り下りにこの子らに出くわすと彼はこの小さな隣人たちにいろいろと友情を示していた。初めのうちははにかんでいた子どもらはまもなくクリストフになじんだ。彼はいつでもこの子らに何かしらおもしろおかしい話をしてやったり、砂糖菓子を与えたりした。彼女らは両親にクリストフのことを話した。両親は最初のうちは、クリストフのこんな差し出がましい親切さを快く思わなかったが、やがて彼らのうるさい隣人――彼らの頭の上でこの隣人がピアノを鳴らしたり、がたがた音をたてたりするのを彼らは一度ならずいまいましがったのだが――の率直な態度に好意を感じだした。――(クリストフが音をたてるいわれは、部屋のなかで息のつけない気もちになると檻のなかの熊みたいに室内を歩きまわることにあった)――彼ら夫婦がクリストフと話し合うまでにはおいそれとはいかなかった。クリストフの態度にある農民じみて粗野なあるものが、ときどきエリー・エルスペルジェをびっくりさせ、しり込みさせた。この技師は、自分がそのなかにとじこもっている慎重な孤独の垣根をクリストフのために取りはずす気がしなかったが、しかしだめだった。愛情のこもった善意のまなざしで相手を見つめるこの人間クリストフの力づよい快活さには抵抗できなかった。つぎつぎと少しずつクリストフはこの隣人の技師からうちとけた談話を引き出した。エルスベルジェは、勇気がありながら無感動で、不機嫌なくせに克己的な、奇妙な人物であった。困難な生活を品位をもって持ちこたえていく力がありながら、発奮してその生活を変えるだけの力がなかった。この生活が彼の厭世観を正当づけてくれるために彼はこの生活に感謝しているというぐあいであった。ブラジルで有利な地位に就くことを彼は申し込まれたがそれをことわった。それは一つの企業を統裁する地位であった。ことわった理由は、家族の者らの健康をブラジルの風土が害することを恐れてだった。
「それなら、家族の方たちをここへ残していかれたらどうです」とクリストフは言った――
「あなたひとりでむこうへ行かれて、家族の方々のために幸運をつくられたらいいでしょう」
「家族をおいて行くんですって!」と技師は大声を出した――「あなたは子供をお持ちになったことがないからそんなことをおっしゃるんですよ」
「私ならたとい子供があったにしてもやはりそう考えますね」
「けっして私にはできないことです。それにこの国から離れるなんて!……いや、私はここで苦しんで暮らしているほうがましです」
祖国と家族への愛情が、ひたすらに不幸をともにすることにあるとする、こんな愛し方の流儀がクリストフには奇態に思われた。オリヴィエにはその流儀がよくわかっていた。
「考えてもみたまえ」とオリヴィエは言った。――「知人もない土地で、愛する者たちから遠く離れて死ぬかもしれないことを。……この怖ろしさにくらべたらどんなことでもまだしもましだ。それにまた、人間の短い寿命にとっては、そんなにやきもき骨折りをするのもむだなことだ……」
「いつでも死ぬことばかりを考えずにはいられないみたいだね!」とクリストフは言って両方の肩をうごかした。――「たとい君がいま言ったような死に方をすることになるとしても、自分の愛する者たちの幸福のためにたたかいながら死ぬのは、無感動のなかで生命が消えていくよりはいいではないか?」
技師の住居と同じ五階の小さなほうの住居にはオーベルという名の電気工が住んでいた。――この人が建物のなかで全く孤立的な暮らし方をしていたのは、ちっともこの人自身のではなかった。民衆の出であるこの人は、もはやふたたび民衆の階級のなかへ戻りたくない気もちが強かった。小柄で病身そうで、強ばっている感じの額の下で奥まった位置にある両眼の鋭くまっすぐな視線は、のように相手を刺すのであった。ブロンドの口びげ。皮肉そうな表情の口。軽く口笛を吹くような話しぶり。くすんだ声。首に巻きつけている絹の首巻。いつでものどを病んでいる。たえまなく煙草を吸うのでそののどがなおさら刺激されている。動作の活発さに熱病じみたところがあり、結核の体質であるうぬぼれと皮肉と苦味との混合の奥に、一つの熱心な、飛躍的な、素朴な精神がひそんでいるが、しかしこの精神は現実生活によってたえず幻滅を味わわされていた。彼はあるブルジョワの私生児だが、その父を全く知らず母の手に育てられたが、この母を彼は尊敬することがどうしてもできなかった。そのために彼は幼いころ、悲しいことやきたならしいことをたくさん見た。いろいろな職業をやり、フランスじゅうをたくさん旅行した。教育を身につけたい感心な志に駆られて、ひじょうな努力をして独学で勉強した。歴史、哲学、デカダンの詩人たちの著書など、あらゆるものを彼は読んだ。演劇、展覧会、音楽会など、すべてのことに精通していた。彼はの文学と思想とをひどく崇拝していた。それらが彼を魔力でつかんでいた。フランス革命の当初に市民層の精神を酔わせたような、漠然として熱烈なイデオロギーが彼の精神に沁みこんでいた。理性のと、無限の進歩と、――quo non ascendam?(私はどこまでも登るだろう)――地上における幸福の間近い完成状態と、全能の科学と、「神である人間」と、そして「人類」の長女であるフランスとを彼は確信していた。彼は熱心な、確信的な教権反対論者であり、あらゆる宗教を――とくにカトリック教を文盲主義だとみなして、司祭を、啓蒙の光のの敵だと思っていた。社会主義と個人主義と熱狂的愛国心とが、彼の脳裏のなかでたがいに衝突しながら同居していた。彼は精神においては博愛的人道主義であり、気質においては専制主義者であり、そして事実においてはアナーキストであった。傲慢な彼は、自分の教育のたりなさを自覚しており、人と話し合うときにはひじょうに用心ぶかかった。他人が彼に話すことから、知識を得て、この知識を有用に使いながらも、自分からすすんで他人に問い尋ねようとはしたくなかった。それをすることが彼には屈辱だと感じられた。さて彼の聡明さと器用さとがどんなに大きかったにせよ、それは彼の教育上の不足をすっかり補充することはできなかった。彼は文筆の仕事をしようと思っていた。教育のない多数のフランス人と同様に、彼も生まれつきいい文体の文章がかけるのだった。それにものを観察する力もあった。しかし考えが混乱していた。彼は自分がして書いた文章の数ページを、彼が信頼をかけていたある高名な新聞人に見せたが、一笑に付せられた。大いに屈辱を味わわされた彼は、その後は自分の書いているものについてはもう誰にも話さなかった。しかしいぜん書きつづけていた。これは彼にとって自己伝達の要求からでもあるし、また誇らしい一つの喜びでもあった。書いてもぜんぜん金にはならない、自分の雄弁な文章と自分の哲学思想に彼は大いに満足していた。現実生活から得ている彼のたくさんの所見にはすばらしいものがあったのに、彼はそれらを軽んじて文章には書かなかった。自分は哲学者だという自信にやたらに固執していて、社会劇や思想傾向にもとづく小説ばかりを書きたがった。彼は、解決のつかない諸問題をらくらくと解決し、ひとあしごとにアメリカ大陸を発見している気もちだった。やがて彼がアメリカ大陸はすでに発見されていることを知ると、そのために落胆を感じていささか苦虫を噛みつぶした。もう少しで彼は事情の背景にが隠されていると非難しかねなかた。彼の心は名声欲と献身の情熱との両方に燃え立っていたが、この情熱は己をどうつかったらいいのかがわからないために悩んでいた。えらい文筆家になること、そして彼の眼にこの世ならぬ威光につつまれて見えた、あの濫作する選良たちに仲間入りすることが、彼の理想の夢であると言ってよかった。希望の幻影を心に描き出したい欲望は強かったとはいえ、しかし、彼はまた十分に良識と諷刺感とをもっていたので、自分が望みの幸運を得られないことを覚っていた。しかし彼は、遠くから見る彼にいかにも輝かしく見えたの思想的雰囲気のなかにすくなくとも生活してみたかった。まことに無邪気なものだったこの憧れが彼に与えた損失は、彼が自分の階級にしたがって共存しなければならない人々とのつきあいが彼にとって愉快にかんじられないというそのことだった。そして彼が近づこうとこころみた市民層の社会は、彼に門戸を開かなかったために、彼は誰ともつきあいがないことになった。そんなわけでクリストフが彼と近づきになるためには何のもなかった。むしろクリストフは彼を避ける策をさっそく講じなければならなかった。そうしないとオーベルはクリストフのもとへ入りびたりになったことだろうから。音楽、演劇その他について話せる一人の芸術家を見つけたためにオーベルはあまりにも幸福な気もちだったのである。だがクリストフのほうではそのことにオーベルほどの興味を感じなかったのは当然である。民衆の出である人物と彼は芸術についてよりも民衆について話したかった。ところでそれはその話し相手がのぞまない話題であり、また彼がもはや話すだけのものをもたなくなっている話題であった。
階を下へ降りれば降りるほどクリストフと借家人たちとの関係はもちろんそれだけ疎遠であった。それにまた四階に住む人々と知り合いになるには、何かの秘法――「ひらけ、胡麻」が、必要であるらしかった。――一方の側には二人の婦人が住んでいたが、彼女らはすでに遠い以前の喪の悲しみからいつまでも離れずにいた。それは三十五歳のジェルマン夫人であり、夫と小さな娘とを喪っていまでは、亡き夫の母である信心ぶかい老夫人といっしょに全く引きこもって暮らしていた。――同じ階の別の側に住んでいるのは、年齢を見定めにくいが五十歳から六十歳のあいだの、ふしぎな人物で、この男は十歳ぐらいの小さな女の子を連れていた。禿頭で、よく手入れをしているみごとな髯をたくわえ、話しぶりが穏やかで、動作が洗練されており、のいい手をもっていた。彼はワトレ氏と呼ばれていた。彼はであり、革命家であり、外国人であるとのうわさだったが、生国がどこであるか確かなことは誰も知らず、たぶんロシア人かベルギー人だろうと思われていた。ところがじつは彼は北フランス人であり、それにいまではもう革命家だとも言えなかったが、しかし彼の過去の評判がいまでも彼についてまわっているのであった。1871年のパリ・コンミューンに加担したために死刑を宣告されて脱走したが、どんな手段で脱走したかは彼自身もほとんど覚えていなかった。そして十年ほどのあいだヨーロッパの所々方々で生活した。彼は、パリの騒動の期間中ばかりでなく、またその後は亡命の生活のなかで、それから次には、ふたたびフランスに還ってから、権力をすでに掌握している旧同志たちのなかで、そしてまた、あらゆる革命的諸党派の列に加わって、はなはだ多くの醜行を自分の目で見たために、革命的諸党派から退き、自分の確信を、けがれのないかたちで、しかしまた役には立たないままに、静かに心のなかに守りつづけていた。彼はたくさん読み、いくらか著述したが、それらの著書は穏やかな革命を煽っており、インドや極東などひじょうに遠方のアナーキズム運動の後継者らを支持しており――(すくなくともそう主張していた)――彼は「世界革命」に従事していると同時に、また他のいろいろな試み――それらも同様に普遍的な性質のものではあるがいっそう温和なかたちの試みに従事していた。すなわち、世界言語とか、音楽を民衆に教えるための新しい方法とかがそれであった。彼は同じアパートに住んでいる誰とも交際しなかった。家のなかで出会う人々にたいそうていねいに挨拶するだけであった。しかし彼は、自分の音楽方法論についてクリストフに数語を話すところまで乗り出してきた。これはクリストフにとっては興味のもっとも少ない話題であった。彼には、思想の記号はどうでもかまわないのであり、どんな表現法が採られるにせよ、つねに自分の心を表現することを達成するのが根本問題だった。しかし相手のワトレ氏は少しもひるまずに、自分の体系を、柔和な頑固さもって発明しつづけた。ワトレ氏についてはそれ以外のことを、クリストフは全く何も知ることができないのであった。それゆえその後、階段でワトレ氏に出くわすとクリストフは、いつでもその人にくっついて歩いている女の子に注目するためにだけ、立ちどまるのであった。それは金髪の子どもだった。貧血症で顔いろがわるく、眼が青く、横顔の輪郭はいくらかうるおいに欠けており、からだつきはきゃしゃで、病身そうに見え、顔の表情に活気がなかった。みんながそう思っているようにクリストフも、この少女をワトレの娘だと思っていた。この少女は労働者階級の家庭に生まれた孤児であり、流行した悪疫のためにその両親が死んだ後、子供が四、五歳のころに、ワトレ氏はこの子を引き取って養女にしたのだった。彼は貧しい子供たちにたいして、ほとんど無際限の愛情を感じていたのである。この人の心には,ヴァンサン・ド・ポールのそれに似ているある神秘的な愛情が生きていた。彼はすべての公式の慈善というものを信用せず、またいろいろの博愛事業団体の価値がどの程度のものか知っていたので、彼は独自に慈悲の行為をした。それを人に隠しておこなうことに心ひそかな楽しさを感じていた。人の役に立ちたいために医学を学んだ。同じ区のある労働者の家にある日彼が入って行くと、その家の人々が病気になっていた。彼はその人々を看病しはじめた。医学の知識をすでにいくらかもっていたので、それをもっと完全に究める勉強に着手した。一人の子供が病気で苦しむ様子を見ると彼はたまらない気がして、心を引き裂かれる思いだった。しかしまた、貧しい家の子供の病気を治すことに成功して、痩せた小さな顔の上に、よわよわしい微笑がはじめて浮かぶのをみると、彼はなんとも言えずにうれしかった!ワトレの心は融けてしまいそうだった。彼は天国にいるような数瞬間を味わった。自分が世話する子供たちのために感じさせられたあまりに多くのやるせなさを、この数瞬間のあいだ彼はすっかり忘れていることができた。それというのも世話される子供らが彼に感謝を示すことはめったになかった。アパートの門番の女は、靴のよごれているたくさんの人間が階段を上がっていくのを見て憤慨した。彼女はひどく愚痴をこぼした。家主は自分のアパートのなかでアナーキストたちがこんなにたびたび会合することに不安を感じて、そのことを口に出して言った。ワトレはその家から引っ越そうとも考えたが、彼には生活の仕方にいろいろと持ち前の小さな癖があるので、住居を変えることがおっくうだった。彼は柔和でしんねり強かった。それで家主のおもわくは受け流すことにした。
クリストフはワトレの信頼をいくらか得ることになったが、それはクリストフが子供たちに示した愛情のせいだった。二人とも子供を愛するということ――これが二人を結んだ絆だった。クリストフはワトレの小さな養女に出くわすたびに胸が締めつけられるような気になった。それは本能が無意識のうちに、姿の玄妙な似通いを感じるためだった。つまり、この小さな女の子を見るとクリストフは、遠い以前の初恋の人ザビーネの小さな娘を思いだすのだった。ザビーネという、あのはかない人のおもかげの、沈黙がちな優雅さがクリストフの心から消え去ることはなかった。それゆえ彼は顔色のすぐれない小さな娘に同情をもったが、この子がはねまわったり走ったりするのを見かけたことがなく、その声を聞いたこともほとんどなかった。この子は同じくらいの年ごろの友だちをもたず、いつでもひとりぼっちでだまっており、静かな遊びを音もたてずにしておもしろがっており、一つの人形か木片を持ち、唇を動かして全くで何かのおとぎ話を自分の心へ語っていた。この子は愛情を感じやすいくせに無関心だった。何かしらよそよそしいところがあり、つかみどころのないものがあった。しかし義父にはそんなことは問題ではなかった。彼はその子を愛しきっていた。ああ! こんなつかみにくい、なにかしらよそよそしいものは、われわれの肉親の子供たちにだっていつでもあるではないか?……クリストフは技師の家庭の娘たちをワトレの娘の友だちにしてみようとしてみた。しかしエルスペルジェの方からもワトレの方からも、いんぎんな、はっきりした拒絶に出会った。この人たちはそれぞれ自分の家族のなかにだけとじこもって、まるで地下に埋もれているようにして生きることを彼らの名誉としているらしかった。必要とあらば彼らはみな誰も、他人に助力する気持ちをいつでも用意していた。しかしまた誰しもが、自分は人から助力を必要とする人間だと思われはしないかという気づかいを持っていた。そしてどちらの側も同じ程度に自尊心が強く、生活状態の不安定な程度もまた同じだった。それゆえ、どちらかが先んじて他方への手を差し出そうと決心することはとてもありえないのだった。
三階の大きな住居はほとんどいつも空いていた。家主がそれを自分のために取っておいたが、彼がそこにいることはなかった。彼はもともと実業家だったが、資産が、前もって望んでいただけの金額にとどくと商売をさっぱりやめてしまっていた。彼は一年の大部分をパリ郊外の場所で暮らしていた。冬は南フランスの海岸のホテルで暮らし、夏はノルマンディーの海水浴場で過ごしていた。こんなふうにして多額でない金利によって生活していたが、そのため彼は、他人がしている豪華な生活をながめながら、また彼らのように徒然の生活を自分もしながら、自分はあまり金をかけずに豪華な生活の幻影を味わうことができた。
三階の小さなほうの住居は子供のない夫婦が借りて生活していた。それはアルノー夫妻であった。四十歳から四十五歳くらいの夫はあるの教授であった。講義と写本と補習授業とに時間を奪われて、自分の学位論文を書くことがどうしてもできずにいた。とうとうそれをあきらめていた。夫よりも十歳若い妻はしとやかな婦人であり極端に内気だった。夫妻ともに教養があって聡明で、たがいに大いに愛し合っていたが、他に知人がなく、家から出かけることがなかった。夫には暇がなかった。妻は時間をもて余していた。しかしこのけなげな婦人は、憂鬱な気分におそわれると勇敢に戦ってそれに打ち勝っていた。そして何よりもそれを自分以外の者に気づかれないようにしながら、できるだけ自分の教養を心がけて読書をし、自分の夫のためにノートを取ったり、夫のノートを書き写したり、夫の衣類をつくろったり、自分の服や帽子を自分で作ったりしていた。ときどきは劇場へ行ってみたかった。しかしアルノーはちっともその気がなかった。彼は夕方には疲れすぎていた。それで妻もあきらめるのだった。
この夫妻の大きな喜びは音楽であった。彼らは音楽を何よりも愛していた。夫は楽器を自分ではできなかった。そして妻はひけたのだがひこうとしなかった。たとい自分の夫の前であろうと他人の前でひくと、まるで子供みたいにしかひけなかった。しかし彼ら夫妻にとってはそれでも差し支えなかった。そして彼らがで表現するグルックとモーツァルトとベートーヴェンとが彼ら二人の友だった。彼らはこれらの音楽家たちの味わった苦悩を、深い愛のうちに共感していた。みごとな書物、よい本を夫婦でともに読むことも彼らの一つの幸福だった。しかし現代の文学書のなかには、そんなよい本がなかなか見つからなかった。作者たちは、名声も快楽も金もくれない人々、あの謙遜な読者たち――けっして社交界に顔を出さず、自分ではどこにも書いたものを発表せず、ひたすらに愛しながら沈黙している人々には無頓着だった。正直で宗教的な心をもっているこんな人々にあってはほとんど超自然的な性格を帯びる、芸術の無言の光明を夫婦がともに感じることだけでも十分に、この夫婦がたいへん孤独で、いくらかおしひしがれていて悲しくはあるが、幸福な生活をおちついてつづけていくための力になっていた。――(悲しくはあるが幸福だということは少しも矛盾ではない)――この夫妻はどちらも、彼らの社会的地位にくらべてはるかに優秀な存在だった。アルノー氏は思想家としてすぐれていた。しかし彼はその思想を書いて表現するだけの暇がなかったし、いまではそれを書く勇気をもたなかった。自分の論文や著述を世に出すにはそのためにあまりにも多くの運動をしなければならないのだった。そんなことは、するだけの価値もない骨折りであり、むだな虚栄心というものだった!……それにまたアルノー氏は、自分が愛している思想家たちに自分をくらべてみれば自分など取るに足りないと考えた! 彼は芸術のりっぱな作品をあまりにも愛していたために「芸術をやる」気がしなかった。「芸術をやる」という試みが彼としてはそれたことに思われ、おかしなことに感じられたのであろう。彼の運命的な役割は、芸術作品を人々に知られることにあると彼は考えていた。それで彼は自分の学生たちに自分の考えを手渡していた。学生たちは将来その考えにもとづいて著述することだろう。――もちろんその著述のなかに彼の名は出てこないのだろう!――彼は書物を買うために、彼としては不釣合いに多額の金を使っていた。いつでも貧しい人々がもっとも出しおしみしない人々である。彼らは自分が読む書物を、自分の金を出して買う。金持ち連中は、書物をただで手にいれることができない場合には自分の名誉をきずつけられたように感じる。アルノーは書物に金を使いすぎて破産しそうだった。そのことが彼の弱点であり、彼の悪徳だった。彼はそのことを恥ずかしく思い、妻に隠して言わなかった。だが妻はそれについて夫を責めはしなかった。妻も同じことをしただろうから。夫妻はイタリア旅行をする目的で貯金するつもりだった――彼らはその旅行を結局しないだろうことをあまりにもよく感じていた。そして彼らはどうしても貯金のできない彼らの無能を話し合って笑った。アルノーはあきらめながら自分の心をなぐさめる言葉を自分自身に言って聞かした。親愛な妻がいてくれるだけで十分ではないか。そして自分には、仕事の生活があり、精神的な喜びを感じられる生活があるではないか。自分にとっては――そして妻にとっても――これだけで十分ではないか?――妻は言った――「そのとおりです」と。彼女はあえて次のことは口に出さなかった。――彼女の夫がもう少しだけ世に認められることの喜びを味わうことができて、その名声の輝きがいくらか彼女の上にも照って、彼女の生活を明るくしてくれて、その恩恵がいくらか生活のなかにまで及ぶようだとうれしいだろう――精神的な喜びはたしかにすばらしいものだけれど、外からの光がいくぶん照ってくれれば、それもずいぶんいいだろう! しかし彼女はそんなことは少しも夫に言わなかった。彼女はたいそう内気だったからである。それにまた、夫が名声へ到達することをいまからのぞんだにしても有名になれるかどうかは確実ではない――いまではもう遅すぎる! そのことを彼女は知っていた……この夫妻にとっていちばん残念な気のすることは子供がないことだった。夫も妻もそれを口には出さなかった。そして両方で同じ思いを隠し合っているためにたがいの愛情がいっそう増した。この気の毒な二人の人はたがいに赦しを乞い合っているかのようであった。アルノー夫人は愛情ぶかい善意の人だったのでエルスペルジェ夫人と近づきになれるならなりたいと思っていた。しかし進んでそうするだけの勇気は出なかったし、またむこうから進んで近づいてくることもなかった。夫妻はクリストフと知りあいになりたかった。クリストフの音楽を遠くから聴いてそれに魅惑されていた。しかし夫妻のほうから出向くことはけっしてしなかったろう。――彼らにはそうするのがぶしつけに思われたからである。
二階の住居は全部フェリックス・ヴェイユ夫妻が借りて住んでいた。子供のない富裕なユダヤ人で、一年の半分はパリ近郊で田園生活をするのであった。このアパートには早や二十年も住んでいるが――(彼らの大きな財産にとってはるかにふさわしいアパートを見つけることは彼らにしてみればたやすいことだったのだろうが、彼らは長年住みついた習慣からそのままでそこに住んでいた。)――彼らはこの建物のなかで、いつもただ通りすがりの異邦人みたいだった。同じ建物に住む誰にもけっして言葉をかけなかった。そして彼らのことについては、彼らがこのアパートに移ってきた最初の日に人々が彼らについて知った以上のくわしいことは誰も知らなかった。とはいえ、彼らについてのうわさは、かえってそのためにいろいろと作り出されていた。この夫妻は人々から好意をもたれていなかった。そして確かにまた彼らは人々から好意を得ようとは少しもしないのだった。しかも彼らは、人々からもっとよく知られるだけの価値のある人物だった。夫妻ともにいちじるしく知性のあるすぐれた人々であった。六十歳ぐらいの年配の夫はアッシリア文化の学者であり、中央アジアでの著名な発掘によってたいそう有名になっていた。ユダヤ民族の大多数の知識人たちがそうであるように、その精神が知識欲に燃えながら広く開かれていて、専門の研究の分野に自分を局限せず、数限りのない関心と興味とをもっていて、芸術、社会問題、今日の思想のあらゆる形のあらわれに心を惹かれていた。それらのどれもが彼の関心の独占することはなかった。なぜならどれもが彼にはおもしろかったからであり、彼はどれか一つに熱中するということがなかった。彼はひじょうに知性的であった。あまりに知性的でありすぎた。あまりにも精神が自由なためにどんな絆によっても定着されず、彼が一方の手で建設したものをもう一方の手で破壊しようといつでも用意していた。じっさい彼は作品や理論によっていろいろ建設はしていたのであった。たくさん仕事をする力のある人だった。習慣により、精神上の衛生のために、彼は学問の野で自分の掘るべきを辛抱づよくまた深く掘りつづけていながら、自分のその仕事が有用な、役に立つものだとは考えていなかった。富裕であるという不幸がいつでも彼につきまとっていた。そのため彼は、生きるために戦う熱意を一度も感じたことはなく、東洋へ学問的研究の遠征をして、数年たつとそれにあきあきしてしまって以来はもうどんな公共の職掌につくことをも辞退していた。彼の個人的な研究の仕事以外では、それでも彼は明察をもって、現在緊急の諸問題に従事し、実際的に直接可能な社会改良や、フランスの一般教育の機構の改造に携わっていた。彼は自分の意見を次々と発表し、新思潮をつくり出していた。彼は知性の大きな機械を運転してみたが、たちまちそれにもあきてしまった。一度ならず彼は、彼の論証によって彼の主張へ傾いてきた人々を憤慨させる結果になったが、その理由は、彼がその同じ主張を次にはこの上もなく辛辣に、なきまでに批判したためである。故意にそうしたのではない。そうするのが彼の天性の要求であった。ひどく神経質で皮肉な彼は、ものごとや人々のおかしさを、苦しいほどの鋭さをもって見ぬくためにそれをだまっていることができにくいのだった。そしてある視覚によってながめるかあるいは拡大的にながめるかすれば、どんな立派な主義主張でも、どんな善い人でも、必ずおかしな側面が目につくものであるから、彼の皮肉はおそかれ早かれ発動することになった。そのために彼にはどうしても友人ができないのであった。彼自身としては人々に大いに好意的でありたかった。じっさい好意を尽くしもした。しかし人々はそれを彼にたいして感謝する気になれなかった。彼から好意を受けた人々自身、自分たちが彼から滑稽視されたことを赦せない気もちを心ひそかに抱いていた。彼が人々を愛するためには彼らをあまり過度に観察しすぎないとちょうどよかった。彼が厭人家だったというわけではない。人間嫌いの役割を演じる自信には欠けていた。彼が皮肉をもって取り扱う世間にたいして彼は小心だった。結局のところでは、自分よりも世間のほうに道理があるのではないかとのおそれを彼は感じないではいなかった。自分を他人と違いすぎている人間だとは見せないように心がけた。自分の流儀や意見の外観が他の人々のとそっくりのものに見えるように苦心した。だが無益だった。人々を判断するのをやめることは彼にはできなかった。あらゆる鼓張や、素直でないものにたいして彼は敏感だった。そしてそれを感じたときのいらだたしさを押しかくすことがどうしてもできなかった。とりわけユダヤ人たちのおかしさを彼は感じやすかった。ユダヤ人たちを彼が人一倍よく知っているからだった。そして彼の精神の自由さは諸民族間の差別に拘泥するすることを彼に許さなかったにもかかわらず、かれはときどき、他の諸民族の人々に彼自身を対立させる障壁に突き当たるのだった。また彼自身がキリスト教的な考えをもっているにもかかわらずキリスト教的な考えの中で自己を異邦人のように感じることがあった。そんな理由から、彼は品位を持して、自分の逆説的な苦心をこめる仕事と、そして自分の妻にたいする深い愛情とのなかへひっこんで暮らしていた。
もっと悪いことは、彼自身の妻が、彼の皮肉を浴びないではいないことだった。善良で、活動的で、他人の役に立ちたく思うこの夫人は、いつでも慈善事業のために多忙であった。夫よりもはるかに単純な性質である彼女は、彼女の道徳的善意と、そして彼女が義務ということについてもっている、いささか堅苦しくて知的な、しかしたいそうな考えに没頭していた。子供もなく、大きい喜びも大きい愛もない、かなりさびしい彼女の生活全体が、この道徳的信念の上に築かれていたが、この信念というものは、とりわけ、信じたい一つの意志なのであった。この信念のなかにある意志的なごまかしの部分を、夫の皮肉な精神は感づかないではいられず、そしてそれを指摘して夫人にいやな思いをさせることを彼としてはどうしても制しきれないのだった。かれはいろいろな矛盾のかたまりみたいな人物だった。彼が義務について抱いている感情は夫人のそれに劣らず高尚なものだったが、それと同時にまた彼には、容赦なく分析し、批判したい欲望がはたらき、心の眼をごまかされたくない要求があって、これが彼に彼の道徳律を寸断させ、ばらばらにさせてしまう結果になっていた。妻の精神の歩みの土台を、彼は自分がくつがえしていることに自分で気づかなかった。無慈悲なやり方で妻を意気沮喪させていた。それに自分が気づくことがあると彼はそのために妻以上の悩みを味わった。しかしすでに後の祭りで、後悔先に立たずだった。とはいえ夫妻はやはり心から愛し合っており、熱心に仕事をつづけ、慈善をしつづけていた。だが世間の目からは、夫人の品格に冷たいところがあると見られ、夫の精神は皮肉であると見られていた。そして夫妻は自分たちの実行している慈善や、または善行をしたい彼らの欲求を自分たちから吹聴するにしてはあまりにも自尊心のつよい人々だったために、世人は彼らの控えめな態度を冷淡さだと思い、彼の孤独を利己主義だと見た。そして彼らは、世間からそんなふうに見られていると感じれば感じるほど、その見方を自分たちのほうから論破しようとはぜんぜんしないように心がけていた。彼らの属しているユダヤ民族の他の多くの人々が粗野に無遠慮であることへの反動から、彼らは極度に控えめな態度を持してそのための犠牲者にまでなっていたが、彼らのこの控えめのなかにはなかなか多くのが隠れていた。
小さな庭の地面からは数段の石段を上るだけ高まっている一階には、シャブラン少佐が住んでいた。この人は、植民地砲兵隊の士官だったがいまは退役していた。まだ老人とは言えない、たいそうたくましいこの人物は、スーダンとマダガスカルとで々たる武勲を立てた経歴をもっていた。その後突如として退役し、この場所で世に埋もれた暮らし方をし、軍隊のことはもういっさいんじてしまって、花壇を作ってその土を掘り返したり、いくら練習してもうまく吹けないフリュートを勉強したり、政治の現状にたいしてぶつぶつ不平を言ったり、そして彼がひどくかわいがっている娘を叱りとばしてみたりして日を送っていた。彼の娘というのはあまり美しくはないが感じのいい三十歳ぐらいの若い婦人で、父のために献身しており、父を見捨てて行きたくないために未婚であった。クリストフは自分の部屋の窓に寄りかかって見下ろすとき、たびたびこの父と娘とを見た。そして彼の注意が父よりも娘のほうに向くことはもちろんであった。彼女は午後の時間に庭に出て過ごすことがつねだった。そこで縫いものをしたり、ぼんやりと考えにふけったり、花壇の手入れをしたりしていたが、ぶつぶつ小言を言う父親を相手にしていつでもいい機嫌だった。並木道の砂利を踏んで行きつ戻りつする、引きずるような足音をたえず立てながら命令口調でものをいう退役士官の叱るような声に、朗らかな口調で答えている彼女の静かな明るい声がクリストフの耳に聞こえてきた。それから父は屋内に入り、娘が居残って、庭のベンチに腰をかけて、数時間も縫いものをつづけながら、動かず話さず、ぼんやりと微笑をたたえていたが、その間に室内では、閑散な退役士官が、フリュートを吹くことに苦心してかん高い声を立てたり、あるいは、目先を変えて、息切れのするオルガンを拙くひいたりしていたが、それがクリストフを――(時に応じて)――おもしろがらせもし、またうるさがらせもした。
こんなすべての人々が、世間の風の当たらない、とざされた庭のある家のなかに相並んで生活し、また彼ら相互が密封されているようにそれぞれ閉じこもっていた。ただクリストフだけが、あり余る生命のに場所を与えたい要求から、彼ら全部の人々を、彼の、盲目的であって透視的な、広い共感をもってしていたが、その人々のほうではそんなことを知らずにいた。クリストフはその人々を理解してはいなかった。彼らを理解する手段が彼にはなかった。オリヴィエは他人の心を理解してつかむ知能をもっていたがクリストフにはそれがなかった。しかし彼は人々を愛していた。彼は本能力によって、その人々の立場へ自分を置いてみていた。徐々にクリストフの心のなかへ、隣接していながら遠いこれらの人々の生活意識がおぼろげながらにふしぎな放射力によって浮かび上がってきた。――喪のなかにいる婦人の、悲しみのあまりにけている心もち。神父の、ユダヤ人の、技師の、革命家の、自尊心に支えられている思想の克己的な沈黙。アルノー夫妻の二つの心も音もなく燃やしつくしている愛情と信仰との、青ざめて柔和な炎。庶民的な人間が感じている、啓蒙的な光への素朴な憧れ。退役士官が自分の心のなかに抑えつけている反抗心と、そして無益なの活動。そしてリラの花蔭で夢みがちな空想に沈んでいる娘の静かなあきらめ心。しかしこれらのいろいろな魂の無言の音楽を聴き取ることはただクリストフだけにできたのである。彼ら自身それを聴きとっていなかった。一人一人がそれぞれの悲しみと夢とのなかに沈みこんでいた。
とにかくみんなが仕事をしていた――懐疑家である老科学者も、厭世家である技師も、神父も、アナーキストも、これらすべての、自尊心のつよい、あるいは落胆している人々が。そして屋根の上ではが歌っていた。